第6話 千客万来の部屋


 友人のAから連絡があったのは、ある秋の寒さと暖かさの混じり合った日のことである。

 O府のO大学という大阪の南の端にある大学に勤めている。勤めているといっても庶務課という学内の雑用係ともいうべき部署でのんびりと糊する生活を送っていた。一度はちょっとしたミスがきっかけで諍いが起こり、そこい学内での権力争いが加わって首を切られたこともあったが、友人Aの口利きで復職した。

 のらりくらりと日々の仕事をこなしていたが、上長が嫌がる脚を使う仕事ばかりこちらに来るために辟易していた。そんな折のAからの連絡である。飲みの誘いかと庶務課のオフィスを出て近くのベンチに腰掛けた。そうするうちに不在着信になっていたためこちらから折り返した。

「ようC、元気してるか?」

「おお。元気にしてるよ。Aは?」

「俺はまあいつも通りよ。今は大分落ち着いてるな。それよりC、旅館の仕事やってみないか? 知り合いがN県の旅館で働いてくれる人探してるんだってよ。」

「旅館か。中居さんか何かか?」

「馬鹿野郎、お前が中居さんって柄かよ。旅館の使ってない別館に住んでくれる人探してるんだって。使わないと傷んでくるから誰かに常駐して欲しいんだって。」

「住むだけ? そんな訳ないだろ?」

「それが住むだけらしいんだよ。凄い話だろ? 夜の二時までに寝るようにするのが条件みたいだ。」

「あれかな、夜五月蝿いと苦情が来るからだろうかな。」

「多分、そうなんじゃね。俺もよくわかんねぇよ。それと給料は日当みたいだな。いくら出ると思う?」

「さあ。八千円くらいかな。」

「二万もらえるらしいぞ。住んでるだけで二万ってすごくねぇか?」

「いやぁ、裏あるやろ。絶対。世の中そんな上手いこと出来てないって。」

「ただ話の通りだったらこんな話ねぇだろ。俺アテンドするからさ、お試しで一日行ってみねぇか?」

「賭けてもいいけど、絶対に何かある。世の中そんな上手く出来てるわけがない。」

「俺もそう思うけど、まあ話のネタに行ってみようぜ。俺、ちょっと気になるんだよな。」

「ああそう。じゃあ行ってみよか。」

「C、お前、次の休みいつだよ?」

 その日のうちに私とAは例の旅館に行く日付を決めた。旅館勤務は五日後となった。うまく行けば寝て起きてご飯を食べて昼寝して、一日二万稼げるのならこれほど楽な仕事はない。何か事情がなければそんなことに金を払う人間がいるわけがない。それだけはよく理解しているつもりだった。しかし目の前にそんな話が出されると幾分か判断が鈍る。そんな夢物語が、自分が知らないだけで現実に存在しているかもしれない、という錯覚に陥る。まず第一にお試しで一日なら行ってみてもいいだろう。Aと久闊を叙するにはいい機会かもしれない。

 Aはまず仕事にかかる前に紹介者のS氏と会って欲しいとのことだった。S氏は元々Aの得意先の人とのことだった。不動産の仕事をしているAと別会社で同じく不動産の仕事をしているS氏。ちょっとしたことで連絡を取り合ううちに意気投合してちょくちょく酒を飲むくらいの仲になったのだそうだ。

それからの話は早かった。事が動いたのはAから連絡があった翌日。私は仕事終わりにO府のM区の商店街の外れにある居酒屋でAと待ち合わせた。Aからは商店街の外れにあるなんとかという病院のような居酒屋にいると言われた。病院のような居酒屋なんてあるわけがないと思っていたが、歩いているうちにすぐにわかった。商店街の喧騒を抜けて少しばかり歩いていると、一軒の居酒屋が見えた。赤い暖簾の隙間から白い光が漏れ出ている。おおよそ居酒屋とは思えないような清潔感が暖簾の隙間から溢れ出ていた。

暖簾を捲って中を覗くと、鰻の寝床のような細長いカウンターの席が見える。奥でAが遠くを見ながら酒を飲んでいた。店主がこちらに気がついて会釈すると、Aもこちらに目をやって手を振った。他に誰かお客がいるようには見えない。

 やはりおおよそ居酒屋には似つかわしくない真っ白な照明である。何か落ち着かない威圧されているような明るさ。心地良さと引き換えに手に入れた圧倒的な清潔感が店中を塗りつぶしていた。

「うち明るいでしょ。買ってくる電球の色間違えてね。でもLEDだからもうずっとこんな感じになりそうで。凄いね、LED。」

 店主が快活な声で叫んで大笑いした。

「ここな、Sさんのお気に入りの店なんだよ。ちょっと変わってるけどいい人だから。Sさん。」

 Aが囁くような声で言った。私はAに倣ってビールを注文した。お通しは切り干し大根だった。

 程なくして戸を開ける音がした。店中の人間が振り返ると、背の高い青いシャツを着た四角い顔の白髪頭の男性が笑顔で何度も会釈していた。特徴的な濃い青のTシャツには見たことのない亀のキャラクターがこれ以上ないほどの笑顔で前方を睨みつけていた。

「Sさんだ。」

 またAが囁いて手を振った。S氏は何度も会釈しながらゆっくりと近付いてくる。私のすぐ横まで来ると

「お疲れ様です。すみません。すみません。」

 そう言ってゆっくりと座った。

「Sさん、彼が昨日言ってたCですよ。大学からの友達なんですよ。」

「Cです。よろしくお願いします。」

「ああ、Sです。すみません。すみません。」

 S氏が満面の笑みで何度も謝罪した。何かの言葉の綾で本当に謝っているわけではないのは誰の目にも明らかだった。S氏が店員に焼酎の水割りを注文している間、Aと私は黙って壁に貼り付けられたメニューを睨みつけていた。

しばしの沈黙。

「こないだ教えてもらった仕事なんですけどね。お試しで一日行ってみたいんですけどいいですか?」

 S氏がこちらを見て何度も頷いた。

「いいですよ。」

 ほとんど聞き取れないほど囁く声で言った。

「でもね、でもね、絶対に二時には寝てもらわないと困るみたいなんです。どうにも、困るみたいなんですね。ごめんね。すみません。」

 またS氏が笑顔でこちらを睨みつけながら何度も頷いている。Aと私もそれに釣られて何度も頷いていた。

「でも二時には寝ないといけないってどういう条件なんでしょうかね?」

「うんうん。それがね、たぶん、夜中に騒がれたら苦情が来るからじゃないかなって、思うんです。すみません。すみません。」

「話がよく出来すぎてると思うんですけど、何かあるんですかね?」

「うん、どうにもね、先代の遺産かなんかでお金が余ってるみたいなんですね。あと、たぶん税金対策とかあるんじゃないかなと思ったりしてます。違うかな? すみません。」

「当日、俺がアテンドしてもいいですか?」

 S氏が少し眉間に皺を寄せて押し黙った。何か考え込んでいるようだった。しばらく沈黙していたが

「たぶん、たぶん、大丈夫やと思いますけどね。すみません。」

 そう言って笑った。少し酒が入ったからなのかS氏の口調が少しずつ軽やかなものになりつつあるのがわかった。

「そういえば、Sさん、不動産屋あるあるの怖い話いっぱい知ってますよね。」

「そうそうそうそう。お兄さんは怖い話とか好き?」

 私にぐっと顔を寄せてS氏が囁いた。酒の匂いがほんのりと漂っていた。

「はい。好きですよ。」

 狼狽しながら私はなんとか答えた。

「昔、W県の田舎で体験した話やねんけど、僕が若いときにね」

 そう切り出してS氏が消え入るような声で語り出した。口調こそ快活になっていたが、囁くような口調は変わらない。聞き取れた部分と聞き取れない部分があって、聞き取れない部分の割合の方が多かった。



 当日の朝八時。集合場所は自宅から程近くの最寄り駅。ここでAが車で私を拾って、そのまま例の旅館に向かうことになっている。集合時間の五分前には到着していたが、Aの方が先に来ていた。私はゆっくりとAの車に近付いて窓を叩いた。

「よう、早いな。」

 Aが窓を開けながら叫んだ。私は助手席に乗り込んだ。二人で行き先を確認する。例の旅館は現在地から一時間ほど走ったところにあるN県の外れにあった。ナビに行き先を入力するとAの運転する車は走り出した。

 取り留めのない会話を続けていくうちに早くも三十分近く経っていた。遠巻きにコンビニの青い看板が見える。Aは徐々に車の速度を緩めた。

「あそこのコンビニに寄っていくぞ。酒買っていこう。どうせ今日はお試しなんだし、せっかくだから飲もうぜ。」

 私が同意するとAはコンビニの駐車所に車を止めた。我々は夥しい量の酒と少々のつまみを買い込んだ。費用はAが負担してくれた。Aは金を払いながら次飲む時は奢れよ、と付け足した。

 それから三十分ほど車で田舎道を走った。遠巻きに山が佇んでいる。いよいよコンビニの一つも見えなくなった。

「旅館で生活するだけって変な話だよな。」

 会話の合間の沈黙をAが破った。

「Sさんもよくわかってなかったみたいだけど、何かありそうだったら断ろうな。俺に気遣わなくていいから。」

 私はうん、と呟いて窓の外を見た。何体か地蔵が並んでいるのが見えた。

「こんなところに旅館って変な気がする。」

「そうだな。俺もそう思ってた。」

 しばらく走っていると先ほどまで遠巻きに見えていた山が随分と近くまで見えていた。山の足元に二階建ての小さな建物が見える。汚れた看板を目を凝らして見てみると、例の旅館の名前が書かれていた。

「あれやな。」

 私が呟くと、Aがおうと言った。それから例の旅館まで二分とかからなかった。いよいよ旅館の看板を目の前に臨む。旅館の前を曲がって駐車場に入った。ざりざりとタイヤが砂利を踏みしめる音が聞こえる。小さな旅館の割に駐車場は殆ど満車というほど車が止まっていた。

「ここが新しい職場だぞ。」

 Aが笑みを浮かべて車のエンジンを止めた。車を降りると冷たい風が頬を撫でた。近くの山で洗われた気持ちの良い風だった。遠巻きにぼんやりと大柄な鳥が鳴いているのが聞こえる。

 我々は砂利と踏みしめながらゆっくりと歩き出した。車内で私が感じていた不安に反して、例の旅館は思いの外上品で、周辺を小綺麗に掃き清められているのが遠巻きにでもわかった。

 ざざざざざざと砂利を踏みしめながら歩みを進めると、少しのアスファルトを踏みしめて旅館の玄関を開けた。奥で慌ただしく人が往来しているのが見える。時計を見ると朝食の時間のようだった。

「すみません。」

 Aの叫ぶ声を聞いて、頬のこけた着物姿の女性が駆け寄ってきた。

「おはようございます。本日はご来館いただきまして誠にありがとうございます。本日はご予約いただいておりましたでしょうか?」

 女性が姿勢を低くして消え入るような声で言った。

「いえ、Sさんのご紹介で別館に」

 そうAが言いかけたのを聞いて女性が得心した様子で頷いた。

「ああ、千客万来の部屋の。」

 どこか遠くを見つめながら女性が呟いた。

「ご案内いたしますのでどうぞお上がりくださいませ。こちらへどうぞ。」

 頬のこけた女性は我々を待ち合いのような広間に案内した。古い木の匂いがぼんやりと漂っている。よく清められた中庭が見えて、広い窓から灯りが差し込んでいた。女性に案内されるまま皮張りのソファーに座った。女性は旅館の奥に消えていった。我々はぼうっと中庭を見つめていた。

 しばらく待っていると、ぎいぎいと木を踏みしめる音が聞こえる。少しずつ近づいてくるのがわかる。音の方へ目をやると、紺色のダブルのスーツを着た小柄な老人が歩いてくるのが見えた。満面の笑みでこちらを見つめている。

「どうも、この度はお越しくださりありがとうございます。Sさんのお知り合いの方ですね?」

「そうです。確か別館の方でお仕事があるとかで。」

 老人が愛想良く話すのを受けて、Aがそれ以上ににこやかに応えた。

「お仕事言うほど大層な話でもないんです。うちの別館に千客万来の部屋というのがありましてな、そこで生活してもらうだけで結構なんです。」

「本当に生活するだけですか?」

 私が老人の目をよく見て言った。老人は表情一つ変えなかった。

「そうです。なにせ今は使ってないもので、使っておかないと痛んでしまうもんですからな。」

「えぇと、確か夜の二時までに寝ないと駄目なんですよね?」

「そうです。いかんせん、こんな田舎ですからちょっとした音でも気にしはる人もいてますのでね。そこだけお願いしてます。」

「他に何か条件はありますか?」

「ありません。二時までに寝てさえもらえたら後はもう好きなようにしていただいて結構です。お食事も仰ってくださったらこちらでご用意します。」

 老人の柔和な笑みが我々に突き刺さった。聞けば聞くほど裏があるような気がした。我々は何か考え込むように押し黙った。

「まあまあ、お二人さん。早速、行ってみましょか。千客万来の部屋。」

 Aと私は不承不承に老人の後に続いた。老人の笑みを見れば見るほど猜疑心が高まるような気がした。旅館を出て山の方にしばらく歩くと、本館よりもかなり小ぶりな一軒家が見えた。説明がなければただの家屋だと思ったことだろう。別館の真裏には山がそびえたっている。

 昔に大雨か何かで山が崩れて屋敷が押し潰されたとかで、怖がって誰も入りたがらないだとかそういうことだな、とぼんやりと考えていた。誰も寄り付きたがらないから、千客万来の部屋というやけに景気の良い名前にしたのだろう、と。

 別館の方も本館と同じくらいに周囲が掃き清められていた。例の旅館の名前と別館の文字、そして「千客万来の部屋」と書かれた木製の看板が立てかけられている。

 老人はつかつかと歩みを進めていた。思いの外、手入れが行き届いていたため私は安堵していた。Aもその様子だった。

「あれが千客万来の部屋ですわ。ここはね」

 と老人がくどくどと話すのを我々は話半分に聞いていた。正直なところ殆ど聞き取れなかった。別館の前に立つと老人はそのまま玄関の戸をがらがらと開けた。鍵を開けている様子はなかった。

「ああ、言い忘れてましたけどね、ここ鍵閉まらないんですわ。でも、こんな田舎ですから泥棒もいませんのでね。」

 私とAが顔を見合わせているのを気に留めずに老人は千客万来の部屋に上がった。我々も続くよりなかった。

 老人が愛想良く、しかし淡々と別館の物の位置や設備を説明していく。旅館の別館といっても、二階建ての家屋と相違なかった。老人の説明を聞けば聞くほど、ここは快適だと確信した。電気も通っているし、冷蔵庫も使っていい。アメニティも自由に使える。無くなったとしても連絡すれば補充してくれる。本館に連絡すれば洗濯もしてくれるそうだ。シーツや枕カバーも本館のものと纏めて近くのリネン業者に頼んでもらえるという。玄関の鍵が閉まらないことを除けば、これほどの好条件はなかった。

「それでは末長くよろしくお願いいたします。あとそれから、くれぐれも夜の二時までにお休みください。」

老人は何度もそう言って辞去した。

「案外悪くなさそうだよな。」

 Aが窓の外を眺めながら言った。

「俺もそう思う。めちゃくちゃいいと思う。まだ騙されてるような気がする。」

 しばらく千客万来の部屋を探索していたが、ふとAが思い立ったように

「酒取りに行こう。車に置きっぱなしだから。」

「ああ、忘れてた。」

「こんな機会でもないとゆっくり酒飲むことなんてないもんな。」

 しばらく歩いて駐車場の方から酒の詰まったビニール袋を持って歩いていると、本館の方から先ほどの老人がじっとこちらを見つめていた。

「あの人、ちょっと変わってるな。」

 私が老人に会釈しながらAに囁きかけた。Aも会釈していた。



 その日、我々は夕方の五時ごろから飲み始めていた。取り留めのない話をして飲み、また取り留めのない話をして飲む。気が付くと時刻は夜の九時である。酒はまだ四分の一近く残っている。

「酒、買い過ぎやろ。」

 と叫んでAの方を見ると、Aがうつらうつらと船を漕いでいる。私は何故だか大笑いした。風が吹いても面白いくらいに酔っていた。

「情けないな。おい、A。」

 Aが座ったまま寝息を立てていた。

「ありゃりゃ。」

 しばらくの間、一人で何ともなく話しながら毒にも薬にもならない時間を過ごしていたが、急に疲労が来たとみて寝ていた。

 深夜、何がきっかけはわからないが不意に目が覚めた。時刻は夜の一時五十分。寝ていなければならない約束の時間も迫っている。私は押入れから布団を二組分、引きずり降ろした。Aを起こして布団で寝るように誘導すると私も灯りを消して自分の布団に入った。

 物音一つしない田舎の深夜。風が時折窓を揺らす音がだけが聞こえる。冷え切っていた布団も少しずつ温まってきていた。しかし、こんな時に限って頭が冴えて仕方がない。寝ようとすればするほど目が赤々と燃え上がるようだった。

 遠巻きに歌声が聞こえる。何か民謡のような。何を言っているのか全く分からなかった。

 酔っ払いか何かに違いない。どこにでも変な奴はいるものだ。そう思っていた。歌声は依然聞こえてくる。歌声に混じって草木が揺れる音が聞こえる。何かおかしい、そう思ったとき、背中から生温い汗が滲み出てくるのがわかった。

 歌声は別館の裏側の山の中から聞こえてくるのだ。

 ぼんやりと歌声と草木を踏みしめる音だけが聞こえてくる。聞いたこともない曲だった。民謡のようだった。私はゆっくりと頭を上げた。Aの方を見ると壁の方を向いたままぴくりとも動かない。

 歌声が少しずつ近づいてくる。私はゆっくりと身体を起こして窓の方に移動した。歌声は先ほどよりも随分と近づいていた。ゆっくりと窓の向こうを覗き込むと、坊主頭に空な目をした男性が見えた。ふと視線を下にやると、身体は獣のように硬い毛で覆われていた。ふらりふらりと酒に酔ったような挙動でゆっくりとこちらに近づいてくる。私は慌てて頭を下げた。歌声は乱れることなく続いている。しかし足元はおぼつかないようで不規則な足音が続く。

 気取られないようにゆっくりと布団の中に潜り込んだ。なるべく歌声が聞こえないように布団を被って人差し指で耳を塞いだ。しかしそれでも歌声は先ほどよりもはっきりと聞こえてくる。何を言っているのか分からなかった歌の文言も少しずつ明瞭に聞こえてくる。

 歌の内容はここに書くのも憚られるほど幼稚な内容だった。男性器と女性器の名前を節に乗せて連呼しているのだ。そして自分でも堪えきれなくなったと見て時折忍び笑いする音が聞こえる。民謡のような曲調もなぜか子供の頃に見たアニメの曲のように聞こえた。

 化け物の足音が遠くなったり近くなったりする。千客万来の部屋の周りをぐるぐると回っているのだ。私は布団の中で震えるよりなかった。Aは眠っているのだろうか。この際、眠っている方が幸せなのかもしれない。そう思っていると歌声と足音がまた近付いてきているのがわかった。そして足音が玄関の前で止まった。掛け布団を少し上げて玄関の方を見ると、玄関の磨り硝子越しにぼんやりと影が見える。月明かりに照らされた坊主頭と、獣の身体をもった化け物の姿。

「おじゃまします。」

 先ほどまで歌っていた声が嬉々とした声で叫んだ。

「玄関の鍵閉めたっけ」

 そう思った途端に

「玄関、閉まらないんだった。」

 思い出したくもないことを思い出して布団を閉じた。

 がらがらと玄関の開く音がする。布団を被っているのにぶわっと魚の腐ったような匂いが立ち込めた。近くで寝ているAが激しく咳き込んでいる声が聞こえる。

 また先ほどの歌声が聞こえる。先ほどよりもずっと近くに聞こえる。ざっざっざっと畳を踏みしめる音がして、魚の腐ったような匂いがぐっと強まった。

 布団の中で身体を丸くしながら目から涙が溢れでた。

「あ」

 例の歌声の主が歌を中断して叫んだ。そしてどたどたとこちらに走り寄ってきた。こちらの存在に気付いて食うつもりなのか。そう思っていると、足音が自分の真横で止まった。ぶしゅっと缶を開ける音がして、ああ、と声の主が叫んだ。そして二、三ばたばたと跳ねるとまたよたよたと玄関に向かって歩き出した。玄関までの道のりは全くもって遠くない。しかし声の主の覚束ない足取りのためか、三分も四分もかけてゆっくりと声と足音は遠のいていく。しばらく音を聞いていたがまた玄関を開く音がして

「ありがとうございました。」

 声の主が叫んだ。嗄れた濁声が子供のように弾んでいた。

 段々と幼稚で卑猥な歌と足音が遠のいていく。しばらくすると声も足音も全く聞こえなくなった。声がしなくなるまで十分もかからなかったのだろうが、私には一時間にも二時間にも感じた。

 ようやっと布団から顔を出すと、魚の腐ったような匂いが先ほど以上に迫ってくる。うっ、と声を出す。

「A、おい、A」

「知ってる。何も言うな。今は寝よう。わかったな。」

 Aは身体を全く動かさずにそう言った。私は先ほど以上にはっきりとした頭で目を閉じた。どっどっと心臓が鳴るのが自分でもわかった。



 私とAは陽が昇ったのを確認するとすぐに荷物と塵を纏めた。二人とも物も言わなかった。塵を纏めながらいくつか変わったことに気が付いた。昨日の晩あれほど買い込んでまだ残っていた酒が随分と減っている。飲んだ覚えのない空き缶が捨ててあるし、そもそも缶自体の数が減っている。

「なあ、A」

 私がそう言いかけたのをAが目で制した。

 玄関を開けると足元に見覚えのない影が見えた。ふと目をやると足元に二匹、丸々と肥えた鯉が置かれている。Aはそれを余っていたビニール袋に包んだ。

 しばらく駐車場の車の中でぼうっと時間を潰していた。帰るには余りにも時間が早い。挨拶も無しに逃げ帰るのは紹介してくれたS氏に対しても大変失礼だろう。二人とも何も言わずとも分かり切っていた。鯉を持ち込んだために車内には魚の匂いが充満していた。最初こそ気になったが、気が付くと二人とも眠りこけていた。

 目覚めたのは朝の七時であった。Aは変わらず腕を組んで眠り込んでいた。ふと目をやると本館のから遠巻きに先日の老人がこちらを見つめているのが見えた。私はAの方を叩いた。

「ああ」

 そう言ってAが目を覚ますと、私が本館の方からこちらを見つめている老人を指差した。

「ああ。」

 Aはまたそう言ってゆっくりと車を降りた。私もAに続いて車を降りた。先程までの無気力そうな返事とは裏腹にAは力強く歩き出した。私は寝ぼけて焦げついたような頭で必死にそれを追いかけた。

「おはようございます。」

 Aが叫ぶと老人も挨拶した。

「大変お世話になりました。これ、お客さまからお礼の品です。」

 Aは千客万来の部屋の前に置かれていた鯉の入った袋を老人に差し出した。

「ここで見たり聞いたりしたことは口外せんといてもらえますか?」

 老人の目が笑顔の奥で鋭く光っているのが見えた。

「そのつもりです。僕らも出来る限り思い出したくありませんので。では。」

 およそ別れの挨拶と思えないほど快活にAが叫んだ。そしてまた力強く車に向かって歩きだした。私はそれに着いていくよりなかった。



「C、悪かったな。まさかあんな感じだとは思わなくてな。」

「いいよ。まあ、話のネタにはなるだろうから。」

 そう言って長いこと沈黙が支配した。

「ああ、そうか。だから千客万来の部屋なんだ。」

 Aが独り言のように呟いた。

『なにかあったのか?」

「いや、ああいうのって家の人間が入って良いって言わない限り入れないはずなんだよ。なんだって勝手に入って来たんだって考えてたんだ。そうか。千客万来の部屋だから誰でも入り放題なんだ。だから玄関の鍵が閉まらないんだ。」

 そう何度も一人で呟いていた。Aは私を最寄りの駅まで送ってくれた。行きは一時間ほどで着いたが、帰りは二時間弱かかった。



 あれから何日か経ってAと私はS氏をM区の居酒屋に呼び出した。例の仕事の話をするとS氏が驚いた顔をして

「すみません、すみません。」

 と頭下げた。S氏は本当に例の仕事の詳細を知らなかったようだ。例の仕事の話はそれまでになって、また取り留めのない話をしながら三人で酒を飲んだ。その日の飲み代はS氏が出してくれた。

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