ひたすらに落ちる

 とぷん、と小さな音を立てて、鞠亜の身体が沈む。

 中は普通の水よりも粘度のある水で満たされ、丁度人と同じくらいの温もりを持っていた。


 ゆっくりと自分の身体が沈んでいく感触。

 けれどいつまで待っても、底のコンクリートには触れられない。

 底のない闇でも、不安は感じなかった。

 どこまでも広がる闇が温かくを受け止めてくれる気がして、心地よかったのだ。


 そっと目を開けると、やはり広がるのは無。

 光もなく、奥行きもなく、自分がどっちを向いているかすらわからなくなりそうになる。


 この闇の中から落とし物を探すのは、容易ではなさそうだ。

 なんてことすら、鞠亜には考えられなかった。

 重い水をかこうと手を伸ばすことも、できなかった。


 なぜかはわからないが、身体が動かなかったのだ。

 質量のない水に、そっと抑え込まれているように。


(……まぁ、いっか)


 普通なら焦るはずなのに。

 身体に思考が引きずられるように、そう思えてしまった。

 全身の力を抜いて、目を閉じる。

 何の抵抗もせず、ただひたすらに沈み続けた。



 ――心地良い闇に、全身を預けていたはずなのに。

 ある瞬間になんの前触れもなく、ふっと瞼の向こうに色が見えた。

 身体を包む温かさも嘘のように消え、冷たい空気が鞠亜の頬を叩く。


 目を開くと、広がるのは中庭の光景。

 鞠亜は深淵の縁に、ぺたりと座り込んでいた。

 肌も服も、髪も濡れていない。


 自分が暗闇に飛び込んだとは到底思えないほど、普段通りだった。

 さっきまで感じていた優しさは、確かに残っているのに。


「あれ……?」


 ふっと、暗闇に色が見えた気がした。

 目を向けると池の中心に――花の蕾のようなものが浮かんでいるのが見えた。

 ぷっくりと膨らんだ桃色の蕾が、ゆっくりと花開いていく。

 淡い桃色を多重に重ねた美しい花は、その姿をはっきりと見せる前に、深淵に沈んでいった。


「……帰ろ」


 呆然と消えていく花を見届けて、鞠亜はぽつりと呟いた。

 深淵の横を通り過ぎ、中庭を出ようとして――何となく、後ろを振り返る。


 池いっぱいに溜まった闇は、ずるずるとかさを減らしていた。






 もう嫌だ、学校なんて休んでやろう。

 何て思っていたはずなのに。


 翌日、鞠亜は普段通りの時間に登校した。

 憂鬱な気持ちなど一切なく、何もかもが普段通りだった。


「おはよう」


「あ、鞠ーっ!!」


 教室に入るなり、友人が駆け寄って来る。

 平常の鞠亜とは対照的に、心配そうな顔をしている。

 鞠亜の様子を伺いながら、言い辛そうに口を開いた。


「ね、ねぇ鞠、昨日って……」


 彼が鞠亜ではない誰かの告白を受けたことを、とうに知っているのだろう。

 注目の的のような人だ。噂が風すら追い越す勢いで広まるのは容易に想像できる。


「そんなに気使わないでよ。凹んでないから」


 口角を持ち上げて笑みを作り、友人を安心させるように言った。

 無理して笑ったわけではない。

 鞠亜以上に暗い顔をしているのが、可笑しいと思ってしまった。


「え……、そうなの? 鞠、絶対気にしてると思った」


「ううん、全く」


 首を横に振る鞠亜に、友人はぱちぱちと目を瞬かせた。

「気にならないの?」と、むしろ心配するように聞いてくる。

 安心させたつもりだったのに、不思議そうな目を向けられる。

 じっとその視線を受け止めていた鞠亜は、小さく首を傾げた。


「ならないよ」


「どうして? あんなに好きだったじゃん」


 友人は少し衝撃を受けたような、悲しそうな顔をした。

 沢山話を聞いて、沢山相談に乗ってくれていたからだろうか。

 自分が関与した花が開くのを、密かに楽しみにしていたのかもしれない。


「……そうだっけ?」


 なのに鞠亜は、まるで始めから花の種などなかったかのように言った。


「そっか……」


 鞠亜の瞳をじっと見つめていた友人が、静かに目を逸らす。

 底の見えない、深い深い瞳の奥には――どれだけ探っても、恋心の花弁すら見つけられそうになかった。

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深淵と恋をする 天井 萌花 @amaimoca

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