第7話 黄金の兵隊
濃い茶色に塗り固められた正方形。角には錆びて変色した鉄の装飾が施されている。箱に何かしら書かれているのがわかるが、殆ど読めないほど掠れている。辛うじて日本兵という一文が読めた。手に取って軽く振っていると中からからからと乾いた音がする。取手を引っ張って蓋を開けると、緑色に塗られた日本兵の小さな人形が無造作に転がっていた。
私がその箱を手に入れたのはある秋の話だ。昔はある家電量販店でのらりくらりと販売の仕事をしていたが、レジ係の女性と揉め事があって暇を出された。色々あって今は実家の米農家を手伝っている。殆ど休みのない仕事であるが、両親の計らいで定期的に休みをもらっている。その日もちょうど休みをもらっていたので、市内まで出て当てもなく歩いていた。ちょうどT区まで来ていることだから、S寺まで行って亀の池でも眺めていようと思っていた。S寺までは駅から歩いて十五分ほどだ。天を衝くようなビルが出来てもう何年にもなる。O府の中でも比較的繁華街とも言えるT区だが、街並みは年々整理されているように感じる。子供の頃は点々と拠点を築いていた路上生活者たちも、今やすっかりと姿を消してしまった。昔の名残ももう数える程しか残っていないが、しかし、S寺への道は随分と昔の名残りを残している。ほんのりと鼻をつく乾いた黄色い匂いを感じながら、平成初期の雰囲気から取り残されたような商店街を通り抜けていく。立ち食いそば、雑然とした立ち飲み屋、その中で迷い込んだかのように、真新しい看板の韓国料理屋が一件。
商店街を抜けるとしばらくは静かな道が続く。全くもって静かな住宅街。そのまましばらく歩いていると、何件かまた店が並んでいる。寺の近くらしく仏具の店、線香が店先に並ぶ何かの商店、参拝客向けの喫茶店。これらを通り抜けると、S寺まではもう少しだ。遠巻きに線香の匂いが鼻先を掠める。立ち並ぶ商店を通り過ぎる際に、目を店奥にやると店主たちが新聞を読むなり、テレビを見るなり、思い思いの時間の潰し方をしている。どこの商店も店主は年寄りばかりである。そう遠くないうちにこの景色も見ることが出来なくなるかもしれないな、とぼんやりと考えた。
風がぼっと吹き付ける。大きな交差点を渡るとS寺はもう目の前だった。アスファルトが石畳に変わって、いよいよかというところだった。
普段なら静まり返ったS寺。しかし今日は不気味なほど人が溢れかえっている。簡易テントがいくつも並んで人がそれに集っていた。ふと近くの看板に目をやると、昨日今日は骨董市を催しているとのことだった。どうせならと立ち並ぶ店をぼんやりと眺めていると、ふと先述の箱が目に入った。
「日本兵」
貼り付けられた値札にはそう書かれていた。価格は六千円。しばらく箱を手に取って眺めていた。不意に箱の中身が気になって取手を引っ張ると、緑に塗装された日本兵の人形たちが様々な方向に転がっている。
「珍しいでしょう? アメリカ兵の兵隊人形ってよくあるけど、日本兵の人形ってね。」
声の方に目をやると、四角い眼鏡をかけた七三分の中年男性がレジの前で座っていた。
「おもちゃの割に高めにしてるけどごめんね。それ年代物やから。」
「確かに日本兵の人形って珍しいですよね。」
「そうそう。僕もそう思う。お兄ちゃん、それ興味ある? 買わへん?」
「六千円はちょっと高いですね。」
「もう二千円でええよ。今日最終日やし特別やで。」
二千円ならとその場で例の箱を買った。自分でも何故買ったのか分からない。薄汚れた箱に年季の入った日本兵の人形が入っただけの箱。それ以上でも以下でもなかった。特別、店員のセールストークが上手いわけでもないのに、何かその箱を手に入れなければならないような気がした。
例の箱を新聞紙に包みビニール袋に入れて、しばらくS寺を散策した。しばらく亀の池を眺めて時間を潰していたが、足が痛くなってきたので帰宅した。
私が不可解な現象に遭遇したのはその日の夜のことだ。日本兵と書かれた箱は布団から少し離れた棚に飾った。映画に出てくる怪獣の人形と並んで汚れた箱は異彩を放っていた。持ち帰ってすぐはしばらく兵隊を箱から出して眺めていた。中の兵隊人形を並べて怪獣の人形を囲んでみたが、小さな兵隊人形が何かの拍子に飛んで行って、どこかへ行くのが嫌で箱の中に戻した。一つでも失うと値打ちを損なうような気がした。取り囲まれていた怪獣も何故だか安堵しているように見えた。
兵隊を一つ一つ確認しながら箱の中に戻していく。そして箱を揺らしてみると、からからと乾いた音がした。私はその音を聞いて何故だかひどく安心した。
布団に潜り込んでラジオをつけるといつもの番組が流れていた。放送の内容に聞き耳を立てる間もなく意識を失っていた。
ふと意識が戻った。軽い尿意がある。ラジオからは何も流れていない。考えるまでもなく身体を起こそうとすると
「しっかりしろ」
「頑張れ」
どこか遠く、しかし思っているよりも近くのようなところで声が聞こえた。何か聞いてはいけないものを聞いたような気がして起こしかけた身体を横たえた。身体は布団に預けているが、しかしひどく強張っている。
「あと少しだ。」
「頑張れ。」
薄く目を開いて声のする方を見る。例の兵隊人形を置いた棚の方から目が眩むほどの光が漏れ出ている。
「おい、しっかりしろ、目を開けるんだ。」
一際大きな声が聞こえた。じっと目を凝らしているとようやっと声の主がわかった。
例の兵隊人形が黄金色に輝きながら仲間を引きずって行進しているのだ。怪獣たちを避けながらゆっくりと牛のような歩み進めている。仲間を背負うもの、ゆらゆらと定まらない足取りのもの、ひたすら項垂れるもの。樹脂製の人形たちが誰も彼も命を持って歩いていた。
「大丈夫だ。あと少しだからな。」
「帰ったらどうなさるんですか?」
「何も決まってない。ただ、Dの家族に詫びに行く。手をついて許してもらえるまで謝る。それだけはやる。」
「自分も行きます。Dは戦友でした。」
「馬鹿、お前は責任を取らんでもいい。今は俺が詫びに行く家をこれ以上増やさないように生き延びろ。」
兵隊たちの光が当たって開け放たれた箱が見える。
Dと言えば私の母型の苗字である。よくある名前ではないので驚いた。詳しいことは知らないが曾祖父さんは戦争に行って亡くなったと聞いている。
「もう少しだ。しっかりしろ。」
黄金の兵隊たちは依然ゆっくりと無限の行軍を続けている。誰ものがあの戦争は終わったことを知っている。知らないのは彼らだけかもしれない。戦争を知らない世代が生まれてから久しい。なのに彼らはもう亡くなって何十年と経った人間のために詫びる気で彷徨っている。
彼らは終わった戦争の中に取り残されて終わりない行進を続けていた。
窓の向こうから烏の鳴き声が聞こえる。黄金の兵隊たちは一斉に窓の方に向き直った。先頭を歩いていた人間が手を振って身を低くするように伝える。じっと窓の方を睨んだまま何十分もそのままで居続けていた。部屋の中が水を打ったように静まり返った。と、小さく小さく声が聞こえる。
「うっうっうっ」
声を押し殺してすすり泣くような声だった。
「もう大丈夫だ。」
先頭の兵隊が安堵して立ち上がる。
「泣くな。男だろう。」
静寂を押し破るように怒号が聞こえた。
暗闇の中から少しずつ光が差し込んでくるのが見える。少しずつ空が白んでいる。
「撤退するぞ。」
兵隊たちがゆっくりと箱に向かって戻っていく。私はその様子を見守るよりなかった。尿意は気が付くと消えていた。ぼんやりとラジオから音楽が聞こえてくるのが薄れゆく意識の中でわかった。
翌日、私は仕事を終えると箱を持って祖母の家を訪ねた。自分はこれをやらねばならないという使命感のようなものがあった。
祖母の家は歩いて十分ほどのところにある。祖母は今年で九十一歳になる。祖父が十年ほど前に亡くなり、今は年金だけでのんびりと暮らしている。年齢も年齢なので定期的に訪ねて行って一緒に食事するなり、泊まるなりして様子見をしていた。
インターホンを鳴らすまでもなく玄関を開けてつかつかと居間に行くと、祖母がテレビを観ながらそうめんを食べていた。私が肩を叩くと
「ああ、どこのおっさんかと思った。」
そう言って笑った。
「ご飯食べてきたんか?」
「うん。もう食べてきたからええよ。」
「そうめん食べるか?」
「食べてきたからええよ。」
「そうか。クッキー食べるか?」
「さっきご飯食べてきたからええよ。」
祖母はそうかと言ってまたテレビを睨みつけていた。夕方のバラエティー番組のようなニュースだった。しばらく二人でテレビを観ていたが祖母が手を戸棚に伸ばすとクッキーの袋を手に取った。包みを破いて机の上に広げた。
「食べや。」
「うん。」
「あんた、髭剃らなあかんで。与太郎みたいに思われるわ。」
「そうやな。また剃るわな。」
私は鞄から例の箱を取り出して机の上に置いた。
「何やそれ。」
「開けてみ。」
祖母が箱を手に取って開けると机の上に緑色の兵隊人形たちが散らばった。
「ああ、兵隊さんか。」
「せやで。珍しいやろ。」
「お父さんを思い出すわ。」
「お父さん、確か戦争で亡くなったんやろ?」
「そうそう。同じ部隊でお父さんだけ死んでな。お母さんがなんでうちの人だけってよく泣いてたわ。子供やったからよく分かってなかったけどそれでも悲しかったな。」
そう言いながら目を伏せて散らばった人形を箱に戻し始めた。
「まあ、もう古い話やから。」
「せやなぁ。」
自分は頷いたきり黙り込んでしまった。それ以上何も言えなかった。祖母から箱を受け取ると鞄に仕舞い込んでしまった。
「今日は泊まっていくんか?」
「うん。泊まっていくわ。」
「風呂に湯入れとくわ。」
祖母がゆっくりと立ち去ると私は目の前に転がるクッキーの一つ口に運んだ。
私が祖母の家に泊まる際はいつも同じ部屋で寝ている。縁側のある畳の部屋で仏壇がある。上を見上げると曽祖父と曽祖母、それに叔父と祖父の遺影が並んでいる。祖父の写真以外は誰も彼も強張った表情で虚空を見つめている。祖父の遺影だけは何故か微笑していた。昔は遺影というと笑うものではなかったのかもしれない。
祖母はベットで私は下に布団を敷いて寝る。部屋にテレビが据えつけてあるので二人で適当な時間まで寝転びながら観る。どちらかが先に寝ると起きている方がリモコンに手を伸ばして電源を切る。祖母は耳が遠いためテレビの音量もやけに大きい。最近は祖母の方が先に寝ることが多くなってきたため、殆ど私がテレビの電源を切ることが多い。その日もそうだった。
部屋を静寂が支配すると、程なくして私も眠りに落ちた。
「しっかりしろ」
「あと少しだ。」
また例の声で目が覚めた。うっすらと目を開けるとまた黄金の兵隊たちが行進を始めていた。鞄は無造作に畳の上に転がっている。
「おい、寝るな。目を開けろ。しっかりするんだ。」
「おい、あれをみろ、あれ」
兵隊の誰かが叫んだ。兵隊の一人が曽祖父の遺影を指差している。
「あれはDだ。おーい、おーい。」
「馬鹿、あれは写真だ。落ち着け。……我々ももう終わりなのかもしれないな。」
と、ベットの上の祖母が身を起こしているのが見えた。うんうん言いながらベットの縁に手をやって眼鏡を取っているのが音でわかる。
「ああ」
兵隊たちが歓声をあげているのが聞こえた。祖母もそれに気がついたようでお互い無言で睨みあっている。ゆっくりと祖母が身体を動かしているのだろう。衣摺れの音が聞こえる。
「あの、Dさんのお嬢さまですか?」
先頭にいた兵隊が震える声で尋ねる。祖母はまた無言で見つめているようだった。
「お尋ねしたいのですが、Dさんのお嬢さまでしょうか?」
「そうですよ。」
「Dさんをお守り出来なかった上に、我々ばかりおめおめと生き恥を晒してしまい申し訳ございませんでした。」
先頭に立っていた兵隊がそう叫んで深々と頭を下げた。他の兵隊たちもそれに続いた。またしばしの沈黙が場を支配した。黄金の兵隊たちは頭を下げたきり動かなかった。
「いいんですよ。皆さんもきっと最善を尽くしてくださったのだと思います。父は運がなかったのです。生きて父に会えなかったのは悲しかったです。でも、きっとそれも仕方なかったのだと思います。」
兵隊たちの啜り泣く声が聞こえてくる。
「皆さんにも行くところがあると思いますから。早くそこへ行ってきてください。待ってる人もいるはずです。もう戦争は終わったんですから。」
先頭にいた兵隊が頭を上げた。
「実を言いますと薄々わかってはおりました。やはり戦争は終わっていたんですね。ありがとうございます。本当に。」
兵隊たちが頭を上げる。皆服の袖で目元を拭っているのが見えた。
「Dさんのお嬢さまに敬礼」
そう叫ぶと兵隊たちは皆、祖母に向かって敬礼した。祖母もベットから降りて彼らの敬礼を受け入れていたようだった。しばらく敬礼し続けていたが、隊長が手を下ろすと兵隊たちもそれに続いた。
「ありがとうございました。」
そう叫ぶと皆、私の鞄に向かって撤退を開始した。祖母はゆっくりと歩き出すと玄関近くにある便所に入ったようだった。兵隊たちは物も言わずに鞄の中に戻っていく。便所を流す音が聞こえる頃には兵隊たちは元いた箱の中に戻ったようだった。べたべたと祖母の歩く音が近づいてくるのが聞こえる。
「ああ、戻ってきたな。」
そう思っているうちに祖母が炊事場に入っていった。疑問に思っているうちに眠りに落ちていた。
翌朝、目を覚ますと机の上に例の箱が置いてあった。その前には先日のクッキーが供えられている。祖母はリビングで焼いた食パンを齧りながらテレビを観ていた。私も祖母も黄金の兵隊の話は一切しなかった。
「なあ、Bくん。」
「どうしたん?」
「あの箱あったやろ? 兵隊さんの。」
「うん。」
「あれくれへんやろか?」
「ええよ。」
「あれいくらやった?」
「お金いらんからあげるって。」
「そうかありがとう。」
そう言って祖母はまたテレビに視線を戻した。
あれから何度も祖母の家に泊まったが一度も黄金の兵隊が行進したことはない。ようやっと彼らの戦争は終わったらしい。祖母は自分が亡くなったらあの箱を棺桶に入れてくれと言う。私はわかったと言った。
黄金の兵隊たちは今も祖母の家で静かに時を過ごしている。
新・十ノ物語 辻岡しんぺい @shinpei-tsujioka06
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