ぬか床ぬか子の笑みと生意気

西奈 りゆ

同居人

数週間前から、変な感じはしていたのだ。


例えば、引き出しの2番目にあったはずのものが、3段目にすり替わっていたりする。わたしは几帳面なほうなので、物は決まった場所にないと気が済まないのにもかかわらず。


例えば、朝7時になると、セットした覚えのないアラームが鳴り響いたりする。

特段やることのないわたしが何時に起きようがどうでもいいのだが、そのせいでこのところ毎日安眠という名の惰眠が妨げられている。大変迷惑だ。


かと思えば、脱ぎ散らかした衣類が丁寧に畳まれていたり、酒の缶が潰してあったりする。わたしは几帳面だが酒が入るとずぼらなのに、酒が入るとかえって部屋が整頓してあったりする。


これらの怪現象に共通していたのは、決まって何か、アルコールのような、ときには甘い独特な匂いがかすかに漂っていたことだ。


思い過ごし、勘違いで済ませてきたものが疑念に代わり、そろそろ不気味さを感じていたところ、喜ばしいことにその正体が判明した。

ヒマを持て余した、ぬか床ぬか子の仕業だったのである。どうりで、部屋に残り香がするわけだ。


ぬか床ぬか子は、よく笑う。そして少し、生意気である。

そんなぬか床ぬか子との出会いは、つい先日のことだった。


ぬか床ぬか子は、ぬか床の壺に隠れていた。

賃貸物件に住んでいるので匂いが漏れたら大変だと、ぬかをタッパーに入れて冷蔵庫に移そうとしたら、中ですやすや眠っていた。本人曰く、見つかったのは「不覚だった」らしい。

このぬか床は、先日よりさらに先日。実家に帰った際に、わたしのあまりの不摂生ぶりを見かねた祖母に押し付けられた、不本意なもらいものである。


細い神経をすり減らして糸よりも細くなったとき、とうとうわたしは会社を辞めた。

給与面だけでみれば損をしたと思えなくもないが、割に合わなかったのだ。


ぬか床ぬか子は、縮緬ちりめんの着物を着た、おかっぱでキツネ目の、20cmくらいの女の子である。小さな子どものようにも、少女のようにも見える。会社に勤めたこともないだろうに、退職の話をしたら、「そういうことは、早いほうがいいですから」などと、知ったようなことをいう。


「勤めたこともないくせに」というと、「それはあなたのあずかり知らぬことです」などと澄ました顔で言うので、わたしは苦虫を噛むようにしてぬか漬けをかじる他なかった。ぬか床ぬか子は、小食である。味見皿によそったちんまりとしたご飯と、切ったぬか漬けをよそっておけば、持参のはしで丁寧に咀嚼し、ごちそう様でしたとあいさつをする。水は飲んでいるのかもしれないが、見たことがない。ちなみに、皿洗いはわたしの仕事である。


ぬか床ぬか子は、わたしの命名がお気に召さないらしい。「ちとせとかにしてもらえませんか」と、これまた生意気なことをいう。ぬか床ぬか子は確かに可愛らしい顔をしているので、そうした可愛らしい名前は、なるほど、よく似合う。一瞬迷ったものの、わたしは自分の思い付きが気に入ったので、そちらを押し通した。

ぬか床ぬか子は最初、「なんて語彙のない」などとぶつぶつ言っていたが、今では本人もその名称を受け入れている。


ぬか床ぬか子は、ぬか床を助ける仕事をしているという。つまり、わたしが死なせかけたぬか床を修復しに、わざわざここまでやってきたのだという。

なるほど、飽き性のわたしは最初の3日でぬか床の世話を放棄していて、そのうち水が浮いて、薬品のような匂いまでしてきた。タッパーに移そうとしたのも、正直なところそのまま捨てるためだったのだが、全部のぬか床を抜き取ると、奥できゅうりをまくらに眠っていたのが、ぬか床ぬか子だったのだ。


「ああ、疲れた・・・・・・」


「おかえりなさい」


新しく見つけた派遣の現場でこき使われて返ってくると、テーブルの上でぬか床ぬか子がちんまりと座っていた。なんと、テレビを見ていた。

とはいえ、もう今となってはいつもの光景なので、いちいち目くじらを立てない。

ぬか床ぬか子が好むのは昼ドラだが、動物ドキュメンタリーを一番愛している。

一昨日はカンガルーの子育てを見てなぜか号泣し、昨日は木から落ちるコアラを見てころころ笑っていた。


ぬか床ぬか子がやってきたであろう辺りから、なるほど、ぬか床の具合は良好である。生き物なのだなぁと思う反面、それまでの自分の仕打ちが申し訳なくなってきた。目下、「見つかってしまったなら仕方ないです」というぬか床ぬか子の指導のもと、格闘中である。「ああ、そんなに乱暴にしてはなりません。梨花りかさんにも、労わりの気持ちくらいあるでしょう。手を抜いてはいけません。手抜きは心の怠慢です」などと、容赦がない。それでいてニコニコしているのだから、案外 Sっ気があるのかもしれない。それでもどうにかこうにか、だんだんわたしもコツをつかんできた。そうして、ひと月が過ぎた。


その日も、もったりとした味噌のようなかたまりを手でみっちりかき混ぜていた。そして、キャベツの芯がついたビニール手袋を外していると、ぬか本ぬか子が横から声をかけてきた。


「梨花さん、少しは上手くなりましたね。じゃあ、わたしは次に行きます」


拍子抜けするくらい、あっさりとしたお別れ宣言である。

けれど、仕方のないことである。全国にはぬか床ぬか子の言うところの、「重病人」がたくさんいるのだから。


「そっか。寂しくなるね」


「わたしもです。 梨花さんはまだ若いんですから、友達でも恋人でも作ってください」


目じりに浮かんできた涙を悟られまいと、「生意気」と言ってみる。


「そんなの大人になるとね、簡単にはできないんだよ」


「きちんとしたものを、きちんと食べていれば大丈夫ですよ」


相変わらずニコニコとして言うぬか床ぬか子は、したり顔で、分かったような分からないようなことを言う。ぬか床ぬか子は、やっぱり生意気だ。

やっぱり生意気で、きっとずっと優しかった。


いそいそと草鞋わらじを履きながら、「ああ、それと」と、ぬか床ぬか子が言った。


「何?」


「馬鹿な男に引っ掛からないでください。馬鹿は馬鹿ひとりで、勝手に滅んでいればいいんです」


最後の最後に思いがけない毒舌をかますぬか床ぬか子に、堪らずわたしは爆笑してしまった。本人はいたってマジメな顔である。


「あのさあ、その『馬鹿な男』って、どんな男なのよ? ぬか床ぬか子に分かるの?」


「分かりますよ。梨花さんみたいな人を、大事にしない人です」


キツネ目をいっそう細めて笑ったぬか床ぬか子は、そう言ってわたしの前から消えた。



「世の中、不思議なことがあるもんだね」


かぶの床漬けをぽりぽちかじりながら、向かいの有希ゆきが感心したように言う。


「わたしとしては、逆戻りする梨花さんのほうが不思議です」


これは、真ん中の席に座るぬか床ぬか子の発言だ。


「はいはい。どーせわたしは仕事も男運もありませんよーだ」


出張でしばらく家を空けて、間が悪いことに失恋も重なって、他意はないけれどぬか床を放置していたら、大ダメージを受けていた。

本やネットでああでもない、こうでもないと試行錯誤していると、「またやってるんですか」と、後ろから声をかけられたのは、これも先日のことだ。


「梨花さんはいっそ、ぬか床を大事にしてくれる恋人でも作ったほうがいいんです」


「おお、言うね、ぬか子ちゃん!」


3本目の缶ビールを空けた有希は、ゲラゲラと笑っている。

わたしは非常に面白くないので、酔った勢いで反撃に出ることにした。


「そういうぬか床ぬか子はどうなのよ! さんざん人にどうこう言っておいて、浮いた話のひとつやふたつでもあるの!?」


「え・・・・・・」


ぬか床ぬか子の手から、箸が滑り落ちた。

頬が心なしか、赤らんでいる。ちなみに、ぬか本ぬか子は下戸げこである。


これは、地雷か、それとも・・・・・・。

わたしと有希は、ニヤリと顔を見合わせた。


夜はまだ、始まったばかりだ。


2024.7.23 誤字訂正しました💦













  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぬか床ぬか子の笑みと生意気 西奈 りゆ @mizukase_riyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ