ある男

泊瀬光延(はつせ こうえん)

旧制中学・孤児根性・奇怪な性格・寮生活

 一人の孤独で、孤児根性をもった、寡黙で人の目を食い入るように見るのが癖であった、奇怪な性癖を持った男が、このように絢爛で多くの人に愛され、あるいは嫌われ、いわゆる波乱に富んだ人生を送ったことを、若い貧弱な肉体を持ったこの少年には想像できたであろうか。


【旧制中学】

・日記


 病弱だが一種独特の眼光を放つ彼は同学級のものから、一目置かれることとなった。言葉少なく、ともすれば1日中、本を読んでいるか日記を付けているかで、暫く経つと学校中の者が彼をそう見るようになったのだ。


「何を書いておるのだろう?」


 学友がある時訪ねると、彼はその日記を目の前に出した。何も隠そうとはしない。原稿用紙にびっしりと読みづらい小さな字が書かれている。隙間にも書かれてあり、どの順序で読んで良いのかはその場では判断できない。少し読んでそれが学校生活の一面がすこぶる面白いように書かれているのがなんとなく分かるのだが、途中で根がつきて読むのを止めてしまった。


「どうしてこんな日記を書いている?」

 彼は少し考えた後で、

「小説家になりたいんだ。だからどんな時にも文章を書けるようにしている」

「練習か。この日記を後から役に立てるのか?」

「いや、多分読まないな。それより新しい文章を書くほうが忙しい」

「ただ、気の利いた言葉を思いつくと別の手帳に書いておくのだ」


 後年、彼が作家として身を立てた時にこの日記を引用する。自分自身の中に別の作家が存在していたように。それを盗用するのであった。



・孤児根性


 早くから両親を亡くし、叔父の家に引き取られた。その家には近くからまだ叔父が土地の名士だったころから手伝いに来てくれていた老女がいた。

 彼は小学校の頃から作文の才を顕した。そしてその日にあったこと、感じたこと、考えたことを書けるものがあるとどこにでも書くようになった。親戚の人々からもそれを認められ、いつしか「秀才」と見なされるようになった。かつての名士の家ということもあり、近所の商売屋の子供とは違い、旧制中学への入学が当然のように口に出された。


 叔父が病に倒れた。彼は女中の老女と交代で寝たきりの叔父の面倒を見なければならなかった。叔父の喉に痰が詰まったら一所懸命に背中を叩き擦り、下の処理もした。叔父の布団の中に尿瓶を入れ、その音を聞きながら思索にふけった。


 彼は叔父の病の様子と生活を日記に克明に書いた。看病であまり学校以外の所に行く余裕がない中で、その生活を題材にしようと思ったのだ。

 叔父が咳き込み呻くその隣の部屋で薄暗い電灯の下で彼は書き続けた。叔父の心配はしているものの、彼の中から浮き出た自分が、寝ている叔父と一心不乱に文章を書き続けている自分を上から見ている。そしてその視野に入ったものを彼は書いているのだ。

 別の彼は彼にこう書かせた。

「これは小説になる」


 彼はある時、叔父に言った。

「俺は小説家になる」


 彼の身体が弱いと将来を心配していた叔父はその夢を認めた。他に何をしてやれよう。

「そうか。がんばれ」


 小説家となることは、ある意味、庶民からは異種の世界に飛び込むことと同じだ。生活が出来るか、何も保証はない。有名になった小説家は名家か裕福な家で育った者が多い。また、学業に秀でて東京帝大や有名私学に入るほどの力を持っていなければならない。

 かつ成功した作家に知己を得ると同時に出版社にも取り入らねばならない。


 叔父が死んだ。


 それでも彼は旧制中学に進むことが出来た。

 殆どの生徒が寮生活をした。その中でも特異と思われた彼は、俺には孤児根性があるのだ、と乞食が見栄を張るように思う。

 正月や盆に殆どの生徒は帰郷するのに、彼だけいつも寮に残った。親類はある。行けば暖かく迎えてくれるだろう。しかし彼はそこに隙間があることを感じていた。

 彼は手紙を親類や世話になった人によく書いた。今の自分があるのも彼らの援助があったからだと心から感謝した。

 だがやはりすでに存在しない、自分を生んでくれた人、育ててくれた人への憧れがあった。ただ、もし居たとしても彼は安寧を得たのであろうか。彼の「孤児根性」とはそんな矛盾も含んでいた。



・奇怪な性格


 彼は寮生活の中で風呂の時間が嫌いだった。


 他人の肉体と自分の肉体を比べて恥ずかしくなるのだ。皆が入り終わるころに行って、若い肉体から出た汗と汚れでどろどろの湯に入ることが多かった。風呂から上がって鏡の前でしんみりと自分の肉体を見るのだった。


 だが、嫌なことばかりではなかった。寮生の中でも美少年と言われる者の裸体を見るのは好きであった。自分の肉体とは比較にならない、若々しく、中性的な美をもったギリシャの彫刻のような人間。人のことを睨みつけるような目でみる癖があるのだが、他人の目と羞恥というものがそれを抑えた。目を下にし、つかの間に捉えた対象を目の横で執拗に追った。


 12才前後で入学したの紅顔の少年も、5年制の旧制中学で2、3年経てば男の身体になってくる。下級生は上級生から性欲の対象として見られる危険が伴った。また生意気と見られれば呼び出されて鉄拳を食わせられる。行きすぎない程度なら寮夫の教官も見逃すこともあった。


 彼は目つきがするどい独特の容貌によって上級生から「美少年」の認定は受けなかった。

 また作文がうまく、国語の教師から気に入られ、かつ日夜、日記を書いているということで、悪事を書かれることを恐れる連中もいただろう。彼の作文は度々廊下の掲示板に張り出されたからだ。


 時たま、親類の家に呼ばれて汽車に乗った。汽車の板張りの硬い見合わせの席に座った。客はまばらであった。その時、車室中央の席にいた彼の目の中に、奥の席にこちらを向いて座った、同じくらいの歳の袴を穿いた少年が目に入った。

 彼の目は釘付けになった。その色の白い少年の顔は少し俯き、何かを読んでいる風であったが、彼の心臓は波打ち、股間がぎゅっと絞られ、睾丸がせり上がったように感じたのだ。


 遠目ではあるが、その色白の少年の顔は彼にとって高貴な美を備えた女神のように映ったのだ。彼の好みの顔であった。

 車室の暗い電灯のお陰で彼の視線はその少年に気づかれることはなかった。彼は揺れる視野を必死に絞り、直視する視線を中心に同心円を描くように、もしその少年がこちらをみても視線があっていないように見える努力をしていた。

 彼は頭の中で、その少年を裸にし、透き通ったような柔らかい肌を撫で回し、うっとりとして彼を見る少年の顔を想像していた。だが、彼の肉体はそこにはなかった。

 陶酔はあっても絶頂はなかった。彼はまだ手淫の洗礼も受けていなかったのだ。それなのに彼は妄想の上の肉欲によって視姦していた。


 目的駅に汽車が止まり、彼は車室の奥の出口に荷袋を担いで歩いていった。他の降りる人は靴の紳士か草履の商人だが、彼は学生で下駄であった。下駄の音が、少し片足をひこじる音が、彼がその少年の脇を通る時に少年の目を彼に向けさせた。


 少年を一瞥したその瞬間、彼の高鳴っていた胸の鼓動は止まってしまったようだ。落胆したのだ。一挙にそれまで高めた理想郷の愛が崩れ落ちた。彼の顔が急速にこわばったのがその少年にも分かった。却ってその少年が目を見張って彼を見つめた。


 彼は少年の顔に遠目では見つけられなかった瑕疵を見つけてしまったのだ。少しでも瑕疵がある美は彼にとって美ではなかった。見つけられない美だったら彼は直感的にそれを求めただろう。しかし少年の顔はその価値がなかった。


 寮内でも美しい生徒を見つけたり、本屋への行き帰りに見初めた美しい男子にあった時、そのようなことは度々起こった。その度に落胆はするが、学寮へ帰途につく時、ほっとした感覚もあった。もし瑕疵のない美少年にあったら自分はどうするのだろう?どうなるのだろう?しかし現実は彼に常に安心を与え続けたようだ。


(いつかこの気持ちを小説に書こう。相手は男でも女でも構わない。俺の妄想の中のように従順で物言わずに俺に従うような理想の相手のことを)


 後年、彼は「眠れる美女」という作品を書いた。初老の男が、薬で眠らされた若い女と同衾させるという売笑宿で、過去の自分と向き合い苦悩する物語である。女性が読めば「変態」と叫ばれるような状況を、屈折した過去の記憶と何も為せなかったという後悔を書くことで見事に小説と成してしまった。


・寮生活


 彼が旧制中学の最高学年に達した時、部屋の室長になった。入学した時とだいたい同じ様な顔ぶれで、学年が上がると新入生が一人二人と入ってきていた。性格に問題があるもの、夜尿症が治っていないもの、多感な時期の多様な少年達をまとめなければならなかった。

 人をまとめるなど本来の性に合っていないのだが、自分のコンプレックスや同性に対する歪んだ欲望に引け目を感じていたことが逆に作用したのか、彼らの面倒をよく見ることになった。瞬きしない目で相手の目を見つめながら、話を聞いてやった。室員は変人と噂されるものの、他の部屋の室長と違い、暴力的でない、人を見下さない彼を慕うようになっていった。そして自分を病弱と称して、堂々と教官に体操や教練を休むと言う、彼の内なる強固さに憧れていた。確かによく熱を出し一日、寝ていることはあるのだが、普段、一緒に外出すると彼の歩く脚の速さに皆驚いた。

 さらに彼を室長の格に押し上げたのは読書の量であった。日記は相部屋の机で書いていたが、談話室や図書室で彼を見かけると必ず昨日と違った本を読んでいた。「源氏物語抄」を読んでいたかと思うとダヌンツィオ の「死の勝利」、正宗白鳥だと思うと島田清次郎である。


 彼はその文章力や読解力に自信を持ってはいたが、同時にそれを思う時、常に種々の劣等感も巡ってきた。鏡を見ている時は貧弱な肉体と思い恥じるが、別の次元での客観的な「彼」は彼のそばに侍らせた求め続けている幻を眺め続ける。それは二重人格のような解離性ではなく同時性を持ったものであった。部屋に戻れば、同室の「美少年」の瑕疵を我慢しなければならない。しかし別の彼は瑕疵に構わずその少年との淫猥な交流を妄想するのだ。


 彼は一面では精神的に病んでいた。しかし客観的な彼の別の精神はそれを楽しむほどに安定していた。

 同室の一級下の清野という少年が懐いてきた。中肉中背で顔も特に美しいわけではなかったが、性格が素直で受け身であり、自分では出来そうにない書き物と読書をする彼を尊敬していた。


 室長に任命されたその直後に清野が言ってきた。

「あの・・・夜寝る時、室長は自分が横にいたらご迷惑でしょうか」

「・・・いや、別に」

 彼は内心驚き、喜びを覚えたが、それを顔に出さずに答えた。

「じゃ!・・・今夜からお願いします!夜、怖いんです・・・」

「何が」

「何とは分からないのですが・・・室長の側なら」


 彼らはその夜から隣同士で寝ることになった。室員が川の字で寝る上座の端であった。布団をみんなで敷く時に、清野が枕を持って彼の隣に陣取ってしまった。遠い端は夜尿症癖がある室員なのでその隣を避けるのに少し口論があった。しかし彼が彼らをじっと睨んだので、不運な室員はその運命を受け入れる覚悟をしたようだ。


 就寝して皆、寝静まり、いびきが聞こえる。彼はこのころから寝付きが悪くなっていた。今日は日記に何かを書き忘れていないだろうかと天井を見上げながら考えていると、手を触るものがある。

「な・・・なんだ」

 それは清野の手であった。先程まで布団を被って寝てしまった様子だった。窓からの月明かりでぼうっと照らし出された清野の顔は泣きそうだった。

「さ・・・寒いのか?こっちへ来い」

 自分でも驚くぐらい冷静になっていた。清野が何を求めているのか必死に考えた。清野には両親が健在であり、かえって俺よりも寂しいのかもしれないなどと考え、彼が布団を持ち上げると清野は自分の布団から身を移し、彼の腕に抱きついた。彼は清野が力を入れて握った手をさらに握り返した。彼は時々噂される寮生同士の同性愛の話を思い出したが、これがそうなのかと考えた。彼はまだ実際の性愛の理屈を知らなかった。

 そういうことを共有する友達がいないせいだろう。ただ鼓動が激しくなった。何かしてやりたいと思った。清野を見ると安心したのか寝入っていた。彼は不安と安堵を抱えて天井を見上げた。抱きつかれた腕と懐に清野の体温を感じながら、常に感じている心のすき間が減じ、少し満たされたような心地がした。






参考資料

「少年」川端康成著 昭和31年6月25日発行の新潮社、川端康成選集全十巻のうちの第七巻「名人」の最後に収められたもの 「清野」を「清野」に変換 後に文庫本

「眠れる美女」川端康成著 新潮社1961年初版

川端康成全集補巻一 川端康成會編平成十一年初版 日記などより

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