第5話 しべりあさん

 夜の十時ごろであっただろうか。大阪のM区にある大きな商店街で酒に酔った頭で目的も無く歩いていた。頭はぼうっとしているが、足取りはまだしっかりしている。少し横道に逸れると海外の方が

「マッサージ、マッサージ」

 と言いながら近づいてくる。俯いたままやり過ごすより無い。

 もう少し飲みたいなと思って商店街を徘徊していると、商店街の外れに小ぢんまりとした居酒屋があった。夜も遅く赤みがかかった照明が多い中、白味の強い病院のような明かりが漏れ出している。この辺りに住んで三ヶ月ほどであるが、まだこんな店があることは知らなかった。店の前を一旦通り過ぎて横目に中を見ると、長いカウンターに椅子がちらほら。いかにも細長い鰻の寝床と言った様子。そこに真っ白な照明が白衣のような清潔感を演出している。しかし夜の居酒屋にはいささか似合わない。中にいるのは背の高い男性の店員ともう一人背の高い男が静かに飲んでいるばかりである。いかにも静かそうな店の様子が気になって暖簾を潜った。

 店主が快活な声で叫ぶと私は先に飲んでいた男の近くに座った。ハイボールを頼んでぼうっと印刷されたメニュー表を眺めていると、横にいる男性が飲んでいた酒を飲み干した。

「僕もハイボールください。」

 男性が消え入るような声で言った。

「この辺の方ですか?」

 声をかけてきたのは横の男性だった。あまりにも急なことで驚いた。

「そうですよ。お兄さんもですか?」

「僕はK区の方やから。ここ常連ばっかりやからびっくりしてね。またちょくちょく来てあげてね。」

 私は丁寧に何か言ったが何を言ったのかまでは覚えていない。それから男性はぼつぼつと色々な話を聞かせてくれた。

 そこで男性はS氏と名乗った。S氏は自分はおじさんとお爺さんの間ぐらいの年齢だと言う。青い色の見たことのない亀のキャラクターが描かれたシャツを着ていて、色の濃いジーンズを合わせていた。赤ら顔で囁くような声で話すので、何か言うたびに耳を近付けて聞き取ることになった。

「お兄さん、怖い話好き?」

 だしぬけにS氏が尋ねた。

「はい、好きですよ。」

 こうやって書いているくらいだから否定しようがないほど好きなのだが、努めて冷静に答えた。

「しべりあさんって知ってる?」

私は聞いたこともなかったので正直に答えた。

「まあ、地元の人しか知らんような話やもんね。僕もネットで調べたことあるけど見たことない。和歌山におるねんけどな。」

 確かにしべりあさんだなんて聞いたこともない。この通信の発達した世の中で誰かが書いていそうなものなのだが、一度もそんな名前は聞いたことがない。

「なんでシベリアさんなんですか? ロシアに何か謂れがあるとか。」

「いいや、俺も分からん。全然知らんねん。しべりあさんの話聞きたい? 聞かせたろか?」

 S氏が赤ら顔をぐっとこちらに近付けた。私は抑えきれなくなって激しく同意した。



 これはS氏がまだ青い若者だった頃の話だ。その時のS氏は不動産関係の仕事をしていた。ちょうど父親が小規模ながら事務所を設けていたので、その後を継いで不動産屋になった。しかし、小声でぼそぼそと話すためか営業職としてはからっきし駄目だったそうで、主に近隣住民や知り合いを相手にある程度生活できるだけの金額をなんとか稼いでいた。営業らしい話し方は出来なくとも、それなりに人柄のよかったS氏は生活に困ることはなかった。

 ある時に父親の友達が家を売りに出したいということで、和歌山県に向かった。最寄駅から十五分ほど歩いたところにある小さな港町である。アクセスも利便性も良くない。いくら田舎とはいえ、コンビニは最近出来たものが駅前に一軒。それ以外は何もない。ここで住む以上は夕方までに市場で買い物をしておかない限り少しばかり面倒だろう。これはどうしたものかと閉口した。

夕方までに仕事を終えて依頼主と挨拶をしている際に依頼主が妙なことを言った。

「今日は第二金曜日だから早めに帰りなさい。」

「何かあるんですか?」

「うん。しべりあさんが来るから。」

「しべりあさん?」

「いいから。今日は早く帰りなさい。」

 依頼主が苦虫を噛み潰したような顔で言った。どうにもこれ以上詮索してはいけない気がした。

 せっかく和歌山まで来たのだから鮪か何かを食べて帰りたいということでS氏は近くの定食屋に入った。表向きは定食屋だったが、店の中を見ると居酒屋のようにつまみや酒もある。店主の老人がテレビを睨みつけているのが見えた。私が席に座ると驚いた様子でこちらを見つめていた。

「あとちょっとで閉めるで。今日は第二金曜やから。」

「ちょっとだけ。ちょっとだけ。」

 店主が不服そうに奥に引っ込むと水を持ってきた。

「今日はもう早めに閉めるから。ごめんね。」

「第二金曜って何かあるんですか?」

「しべりあさんが来るから。」

「しべりあさんってお祭りか何かですか?」

 店主を手を振って店の奥に引っ込んだ。一々説明するのも大儀な様子だった。

 しばらくして鮪の定食とビールを注文した。定食は五分とかからずに運ばれてきた。

 鮪二切れと味噌汁でご飯を胃に流し込むと、そのあとは残りの鮪と漬物を肴にビールをちびちび飲んだ。

 がらがらと店の戸が開く。禿げあがった小太りの中年男性が顔を出した。

「今日は第二金曜日やで。」

 快活な声で店の奥に叫んだ。

「わかってる。」

 店主の老人は無機質な声で応えた。

「お前、こないだ出来たあそこの子には言うてるねやろな。」

「ちゃんと言うてるよ。」

 まるで何かの諍いのような口調であったがこれが彼らの日常のようだった。

「お兄ちゃん、もうぼちぼち帰った方がええよ。今日は第二金曜日やから。」

 中年の男性が穏やかな声でこちらに言った。

「しべりあさんですか?」

「そうそう。それじゃあ今日はもう帰り。」

 足早に去っていく中年男性の様子を見て、何か普通ではない理由があるように感じた。お祭りだとかそういうものではないように思える。

「ぼちぼち帰ってくれるか。もう俺も帰らなあかん。頼むわ。」

 老人が荒い口調でこちらのコップに水を注ぎ入れた。S氏は残りのビールを飲み干して足早に店を出た。



 何か漠然とした違和感を感じた。先ほどまであった活気が一斉に消え失せているようだった。家の灯りはどれもこれも消えて街灯の光だけがぼんやりと道を照らし出している。人っ子一人いなければ車も通らない。鳥の鳴き声が一つ遠巻きに聞こえてくるばかりである。

 定食屋の戸が開いて先ほどの老人が飛び出した。慌てた様子で施錠し小走りで家路を急ぐ。

「早く帰りや」

 こちらを睨んで老人が叫んだ。彼はよたよたと走りながら闇の中へ消えていった。

 しかしS氏はどうにも信じられなかった。何か怪奇めいたことが起こるのかもしれないが、そんなことそうそうあることではない。彼らの尋常ではない様子も田舎町であるが故の、何か牧歌的な純粋なものであって、我々が仏壇に手を合わせるかのようなそんなことなのだろう。そう思うって冷たい汗を拭った。

 まだ陽も落ちていないのにどこもかしこも閉ざされている。ちょっとした居酒屋があったら、あと一杯だけやろうと思っていた。そんなこと考えるなと言わんばかりにシャッターの閉まった店が立ち並んでいた。

 しばらく歩いているとお好み焼き屋の看板の横に真新しい看板が光っているのが見えた。「BAR ジーオ」と書かれている。シャッターの壁がいくつも立ち並ぶ中、そこだけは明々と照明をつけて愚か者たちを招き入れているようだった。看板の前に立つと一階にお好み焼き屋があって横に階段がある。そこを上るとバーがあるようだった。やはり一階のお好み焼き屋は閉まっているようで死んだように静まり返っていたが、二階への階段は赤みがかった照明がぼんやりと揺らめいている。S氏は何か吸い寄せられるように階段を上った。

 戸を開けると甲高い鈴の音がなった。狭いが洒落た洋風のバーだった。店主もおらず、エアコンの無機質な音がぼうっと聞こえる。店の奥から物音がすると、中年の痩せ細った男性が姿を現した。

「いらっしゃいませ。」

 男性がずり落ちた眼鏡をあげる。S氏が一歩店の中に入ると何か蒸し暑いものを感じた。

 S氏が適当に酒を注文すると、店主の男性がすぐに酒を入れてくれた。

 しばらく酒を飲みながらお互いに物を言わない時間が続いた。沈黙を破ったのはS氏だった。

「いいお店ですね。」

「はい。ちょうどこないだ開けたばかりでね。この街は静かでいいなぁと思ったんですけど。」

「あんまり詳しくないんですけど、今日、第二金曜日ですよね?」

「そうですね。しべりあさんですよね?」

「そうそう。みんな言うんですけど、なんなんでしょうかね。」

「さあ。よくある迷信じゃないんですかね。僕もよくわかりませんけど、でもいちいち気にしてられないなと思って。」



 気が付くと一時間二時間飲んでいた。それでもまだ夜の八時ごろだった。あまり口数の多くないS氏と、同じく口数の多くない店主。少し話しては沈黙が流れ、少し話してはまた沈黙が流れる。この地域の客層におおよそ合っているようには思えないが、少なくともS氏には心地良い空間だった。

「こないだ駅前にコンビニが出来ましてね。夜煙草が切れても駅前まで走ったらしまいでしょう? あそこもうちと同じくらいのタイミングに出来たはずですよ。今日この辺りで開いてるのはあそことうちくらいじゃないかな。」

 


 どんどんどんと鈍い音が聞こえた。

 どうやら誰かが階段を上ってきているようだ。



 店主が入り口をじっと見つめる。口角を上げて笑顔の練習をしているような、不思議な動きをしていた。

 また甲高い鈴の音が聞こえた。S氏もそっと入り口に振り返ると、背の高い小綺麗な背広を着た紳士が立っていた。

「お久しぶりです」

 戸を開けるなり老紳士が叫んだ。店主は首を傾げながら精一杯の愛想笑いをしていた。

「お久しぶりです。覚えておいでですか?」

「ごめんなさい。どうしても思い出せなくて。どなたでしたっけ?」

「お久しぶりです。覚えておいでですか?」

 老紳士が表情一つ変えずに叫んだ。店主は酷く困惑しているようだった。

「入ってもいいですか? ねえ、入ってもいいですか?」

 S氏が店主に目配せくると店主は困った様子で眉を顰めていた。老紳士が聞いたこともない言葉を何度も繰り返した。何度も捲し立てるように同じことを繰り返し叫んだ。そうするうちに老紳士が満面の笑みを浮かべながら節目がちに

「おはようさん」

 と言った。呆気にとられるうちに老紳士がおずおずと階段を降りていく。

 店主が窓越しに外を覗き見る。S氏もそれに続いた。しかし老紳士の姿がない。二人とも物も言えずに立ち尽くしていた。そうするうちにまたどんどんどんと階段を踏みしめる鈍い音が聞こえる。二人揃って入り口を睨みつけた。

 次に姿を見せたのは老婆であった。

「お久しぶりです。お久しぶりです。」

 老婆は空な目でそう繰り返した。店主はじっとそれを見つめるよりなかった。

「入れてもらえますか? そろそろ入れてくれますか? お父さんとお母さんは?」

 壊れた人形のようにそう繰り返していく。老婆ははっと思い出したように鞄に手を入れると赤子の人形を取り出して見せた。

「これ、わたしの子供。お父さんとお母さんが私。お母さんも私。お父さんはお兄さん。そういうことね?」

 老婆が店主を指差した。店主は私の顔を何度も見て助けを求めているようだった。

「死ね。」

 ゆっくりとはっきりとした口調で老婆が赤子の人形に言った。そして外の階段に投げつけた。

「入ってもいいですか?」

 じっと店主に顔を近付けて囁くように店主に投げかけた。店主はもう答える気力も残されていなかった。

「入ったら駄目ですか。そうですか。」

 老婆が大笑いしてゆっくりと階段を降って行った。店主も私もその様子を見守っていた。そのまま二人して窓際まで駆け寄るとじっと外の様子を見つめる。また誰かが通る様子はなかった。

「これ、また来ますよ。」

 S氏が喉から声を絞り出して言った。店主は黙って頷いた。

 またどんどんどんどんと階段を上る音が聞こえる。先ほどよりはっきりとした力強い音だった。

 店主が息を整えて入り口の方へ向かって行く。

「開けてください。」

 若い女性の声が聞こえた。店主がゆっくりと戸を開ける。少し首の伸びた白いシャツを着た若い女性だった。

「いやぁ、どこも開いてなくて大変でしたよ。どうなるかと思いました。」

 S氏も店主も深い息を吐いて表情を緩めた。ドアをさらに開けて中へ案内しようとした。

「入ってもいいですか? 入らない方がいいですか? 入ったら駄目ですか?」

 老婆のような声で女性が叫んだ。店主が慌てて開きかけた戸を狭めた。明らかに顔が青ざめているのがわかった。

 若い女性が持っていた鞄に手を入れると中から赤子の人形を取り出して見せた。

「お父さん、この子ね」

 そう言いかけた途端に店主が荒々しく戸を閉めた。戸の向こう側から、開けてください、開けてください、と叫んでいる声が聞こえる。しかし店主は一向応じる様子は無い。何度か叫んでいたが、そのうちにゆっくりと階段を降っていく音が聞こえた。

「あれがもしかしてしべりあさんですか?」

 どんどんどんどんどんどんと階段を上る音が聞こえる。店主の顔を覗き見ると目に涙を浮かべていた。店主が必死に戸を抑えている。何度か戸を開けようと向こう側から力が加わるのを声を潜めて必死に押さえつけていた。しまいに戸にかかる力が弱まると、どどどどどどどどどど、と何度も叩く音が聞こえた。向こうから声は一切聞こえない。しばらくの間、戸を叩く鈍い音だけが場を支配した。段々と戸の向こうから荒い息遣いが聞こえる。戸を叩く音が止み、息遣いがはっきりと聞こえると、発情した猫のような赤子の鳴き声が聞こえた。

 店主もS氏も身を小さくして南無阿弥陀仏と繰り返し唱えた。時間にして五分ほどだろうか。赤子の鳴き声は止むこと続いていた。しかし、S氏には一時間にも二時間にも感じたという。早く終わってくれと心の中で何度も願った。喉を詰まらせるように鳴き声が止むと、また軽く戸が叩かれて

「グルースナ」

 はっきりとそう聞こえた。そうしてゆっくりと階段を降っていく音が聞こえた。

 また店主と私がゆっくりと窓から外を覗き見ると、青いシャツを着た背の高い男が見えた。赤ら顔で笑みを浮かべている。真っ直ぐ前を見ていたが、ぐるりとこちらを向いて大きく手を振った。そうして何度か頷くと駅の方へ消えていった。

 店主は慌てて店前の看板をclosedに変えた。そして店の戸を閉めて錠をかけると椅子に座り込んでため息をついた。二人は何も言わずに朝までそこに座っていた。



 翌朝、S氏は店主に丁寧に礼を言うと駅に向かって歩き出した。一刻も早く大阪に帰りたい一心であった。十分ほど歩いていると駅前のコンビニが見えた。しかしどうにも昨日と様子が違う。シンボルとして輝いていた青い看板は砂を被ったように色褪せて、硝子がいくつか破られている。店内も棚が倒れて物盗りにでも入られたようであった。店内に店員の姿はなく、警察官が幾人か寄って何かを調べているのが見えた。

「入っていいですか? と言われて、いいですよと言ってしまったんだな。」

 S氏が心の中で呟いた。

 それから何度か仕事でその方面に行くことはあったが、例のバーには立ち寄っていない。駅前のコンビニはまたいつものように営業をしているようである。

 あれから気になって何度か「しべりあさん」について調べたが、ついぞ情報は出てこなかった。唯一わかったのは例のバーが流行病のために閉店したということだけだった。



 そこまで話すとS氏はハイボールをぐいと飲み干した。

「グルースナとか言うてたのがやけに頭に残っててね。なんなんやろね。」

「しべりあさんっていうぐらいやから、ロシア語と違いますか?」

 私がそう言って携帯電話で調べると、グルースナとはロシア語で「寂しい」という意味だった。そうかそうかとS氏が何度も頷いた。そうこうするうちにS氏が俄に立ち上がった。

「電車の時間やねん。ごめんな。また来たってな。」

 そう囁くと何度も頷いた。そしてお金を払って店を出た。店の外から大仰に手を振っているのが見えたので私も振り返した。

 私も程なくして店を出た。

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