深淵と恋をする

天井 萌花

目と目が合ったから

 2月の空気はからっと乾いていて、ひたすらに冷たさを抱いている。

 湿度も温度も自分に寄りそうつもりはなさそうで、鞠亜まりあははーっと溜息を吐いた。


 ひゅーっとこの間の大雪を思わせる風が吹いて、慌ててコートのボタンを閉める。

 簡単な作業なのに、かじかんだ指先、それも片手に箱を持った状態では中々難しい。

 上手くいかない苛立ちが惨めさを加速させた。


「……もう、ちょっとくらいまりを慰めようとか思わないわけ!?」


 八つ当たり気味に言った鞠亜は、ぐいと瞳に溜まった涙を拭った。


 少し錆びた格子のドアを開けて、静かな中庭に足を踏み入れる。

 放課後、それもこんな寒い日。

 バレンタインの非日常感も覚めてきた、2月14日午後5時。

 当然そこには誰もおらず、春を待つ大きな桜の木だけが寂しそうに立っていた。


 何年も前に水を抜かれてしまったらしい、小さな人口池を通り過ぎる。

 むき出しのコンクリートには草のひとつも生えておらず、いやに寒そうに見えた。


 桜の木の下に膝を丸めて腰かける。


 この木は、中々に不思議な桜だった。

 春になると、枝いっぱいに綺麗な花を咲かせる。

 しかしその花弁が桜色の雨を降らす姿は、誰1人見たことがないのだ。


 満開になった翌日には、寄り添い合った花達が跡形もなく消えている。

 まるで自分の意思で、姿を眩ませたように。

 夜の間に、どこかへ行ってしまうのだ。


 そんな不思議は桜の木なら、鞠亜を慰めてくれる気がした。

 真冬の空気とは違って、春のように暖かく寄り添ってくれると思った。


 身体も丸めてうずくまると、拭ったはずの涙が溢れてくる。

 バレンタインの日に、なぜ1人でこんなところで泣いているのか。

 その理由は勿論――失恋だ。


 鞠亜は今日、1年近く育ててきた想いを咲かせようとした。

 相手は隣のクラスの男子。サッカー部のキャプテンをしていて、顔立ちが整っている。

 おまけに頭も良いという完璧さで……言うまでもなく、物凄くモテる人だった。


「……ライバルが多いのは、わかってたけどさぁー!」


 震えを誤魔化すように、鞠亜はわざと大きな声を出す。

 勿論、彼を好きな人が多くいるのはわかっていた。

 けれど彼が誰かの告白を了承するとは、つゆほども思っていなかったのだ。


 希望的観測。都合のよい妄想。わかっている。

 わかっているのに、心のどこかで楽観していたのかもしれない。


 乾いた空気に溶け込むように、意外にも涙はすぐに止まった。

 ゆっくりと顔を上げ、持っていた小さな箱を見つめる。

 手のひらより少し大きいくらいで、お洒落な包装紙とリボンで飾られた――昨夜想いを込めて作ったチョコレート。


 これを渡して好きだと、付き合ってほしいと伝えるはずだったのに……咲ける日を待っていた蕾は、開花を試みる前に抑え込まれてしまった。

 いっぱいの勇気を身に着けて隣のクラスに行ったら――丁度、彼が誰かに告白されていたのだ。


 窓の閉め切られた教室の中を、ドアの隙間からそっと覗くと。

 頬を染めて、照れたように笑う彼の横顔が目に入った。


 鞠亜の気持ちなど知らずに、彼は誰かの告白を了承したのだ。


 目の前で、好きな人に恋人ができてしまった。

 恋心を表に出すことすらないまま、失恋してしまった。

 その衝撃は、かなり耐え難い物だった。


「はぁー最悪! 昨日の頑張り返してよ!!」


 大きな声で吐き出したら、少しは気が晴れるだろうか。

 期待して叫んだ鞠亜は、大事に握っていた箱をぽいと放った。

 とりあえず横に置いておいて、帰りに拾って帰る――つもりだったのに。


「あ……」


 こつんっと角を地面にぶつけた箱が、小さく跳ねる。

 ころころとぎこちなく転がった箱は――人口池に落ちた。


 とぷん、と小さな音を立てて、水中に沈んでいく。

 ――水など、張られていないはずなのに。


「何で!?」


 慌てて立ち上がった鞠亜は、今度は池のへりギリギリでしゃがんだ。

 丸い池には、すれすれまで水が張ってある。

 黒々として見える水は、柔らかな陽光を吸収したっきり、全く反射してこない。

 箱が呼んだ波紋はとうに収まって、水面はしんと静まりかえっていた。


「水……? さっきまでなかったよね?」


 横を通った時は、確かに水は張っていなかった。

 あの時見たコンクリートの肌は、覗き込んでも影すら見えない。

 どこまでも、どこまでも、まるで底などないかのように。

 池の中には、完全な無が溜まっていた。


 多分、水ではない。

 ただ水が張っているだけなら、底が見えるはずだ。

 となるとこれは何だろうか。

 鞠亜が知っている言葉に、イメージで当てはめるとすれば――


「――深淵?」


 深淵、という言葉の似合う奈落だった。


 しばし無言で深淵を見つめる。

 目を凝らして闇を掘る。

 それでもやはり底など見出すことはできなくて――いつまで経っても、目を逸らすことができなかった。


「……」


 “深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ”

 とは、よく言ったものだ。


 深淵に目など存在しないはず。

 なのにバチッと目があったかのように、逸らすことができない。


 深淵が、じっとこちらを見てくるような気がしたのだ。

 その視線が、静かに鞠亜を呼んでいる気がしたのだ。

 普通なら恐怖を感じるはずなのに、心に沸いたのは全く別の感情だった。


 それは――純粋で前向きな、深淵への興味。


 突如現れた深淵は、桜の花が姿を消すのと関係があるのだろうか。

 不思議なのは桜の木ではなく、人口池の方だったんだろうか。


 口ほどに物を言う虚偽の視線に、不思議なほど強く惹かれていた。


「……ほら、だって……チョコ拾わないといけないし」


 ドキドキと高鳴る胸を抑えて、薄っぺらい言い訳を浮かべる。

 さらさらと風が吹いて、桜の木の枝を揺らす。

 鞠亜はいってらっしゃいと手を振っているのだと、都合良く解釈した。


 目を閉じて、すーっと息を吸い――

 ――倒れ込むように、深淵に落ちていった。

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