海の幻影

秋葵猫丸

序沫


「おにいちゃん、海ってどこまで続いてるの?」


 ピンクみたいな、オレンジみたいな。むらさきみたいな。夕暮れ時の不思議な空に、白色のカモメが飛んでいる。「退屈」なんて言葉も知らないように、気持ちよさそうに羽を伸ばして。

「男の子」と呼ぶには大きな体躯をしている少年は、そんなカモメを柔和そうな表情で眺めながら、穏やかな波の音を聴いている。

 その隣には、「少女」と呼ぶには些か小さい幼女が、足元に広がる藍色の水を仰々しい目で見つめている。お気に入りの水玉ワンピースが汚れるのも厭わず、石造りの堤防に腰掛けて。

「とっても深いところまでだよ」

「私の背よりも?」

凪砂なぎさはまだ小さいじゃないか」

「おにいちゃんの背よりも?」

「うん。僕の身長よりもずっと、ずーっと」

 私はおにいちゃんの背を見上げた。おにいちゃんの背中はとっても広くて、おにいちゃんの背は私よりもずっと、ずーっと高い。

「落ちたらどうなるの?戻ってこれるの?」

「戻ってこれないんじゃないかな」

「……私、海が怖い」 

 おにいちゃんの大きな腕にしがみつく。今にも泣き出しそうな妹に、おにいちゃんは『大丈夫だよ』と笑って、

「そのときは、僕が助けてあげる」

 おにいちゃんの手が、私の頭に伸びる。

 私の頭を撫でてくれるおにいちゃんの笑う顔は、私が見たことのある何よりも、優しいものだった。

 「大丈夫だよ。凪砂なぎさがどこにいたとしても、絶対に迎えに行くよ。たとえそれが、真っ暗な深海の底だとしても…」


 暗闇の向こうで、お母さんの怒鳴り声がする。

「お前がいなければ、お兄ちゃんは死ななかった!この人殺し!お前なんかいなければよかったのに…!」

 そんなことを繰り返し喚きながら、家具を蹴り、食器を割り、部屋を荒らす。

 頬が痛い。手で触ると、さっきお母さんに殴られた部位だけが膨れ上がっている。

 いつお母さんの暴力が飛ぶか分からない家の中でも、この押し入れに隠れていれば安心だ。この暗闇だけが、暴れるお母さんから私を守ってくれる。

 悲鳴にも似た怒号を壁越しに聞きながら、私は体操座りの体勢になって、洗濯不足で薄汚れたシャツの袖を、ぎゅっと握ってうずくまる。

 そして、闇の中でいつも、ここにはいない誰かに話しかける。



 おにいちゃん、なんで私のことなんか助けたの?

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