i love you

槙野 光

 

 実家の押し入れの奥から発掘した銀色のお菓子缶には、小学校の図書館に置いてあるような図鑑サイズの古ぼけたアルバムが入っていた。

 記憶にある限り見たことのないそれを手に取り表紙を捲ると、眠りを叩き起こされるのを嫌がるようにばりっと抵抗音が響く。

「やべっ」

 破いてしまったんじゃないかと慌てて四方を見渡すと左下の隅が少し毛羽だっていた。

 指先で寝かしつけても離した途端ぴょんと立ち上がってくるから意地になって何度も親指を押し付けるけれど、その度に跳ね上がって見上げてくる。反抗期みたいなそれに少しむっとしつつ他に被害がないか改めて見回し、ほっと胸を撫で下ろした。

 一枚の頁に、上下に並べられた二枚の写真。

 案外と丈夫なアルバムには、湿気を吸い込み黄ばんだ用紙を背景に四角四面な様相で写真が飾られていた。時折小休憩をするように、生真面目そうで、でも優しげな表情を浮かべる男女が現れるが、アルバムの殆どはひとりの女の子の写真で埋め尽くされていた。

 べそを掻きながら一匹の黒猫を抱いている姿。満面の笑みでケーキを頬張っている姿。喧嘩をしたのか乱した髪をそのままに頬を膨らます姿。泣いたり笑ったり怒ったり。とても表情豊かに女の子の時間が切り取られていて、それはまるで、女の子の成長日記のようだった。

 恐らくインタスントカメラで写されたであろう写真は、粗く褪せている。今の子からしたら古き良きを突き抜けてレトロでエモいのだろう。けれどそこには、時を経ても褪せることのない想いが確かに込められていた。写真の一枚一枚が女の子が愛されていた証で、捲れば捲るほど仲の良い幸せな家族だったんだなと分かる。

「……隠すこと、なかっただろ」

 猫目で、右目の下にてん、とついた泣きぼくろが特徴的な女の子。母さんと同じ特徴を持つ、女の子。

「可愛いじゃん」

 俺がそんなことを言ったら女の子は――母さんはなんて言っただろうか。馬鹿ねと笑ってくれただろうか、それとも呆れて溜息を溢しただろうか。

 軽口を叩いて戯れ合うのは似合わないと分かっているけど、言ってみたかった。俺の知らない時間を過ごす母さんに会ってみたかった。


 今はもう、叶わないけど。


 考えると、喉奥に薄膜が張られたように息がつまった。喘ぐように吐き出し、畳に付いた左手をぐっと握りしめる。伸びた爪が手のひらに当たって、少し痛かった。

 俺の知っている母さんは凪いだ海のように穏やかで、冗談を言わない真面目な人だった。

 俺は母さんが大口を開けて笑ったり、声を荒げたりする姿を見たことがない。でもそれは、母さんが感情を表に出さないよう無理をしていたからとか、ましてや俺への愛情が足りなかったからだとかそういうことでは決してない。むしろその逆で、ただ単純に、俺を育てるのに一生懸命だっただけなんだと言葉にされなくても知っている。

 母さんは、子供だからと誤魔化さず悪いことは悪い良いことは良いと相手が納得するまで真正面から向き合う人だった。母親に当てはめるに正しい言葉かは分からないが、母さんは、俺にとって信頼できる人だった。けれど、真摯な筈の母さんは自分の過去だけは語ろうとせず、途端不誠実になった。

 母さんが昔どんな子どもだったのかとか、何をしてきたのかとか俺が何度訊いてもはぐらかすから、俺と母さんは血が繋がっていなくて、それを俺に知られたくなくて話をそらすんだと突拍子もないことを考えたことが一度だけある。結局それは呆気なく否定され、馬鹿ねと言われ母子手帳を見せられた。勘違いだと分かり恥ずかしくて俯く俺に、母さんは小さな声で言った。「ごめんね」って。

 母さんは本当に真面目な人だった。そして、きっと不器用だった。

 そんな母さんに育てられた俺は嘘を吐くのが苦手で不器用だとか要領が悪いだとか周りから心配されることがあって、そんなとき思う。

 俺は確かに、母さんの血を受け継いでいるんだと。


 母さん。


 幼い頃に見た華奢な背中が脳裏をよぎる。台所に立つ姿。とんとんとんとリズミカルな包丁の音。ことこととお湯を沸かす鍋。硬く目を瞑って、螺旋のように交わらない時間に想いを馳せる。

 アルバムにはない、俺だけが知っている姿。

 アルバムにはある、俺だけが知らない姿。

 今になって母さんの過去に触れているんだと考えると凍えるほどに冷たい風が差し吹き、心のささくれ跡が痛んだ。傷跡を掠めたそれは心の奥を軋ませ、目の奥をじんわりと熱くさせる。そしてそれは、あっという間に伝染していった。

 脳に届いた頃には喉元にも熱の塊が生まれて、噴火するように駆け上がっていった。熱くてしょっぱいそれが舌に触れると唇の内側が震えそうになり必死に唇を噛んだ。合間から漏れ出そうになる熱を何度も呑み込んで、そして、少し冷めた頃に浅い呼吸をひとつこぼした。

「……だめだな」

 肩を落とし、かぶりを振る。気分転換に外でも見ようとアルバムから目を逸らして窓辺を見やるけど、のっぺりとした紺色のカーテンに覆われて何も見えなかった。

「ははっ……やばいな」

 ひとりごち、一人きりの部屋でから笑いをすると傷跡がさらに疼くようだった。堪えきれず、ズボンの後ろポケットに手を伸ばしスマホを取り出した。パスコードを打ち込むと白光りとした液晶に、妻の茉莉花が無邪気な笑みを浮かべていた。

「……茉莉花」

 呟き、瞼を下ろす。眼裏で茉莉花が淡く頬を染め、少し舌ったらずな甘い声で俺を呼ぶ。

 ――裕二くん。

 内耳に届いた瞬間、ふっと笑みが溢れ痛みが和らいでいくのが分かった。

 ゆっくりと瞼を持ち上げ前を向く。そして、ズボンの後ろポケットにスマホを戻し深く息を吐いた。

「……よし」

 立ち上がってカーテンを引いて気持ち半分窓を開けると白い光が差し込み、生ぬるい風が顔の表面に纏わりつく。

 息を吸うと温まった空気が喉元を通り、クーラーの冷風で凝り固まった身体を循環していった。いつもなら気持ちいいとは言えないそれが、今はとても気持ち良かった。


 再びアルバムの前に腰を落とし胡座を掻くと、窓の合間から入り込んだ暑気が鼓膜を揺らした。

 じーじーと覚えたての弦楽器を弾くみたいに鳴く蝉の声。無邪気な子どもたちの甲高い笑い声。油の切れた自転車の悪態をつくような音。賑やかな夏の音楽につられるようにカーテンの裾がふわっと浮かびあがり、濁った埃の匂いが鼻腔を掠め、空気に溶け込んでいく。

 俺は一枚、また一枚とアルバムを捲る。

 女の子は赤児から幼児へ、そして小学生中学生高校生へと成長し、華やかな赤い振袖を纏う。そして、最後のページ。目に入ったそれに、ふと手が止まった。

 飾られず、押し花を作るみたいに挟まった一枚の写真。そこには膝下の白色ワンピースを纏った清楚な女性と、枯葉色の詰め襟シャツに焦茶色のズボンを履いた男性が並んで立っていた。

 一瞬母さんの両親かと思ったけれど、違うとすぐに分かった。猫目と右の泣きぼくろは確かに母さんだ。じゃあ、その隣にいるのは?

 痩身の儚げな風貌の男は、黒髪を後ろに撫で付け銀縁メガネをかけていた。生真面目そうな男だ。

 男は、淡く頬を染め笑みを浮かべる母さんの隣でぎこちない笑みを携えていた。その顔に既視感を覚えると、開けた窓から一匹の蝉が迷い込んできた。蝉はけたたましく啼きながら木目調の天井を駆け巡るとアルバムを掠め、俺の顔の横を通り過ぎていく。瞬間、頭の奥に眠る記憶がぱちぱちと点滅し、眼裏で白い光が迸った。

 クーラーで冷えた室内に入り込んだむわっとした空気に、ない筈の汗がこめかみを伝ったような、そんな気がした。


♦︎


 小学生の頃の記憶は、虫食いにあったように朧げな部分がほとんどだ。けれど、唯一明確に覚えていることがある。偶数月の第二土曜日。その日だけは、どんなに忙しくても母さんは隣町にあるデパートに俺を連れていった。向かう先はいつも決まって、デパートの屋上だった。

 一階のガラスドアを手で押し開けて、無機質な白い床を真っ直ぐに進む。突き当たりに並んだ、燻んだ赤色に染められた二基のエレベーター。そのうちの一基に乗り込んで、母さんの隣でつま先立ちになって指先で『R』を押す。

 エレベーターの背面は、俺の腰丈から上がガラス張りになっていて、空や街並みが見渡せる造りになっていた。ぐんぐんと昇ると空が近くなって、街並みが遠ざかっていく。自分が大きくなったみたいで、鼓動が早鐘を打ち気持ちが高揚したのを良く覚えている。

 エレベーターを降りると汚れて灰褐色になったコンクリートの地面が敷き詰められていた。周りは錆びた青い金網フェンスに囲まれていて、小学校のプールをふたまわり小さくしたようなトランポリンがフェンスに沿うように置かれていた。それと、隅っこに押し込められるようにして置かれたパンダの乗り物が一台と一脚のベンチと、一台の自販機。

 高校に上がる時に潰れてしまったデパートの気合の入っていない屋上。振り返って考えると、随分と前から持て余されていたのだろう。けれど俺は、あまり人気がないそこのトランポリンで遊ぶのが好きで、だから偶数月の第二土曜日が待ち遠しくて仕方がなかった。

 体操選手みたいに一回転することはできなかったけれど、地面から離れて宙に留まる一瞬の時間。この瞬間だけは自分が特別になったような気がして、何度も何度も夢中になって跳ねた。

 母さんは、トランポリンの前に置いてある庇も何もないベンチに座っていた。夏になると日傘を差し、時折ハンカチで汗を拭う姿が見えた。手を振ると、空いた方の手で振り返してくれた。そうすると嬉しくなって、もっと高く、さらに高く飛びたくなった。トランポリンの布に足裏が触れる。ぐっと身体を押し下げて膝に力を込めると、いつもより身体が跳ね上がって地面が遠くなる。

「見た⁈ 母さん‼︎」

 頬を上気させ興奮を滲ませた口調で言うと、母さんが笑う。他の人からしたら分からないぐらいの淡い笑みが嬉しくて嬉しくて、俺は空に向かってまた飛び跳ねた。

 母さんと言葉を交わさないその空間が、俺は何よりも好きだった。直接言葉で交わすよりも空気に乗って届く気持ちは多弁で雄弁で、不思議といつもより心が近くなったような気がした。

 ただ、ひとつだけ。ひとつだけ、気になることがあった。

 母さんの隣には、見知らぬ男がいつも座っていた。帽子を目深に被った痩身の男は俺と母さんが屋上に来る前からベンチに座っていて、母さんは拳二つ分の距離を空けてその男の隣に必ず座った。

 トランポリンで遊ぶ俺の見た限り、男と母さんが笑って言葉を交わすようなことはない。言葉を交わしていたとしてもせいぜい二言三言ぐらいだ。それでも、その時の母さんの表情はいつもより安らいでいるように見えた。

 俺が「知り合いなの?」と母さんに訊いても、「さあどうかしら」とはぐらかされてしまう。だから、その男が誰なのか知る機会は訪れなかった。俺もまだ子どもだったし、トランポリンで遊んでいる内に気にならなくなってしまったから。

 日が暮れ始め、母さんと手を繋いで屋上を去る時も男はベンチに座ったままだった。母さんが立ち上がり小さく会釈をすると、男も会釈をする。男は、俯き加減でシミだらけの地面を見ているようだった。だけど、小学六年生の夏休み。その日は違っていた。いや、もしかしたら俺が気づかなかっただけでずっとそうだったのかもしれない。

 トランポリンで遊び終え、階下に降りるエレベーターを待つ俺と母さんの間を一匹の蝉が縫うように通り過ぎた。いつもは高揚感が引かず母さんにひたすら話しかけている俺は、その日なぜか、つられるように蝉を目で追っていた。何てことはない、ただの気紛れだ。けれど、追いかけるように振り返ると、ベンチに座っている筈の男が立っていた。

 男はいつも目深に被っている帽子を脱ぎ、片手で掴んで胸元に抱いていた。銀縁眼鏡のその奥は陽光に反射して見えなかったけれど、顔を逸らさず俺と母さんを見ていた。

 ぎこちない笑みを浮かべ、ただ真っ直ぐに。

 母さん、と声を掛けようとすると遮るようにエレベーターが到着し、俺はちらちらと後ろを気にしながら母さんに手を引かれエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まり男の姿はすぐに見えなくなってしまった。それでも、さっき見た光景が忘れられなくて母さん、ともう一度声を掛けようとすると、母さんの手の感触がするりと滑るように抜け落ちていった。母さんを見ると、外から差し込んだ茜色の光に眦を照らされていた。

 母さんが、指先でそっと目元を拭う。

 俺は口を噤んで背面のガラスに両手をついて外を見た。近づいてくる街並みとは対照的に空がどんどんと遠ざかっていく。

 夜の気配に呑み込まれながら、エレベーターが一階に到着してドアが開く。母さんが再び俺の手を握る。

 母さんの手はいつもと同じようで、いつもと違っていた。

 その指先は微かに湿り気を帯びていて、その手は煮詰めた感情が溢れそうになるのを堪えるように少し力強かった。いつもと同じ温もりが、いつもより少しだけ熱く感じた。

 母さんが呟くように言う。

「……帰ろうか」

「うん……」

 俺は、頷くことしかできなかった。

 その日を境に、母さんに連れられて隣町にあるデパートに行くことも、男の姿を見ることもなくなった。


♦︎


 物心ついた頃から、我が家には父親がいなかった。小学校に上がったばかりの頃、夕飯の支度をしている母さんのエプロンの裾を引っ張りながら訊いたことがある。

「ねえ、お母さん。お父さんはどこに行ったの? 遊くんはお母さんとお父さんとよくお出かけするんだって。それが『普通』なんだって。いないのは、おかしいんだって」

 少し不安で、それでいて少し期待をしていた。実は父親は近くにいるんじゃないかとか、いつか帰ってくるんじゃないかとか、そんなことを。けれど母さんは「そんなこと気にしなくていいのよ」と言って、銀杏切りにした大根を鍋に入れた。鍋から湯気が引いて、少し腰をかがめた母さんは火を少し強くした。

 母さんは、俺のことを見ようともしなかった。それでも初めのうちは挫けなかった。けれど何度訊いても似たような言葉しか返ってこなくて、その内訊いてはいけないんだと理解した。

 偶数月の第二土曜日。

 母さんの隣にいた痩身の男。男との関係をはぐらかした母さん。過去をはぐらかしていた母さん。

 目の前の写真の中で、淡い紅に頬を染めてらいを隠さず笑みを浮かべる母さんと、その隣でぎこちない笑みを浮かべる男。そして、繋がれたその手。

 写真越しでも分かる。その表情に、その手に込められた感情を。その気持ちがなんて言うのかを。

「馬鹿だな、母さん」

 押し入れの奥に隠すようにしまわれていたアルバム。最後のページに飾られず挟まれていた一枚の写真。手に取り裏返したそこに綴られていた言葉。


 ――愛しています、いつまでも


 歳月に掠れてぼやけてしまったのか、それとも元からそうだったのか俺には分からない。

 母さんはどんな気持ちであの場所にいたのだろう。どんな思いを抱え、あのベンチに座っていたのだろう。母さんは、そして最後に真っ直ぐに俺と母さんを見ていたあの人は。

 今はもう訊くことはできない。けれど母さんは、父さんの生死を最期まで口にしなかった。


「……できたみたい」

 母さんが亡くなってしばらくして、妻の茉莉花が妊娠した。期待と不安で揺れる瞳を前に、俺の身体は全身の血が沸騰したように熱くなった。瞬きをした次の瞬間には大地に染み込んだ雨が滲み出るように嬉しさが込み上げ、気付けば茉莉花を抱きしめて涙をこぼしていた。けれど、茉莉花のお腹の中で命が膨らんでいくにつれ、心の内に不安が巣食うようになった。

 

 父親を知らない俺が、父親になれるのだろうか。


 奥底に無理矢理押し込めた不安は徐々に肥大していって、けれど、愛おしげにお腹を撫でる茉莉花に負担をかけたくはなかった。

 母の一周忌が過ぎたからと身重の茉莉花を置いて実家の整理に訪れたのは、押し寄せる不安を紛らわすためだった。

 たまに訪れていても戸を開ける度、埃っぽい匂いが鼻につく。

 知った匂いが減り、知らない匂いが増えていく。

 底知れぬ不安を感傷で覆い隠そうとするなんて馬鹿のすることだと分かっていた。けれど、煙草も酒も苦手で趣味もない俺は気を紛らわす方法を他に知らなかった。

「俺、父親になるんだ……」

 写真の中のふたりを指先で優しくなぞる。

 母の隣に佇む男を、指でなぞる。

 ずっと俺は母さんの血を受け継いでいると思っていた。それは間違いではない。でも、正しくもない。

 俺には母さんの血も、そして、父さんの血も流れていた。


「……同じなんだな」


 母さんも俺もそして父さんも。

 きっと皆んな、不器用だった。


 窓辺を見ると、迷い込んだ蝉が窓の縁に止まっていた。蝉は彷徨うように窓辺を飛び回り、やがて空の向こうへと消えていく。

 俺は静かにアルバムを閉じた。銀色のお菓子缶の中に入れ、押入れにしまう。立ち上がった瞬間、畳の上で胡座をかいていた足が痺れ、全身に響いた。けれど今はそれが愛おしく感じて、痺れた足を抱えたまま窓を閉め早足で実家を出た。

 熱のこもった地面を蹴る度、鼓動が早鐘を打つ。蟬が啼き空が茜色に染まっていく。いつもより軽い身体が温い風にふれ汗ばんでいった。

 地面を蹴って、駆けて、蹴って、駆けて。汗だくになりながら、駆けて。そして、家のドアを開ける。

 玄関の三和土で忙しなく靴を脱ぎリビングに足を踏み入れると、膨らんだお腹を抱えた茉莉花がソファに腰掛けうたた寝をしていた。

 茉莉花を起こさないよう一息ついてからなるべく音を立てず両膝をつくと、茉莉花の唇の合間から規則正しい寝息が漏れた。

 秒針と共に刻まれるそれは生きている証だ。考えると、愛おしさで胸の奥が詰まるようだった。

「……おかえり」

 微睡から覚めたばかりの舌ったらずな甘い声。とろんとした眼差しの中に俺が映り込む。俺は導かれるように茉莉花の膨らんだお腹をそっと撫でた。

「……茉莉花」

「なあに?」

「俺には、父親がいたんだ」

 気付いたら、口からこぼれ落ちていた。

 茉莉花は瞬きをして、ふっと目元を和らげた。

「だから俺、父親になれる」

「うん……」

「なれるんだ、茉莉花」

「うん……」

「茉莉花、俺……」

 真っ直ぐに俺を見て淡く微笑む茉莉花の瞳を覗く。そこには、不安げに揺れる男がいた。

「……おれ、いい父親になれるかな」 

 ぎこちなく笑い縋るように訊く俺に、茉莉花は何も訊かなかった。けれど代わりに俺の頭を撫で、そして言った。

「……大丈夫。裕二くんはいい父親になるよ」

 茉莉花の声は、優しかった。胸の奥に蛍の光のような淡く柔らかい光が灯る。喉の奥から熱い塊が迫り上がってきて眦を涙で濡らすと、茉莉花のお腹に置いた手の指先から小さな鼓動が伝ったような気配がした。頑張れ、と鼓舞するような小さな小さな声が聞こえるような気がした。

「私とこの子が、保証する」

 俺の手に、俺より小さな茉莉花の手が重なる。暖かい温もりに、ぐっと喉の奥が鳴る。

「うん……。俺、頑張るよ」

 言葉を絞りながらふるえないよう言うと茉莉花が俺の頬を挟むように手で触れた。見上げると、茉莉花が俺を見て淡く微笑んだ。


「ちがうよ、裕二くん。裕二くんが、頑張るんじゃない。裕二くんと私とこの子の三人で、みんなで頑張るんだよ。だから、裕二くんは大丈夫だよ」


 小さな身体に、大きな心。産衣に包まれた赤児のように優しさや安堵感が爪の先まで満ちていき、じんわりと、涙が滲んだ。

 目の縁を越えてぽろっと落ちていったそれは、おたまじゃくしの赤ちゃんみたいに丸くて小さな涙だった。


 君が生まれたら、写真をいっぱい撮りたい。


 レンズ越しに君との時間を切り取って、そうしていつか、三人で笑いながら思い出を振り返るんだ。いつの日か君がひとりになっても寂しくないように。愛されていたんだって分かるように。あのアルバムみたいにしまっておこう。想いが全て、伝わるように。


 俺、いい父親になるから――。

 

 まだ見ぬ君に心の中でそっと語りかける。そして、瞬きの間にやってくるであろう輝かしい未来に想いを馳せ、瞼をゆっくりと、下ろした。

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