第4話 霊犬伝説
旅の僧はゆっくりゆっくりと歩を進めていた。遠巻きに野犬がぎゃんぎゃんと吠える声が聞こえる。もはやどれほど歩いたのかわからない。時折地図を広げてふうふう息荒く見つめてみるが、首を傾げてまた地図をしまう。またしばらく歩いて地図を広げて、首を傾げて地図をしまう。野犬の鳴き声は次第に近づいて来ている。後ろからふっふっふっと犬の息遣いが聞こえた。陽が少しずつ沈んでくるのを横目に旅の僧は歩みを早めた。
「歩みを止めたら食われる。彼らは隙を窺っているのだろう。ちょっとした拍子に転びでもしたら命はないだろう。」
ぼんやりとした頭で旅の僧はそう思った。もう足の痺れもない。ただ頭がぼうっとしてどうにも綺麗な思考にならぬ。どこかで宿を取って休まねばならないが、しかしそうも言っていられぬ。何せ何処かから聞こえる野犬の声である。
ふっふっふっふっと荒い息遣いが四方から聞こえた。息遣いが少しずつ距離を詰めて来ている。草木の向こうからぼんやりと鋭い光が見える。全部の光が刃物のような鋭さで旅の僧をさしていた。このままでどうにもならぬ。
僧が振り返った。そして持っている食料をありったけ道に投げ出した。
しばし場が鎮まりかえる。ふっふっふっという息遣いも聞こえなくなっていた。
ぐっと辺りに獣の匂いが立ち込める。草木の中からひと吠え。すると草むらから十匹近い数の犬が飛び出して食料に貪りついた。野犬たちは凄まじい叫びは辺り一面に響いた。旅の僧はそれを見守るよりなかった。
「次は自分かもしれない。」
旅の僧はゆっくりと後ずさった。なるべく犬たちから目を離さないようにしながら慎重に足を滑らせた。
一際大きな白い犬が旅の僧を睨みつけた。精悍な顔立ち細くしなやかな四肢が月明かりで浮かび上がった。他の犬もそれに続く。陽はすでに落ちて久しい。犬どもの目が光って暗闇の中にぼうっと浮き上がった。白い野犬がひと吠え。すると他の野犬たちが僧を取り囲んだ。そうして白い野犬が先頭に立って僧に吠える。他の犬たちが僧の背中を押した。旅の僧は呆気に取られたように立ち尽くしていたが、何か腹を決めたように頷くとゆっくり先頭の犬に続いて歩き出した。
しばらく歩みを進めると川のせせらぎが耳に入った。
「水を飲まないか。どうにも疲れた。」
旅の僧が先頭を歩く白い犬に呼びかけた。犬は振り返りもせずに草むらの中に入った。他の犬もそれに続いた。しばらく歩いていると月明かりに照らされて滔々と流れる川が見えた。陽が落ちてもわかるほど水は透き通っているように思える。僧は川辺にゆっくりと近づくとしゃがみ込んで手を差し入れ口に運んだ。深い息を吐いてまた水を口に運ぶ。犬たちもそれに続いて口を水に差し込み水を飲んでいた。
向こう岸に酸漿のような真っ赤な光が二つ見える。水を飲む音が聞こえてくるが光はじっと僧たちに注がれていた。僧の横で犬が唸る声が聞こえる。向こう岸からも何か唸る声が聞こえるがどうにも犬の声のようには聞こえない。両者はしばらくの間睨み合っていたが、向こう岸の影が俄に
「なんだ、しっぺい太郎じゃないのか。よかった。」
と言った。そうして闇の中に消えていった。犬たちはしばらくの間、闇の向こうを睨みつけていたが、白い犬がひと吠えするとその後に続いて歩き出した。もちろん旅の僧も続いた。
それからもうしばらく歩いていると山沿いに小さな村が見えた。陽はもうすでに上がりつつあった。一行は村のほど近くまで歩いていったが、先頭の白い犬が一つ吠えると群を率いて元来た道を戻り始めた。僧は黙礼した。
村に入った僧はまだ寝静まった家々を見守りながら、近くにあった家の軒先にへたり込んだ。背中をもたれさせてしばらく微睡んでいたが、気が付くと気絶するように寝入っていた。
旅の僧が目を覚ましたのはそれからしばらくたった後だった。何か僧の肩を叩くものがあって目を向けると家主の男性だった。中年の痩せた野菜のような顔の男だった。
「お坊さん、こんなところで寝ていては風邪をひきますよ。どうか家の中でお休みください。」
「これはこれは」
僧が目を擦りながら家主に続くと質素な家の中が見えた。家主と歳の近い同じく野菜のような顔の女房と、その娘であろう若い娘が目に入った。僧は昨夜よりも少しばかりはっきりとした頭で深々と礼をした。
「狭い家ですがゆっくりとお寛ぎください。そうだ、坊さま、ご飯は食べられましたか? あまりたいしたものは出せませんが、よかったら」
女房が立ち上がって飯の支度を始めた。家主は僧を丁寧に座らせた。若い娘は黙礼したきり俯いて物も言わない。
「旅の方ですか? どうしてまたこんなところまで」
「どうにも道に迷ってしまいましてな。途方に暮れていたところ野犬どもに助けられた訳でして。」
「そうでしたか。これもきっと何かの巡り合わせでしょうな。」
家主が精一杯の笑顔を作って見せた。旅の僧は何か釈然としないものを感じた。
奥から女房が飯を運んでくるのが見える。女房は丁寧に僧の前に飯を置くと一礼した。僧も深々と礼をした。
僧はゆっくりと飯を口に運んだ。この期に及んで掻き込む気は起きなかった。彼らがなけなしの米を持ってきてくれたのは明らかだったからだ。
旅の僧は最後の一粒まで食べ終えるとまた深々と礼をした。
「一宿一飯の恩もあります故お聞かせ願いたいのですが、皆どうにも……活気がないように思います。どうかなさいましたか?」
「実を言いますと」
女房が言いかけて口籠った。
「なんなりとお聞かせください。私も旅を続けておりますので少しは知恵をお貸しできるかもしれません。」
「実を言いますと、この村にはちょっとしたしきたりがありましてな。毎年この時期になると山の神社に贄を捧げなければならぬのです。贄は若者と定められております。そして今年が我が家の番なのです。」
家主が悲痛な面持ちで言った。
「贄を捧げなければどうなるのです?」
「何度かそうした家がありました。その年は山の神が怒り狂って三日三晩続く嵐を起こし、到底生活のできるような状況ではありませんでした。その家のものも皆殺しにされました。」
「なんと」
旅の僧が頭を抱えて俯いた。家主の男はそれでも話を続ける。
「何故うちの子がこんな目に遭わねばならないのでしょうか。あの子もこんな目に遭うために生まれてきた訳じゃありません。お天道さまにも欠かさず手を合わせてますし、ご先祖さまを馬鹿にしたこともありません。親も人並み以上に大切にしました。それでも我が子がこんな目に遭うなんて納得出来ません。あんまりです。」
「わかりました。なんとかしてみましょう。」
家主と女房が一斉に僧に目を向けた。
「しかしいくら旅の方とは言ってもそんなことは」
「贄を要求し、その通りにならねば逆上する神などまともな神とは言えません。なんとか出来ないかやってみましょう。」
家の者たちが揃って僧に縋りついた。そして僧の衣服に顔を擦り付けて泣きに泣いた。
「やってみなければわかりませんのでな。いつまでに贄を捧げねばならぬのですか?」
「あと六日後の夜に神社の前に贄を長持ちに入れて置かねばなりません。」
「わかりました。ことによっては私が身代わりになります。その日まで私に時間をくださいませんか?」
その日の夜、旅の僧はそろりそろりと山に入った。汗が顎を伝って草木を濡らした。化け物どもに気取られぬようゆっくりと歩みを進めると木々が開けた先に荒れ果てた神社が見えた。屋根に穴が空いたところ風が吹き付けてびゅんびゅんと音が鳴っている。僧は身を屈めた。ゆっくりと懐に手を伸ばして隠し持っていた刃物を握り込む。
風に運ばれて黒い影が姿を表した。二つ三つ、影たちは次々と姿を集まっていき十近い数にまで膨れ上がると先頭の一人が
「しっぺい太郎には気付かれていまいな?」
「はい。もちろん。」
「あれに気付かれたら大変な事になる。絶対にしっぺい太郎には知らせるなよ。」
影たちが神社の戸を開けてゆっくりと中に入ると大声で笑い出した。酒の匂いが辺りを包み込む。神社の中から景気の良い歌声が聞こえた。
あのこと このこと聞かせんな
しっぺい太郎に聞かせんな
近江の国の長浜の
しっぺい太郎に聞かせんな
わっと神社の中から歓声があがって大笑いしていた。山中に響くような声だった。
僧は震える手で握っていた刃物をそっと懐に戻した。自分一人で到底どうにか出来る存在でないのは火を見るよりも明らかだった。
「しっぺい太郎。」
そっと旅の僧が呟いた。と、山中に響いていた笑い声が止んだ。
「誰か今、しっぺい太郎って言ったか?」
張り詰めた声が聞こえる。僧はまたゆっくりと山を降りた。
旅の僧が村を発ったのは次の日の朝であった。僧が村を出た理由は一つ。しっぺい太郎を連れてくる、それだけであった。相手は神などではない。例え神であったとしても恐るべき邪神である。彼らを退治するのは並の人間の手では到底出来ぬであろう。あの化け物どもが唯一絶対的に恐れるしっぺい太郎という英雄こそ、最後の希望であった。だが、近江の国、長浜までは決して近いわけではない。刻限は迫っている。それにしっぺい太郎が長浜のどこにいるのか全くもって分からぬ。
そこで旅の僧は村まで来た道を引き返した。あれほど長く感じた村への道のりも、一度過ぎればなんのこともなかった。しばらく歩くうちに野犬の鳴く声が聞こえた。ふっふっふっと荒い息遣いが聞こえる。
「俺だ。行きの際はとても助かった。」
そう叫んでまた持っていた食べ物を投げ出した。また野犬たちが群がって食べ物を貪っていく。と、また白い犬が僧を注視した。
「すまんが、一つ教えてくれんか? 近江の国、長浜にしっぺい太郎という者がいる。俺はその男に用があるのだが、居場所が分からない。もし知っていれば連れて行ってくれんか?」
野犬たちはじっと僧を見つめていたが、白い犬が意を決したように吠えた。手下たちもそれに続いた。かくて彼らは長浜に走り出した。
長いこと走りに走るうちに寺が見えた。先頭にいる白い犬が走る足を緩める。そうして寺の前で跳ね回った。僧が息も絶え絶えに彼らに追いつくと、犬たちは一斉に遠吠えを始めた。どたどたと寺の奥で物音がして、大柄な和尚が走り寄ってきた。
「おい、早太郎(ハヤタロウ) 早太郎じゃないか。久しぶりだな。元気にしてたか?」
和尚が白い犬を抱きしめて顔を撫で回した。
「しっぺい太郎さんですか?」
旅の僧が尋ねる。和尚の堂々たる体格は違うことなき英雄のそれであった。
「しっぺい太郎ですと? あなた、しっぺい太郎をご存知ですか?」
「ええ、あなたを探してはるばる」
言いかけると和尚は大笑いした。
「私はしっぺい太郎ではありません。しっぺい太郎はこいつの兄でしてな。」
和尚が早太郎と呼ばれていた犬を指差した。
「ではしっぺい太郎というのは」
「呼んで見せましょうか?」
そう言って和尚は息を整えた。
「ちび、ちび、ちびちびちび」
そう叫ぶや否や、ぶわっと強い風が吹いたように草木が揺れて、白い大きな犬が飛び出した。その姿は早太郎と呼ばれている犬とよく似ていたが、体格は一回りも二回りも大きい。牡牛と並べても大差ないほどだろう。きっと先程まで野山を駆けずり回ってきただろうに落ち葉の一つも付いていない。
「こいつがしっぺい太郎です。私が名付けた訳ではありませんが、いつの間にか誰かがそう呼んでましてな。悉くを平らにすると書いてしっぺい太郎というのです。」
旅の僧は眉間に皺を寄せて頷いた。
「どうやらこいつは私の知らない間にどこぞで人助けをしているようでしてな。どこぞの化け物を追い払った、大和国の龍神さまを説得しただとか、私の知らないところで人助けしているようです。そうは言ってもこいつは私のちびですから。」
しっぺい太郎が和尚に身体を擦りつけて甘い声で唸った。
「和尚さま、お願いがあります。」
「なんでしょうな。どれ、仔細中でお聞きしましょう。」
和尚は旅の僧を本堂に通すと、客人に茶を出した。
「和尚さま、お願いと言いますのがしっぺい太郎をしばらくの間お貸しいただきたいのです。」
「ほうほう、何がありましたか。」
旅の僧は和尚に全てを打ち明けた。焦りからか早口で捲し立てるように話していた。しかし和尚は表情一つ変えず聞いていた。僧の口調よりも話の奥にある真実を聞いているかのようだった。
「わかりました。」
和尚がそう言うと庭から大きな犬の鳴き声が聞こえた。
「それほどお困りというのなら喜んでお受けいたしましょう。それにちびも勇みたっているようです。」
和尚は僧と連れ立って庭に出た。しっぺい太郎と早太郎がじっと和尚たちを見つめていた。
「ちび、聞いていたか。村の人たちを助けに行ってくれるのか。」
しっぺい太郎はじっと和尚を見つめていた。それが強い同意を示すのは誰の目にも明らかだった。その横で早太郎が小さく吠えた。自分を忘れるなとでも言うようだった。
「旅の方、しっぺい太郎もこう言っております。村の皆さまを救いに行ってくだされ。それから」
そう言って和尚は旅の僧の顔を覗き見た。
「あそこに馬がおります。ここでお亡くなりになった方が置いていったのです。村まではそれでいくのが良いでしょう。なに、馬でなくてはうちのちびには追いつけますまい。おい、ちび、必ず生きて帰ってこいよ。」
静かにそう言うと寺の奥に引っ込んでいった。
旅の僧としっぺい太郎は早太郎の軍団に先導されて村までの道を猛進した。和尚の言う通り、しっぺい太郎と早太郎に追いつくには馬でやっとというところであった。
彼らが村についた頃、例の家の周りに人だかりが出来ていた。家の前に長持ちが置かれ、それを男たちが持ち上げようとしている。
「何をしている。早くそれを降ろしなさい。」
僧が叫ぶと男たちは慌てて長持ちを下ろした。
「この長持ちには俺とこのしっぺい太郎が入る。こんな馬鹿げたことは今日で終わる。」
この叫びを聞き、村人たちは歓声をあげた。しっぺい太郎も大きく吠えた。早太郎と野犬たちがしっぺい太郎に近付いていく。それに気付いたしっぺい太郎が早太郎に噛み付くように飛びついた。二匹はしばらく絡み合っていたが早太郎が組み伏せられた。しっぺい太郎が二、三吠えると早太郎はおずおずと野犬を率いて去っていった。
「しっぺい太郎、お前も思うことがあるのか。弟にもその思いは届いているだろう。」
二人は少し水を飲んでから長持ちの中に入った。村人たちはいつものように沈んだ顔をして山の中に彼らを運んだ。長持ちの中の二人はその間、物も言わなかった。
山中の寂れた神社に影が一つ、二つ三つ。影はまた十近い数に膨れ上がる。
「おい、今日もしっぺい太郎には気付かれていまいな。」
「もちろんです。」
「全く、犬の鳴き声が聞こえたから肝を冷やした。」
影たちが神社の戸を開けて中に入ると部屋の中央に長持ちが置かれているのが見えた。
「よしよし。今年もちゃんと置いてあるな。今年は女だといいな。女の肉はこと柔らかい。」
誰かが長持ちに手をかけると、箱が揺れてしっぺい太郎と僧が飛び出した。
「しっぺい太郎だ、しっぺい太郎だ」
悲鳴のような声が神社の中で響いた。しっぺい太郎は近くにいた影の一つに飛びついて瞬く間に切り裂いた。
大きな手が僧に伸びる。僧はそれに気が付くとさっと身を翻した。大きな黒い腕が宙に舞って落ちた。僧の手には大振りの刃物が握られていた。転がった腕を見ると毛に覆われた針山のような手だった。
「狒々だな。やはり神などではなかった。」
旅の僧は確信した。彼が若い頃、戦に出た記憶を頼りに思いきり刀を振るった。僧が狒々を一匹斬り伏せている間にしっぺい太郎は三匹ねじ伏せていた。狒々の数は瞬く間に減っていき、後には累々と狒々の残骸が積み重なるのみであった。
最後の一匹である。一際大きな身体。伸びた牙と血走った目。
「しっぺい太郎、しっぺい太郎」
と譫言のように繰り返している。狒々が手を伸ばしたのは旅の僧であった。さっと刀を振るうと狒々の腕が落ちた。と、落ちた腕が飛び上がって旅の僧を掴んだ。神通力で腕を操作しているようだった。しかしそれを許さないのがしっぺい太郎。腕に噛み付くと瞬く間に神通力を奪った。
しっぺい太郎が宙に浮いた。今の隙を突いて狒々がしっぺい太郎に噛みつき持ち上げたのだ。ぎりぎりと締め上げ牙を身体に食い込ませていく。狒々はしっぺい太郎を持ち上げたまま寺の外にゆっくりと歩きだした。後ろから僧が何度も狒々を突き刺すが物ともしない。噛みつかれたまま、しっぺい太郎が大きく吠え上げた。絶体絶命の状況でなお闘志は潰えていなかった。旅の僧は変わらず何度も刀で狒々を突き刺すが、そのうちに刀が折れた。しっぺい太郎の吠え声だけが山に虚しく木霊した。
遠巻きに犬たちの鳴き声が聞こえる。山をどどどどどと揺らすような足音。
「早太郎だ。」
僧が呟くと早太郎に率いられた野良犬の軍団が飛び出した。そのまま彼らは一直線に狒々に向かっていく。十匹近い犬が群がり狒々の王は砂煙の向こうに消えた。犬の鳴き声が聞こえなくなり、砂煙が晴れる頃には狒々の遺骸が転がるばかりであった。悲鳴をあげる間もなかった。
倒れたしっぺい太郎に僧が駆け寄る。息が乱れ、自身の血と返り血で白い身体は真っ赤に染め上げられている。虚な目でぼうっと早太郎を見つめていた。
「しっぺい太郎、しっぺい太郎。」
早太郎もしっぺい太郎に駆け寄る。早太郎が弱々しくしっぺい太郎の傷口を舐め始めた。
「ぐう」
しっぺい太郎が低く唸った。ゆっくりと立ち上がると割合しっかりとした足取りで近くの川に向かった。旅の僧も早太郎たちもそれに続いて様子を見守っていた。しっぺい太郎は川に入って身を清めていた。赤く染まった奥から白い毛が浮き出してくる。英雄の身体は瞬く間に元の白い神聖さを取り戻した。
ひとしきり身を清めるとしっぺい太郎はゆっくりと歩き出した。
「どこへ行く。傷の手当をしないと」
僧が言うのを聞かず、ゆっくりゆっくりと歩き出した。時折ふらふらと倒れそうになるのを早太郎が支えた。僧は黙って見守るよりなかった。
長いこと歩いていると、しっぺい太郎のいた寺が見えた。寺が見えるなりしっぺい太郎はどっと大きな声で吠えた。早太郎や手下の野犬たちも続いた。そうするうちに寺の奥から和尚が顔を出した。
「おぉ、ちび、ちび」
和尚が手を振っている。しっぺい太郎は和尚に向かって走り出した。僧と早太郎たちも続く。しっぺい太郎は和尚に飛びついて身体を擦り付けた。これ以上ないほど尻尾を振って和尚の顔を舐め回している。
「ちび、生きて帰ったか。そうかそうか。」
少しの間二人は身を寄せ合っていたが、ついにしっぺい太郎が和尚の腕の中で力尽きた。少し眠るとでも言いたげな穏やかな表情だった。
「そうかそうか。よく頑張ったんだな、お前は。ちび、ちび、お前、よく頑張ったよ。お前、よくやったよ。誰かがお前のことをしっぺい太郎と言っても、お前は俺のちびだ。よしよし。かわいいやつだ。」
しっぺい太郎の頭を撫でながら和尚が言った。
「早太郎。お前、ちびのやってるところ見てたか? よく頑張ってただろう。こいつは大したやつだった。お前も大したやつだ。早太郎、次はお前がしっぺい太郎になるのだ。そしてちびよりも大したやつになるんだ。辛くなったらここに戻ってこい。ここはお前とちびの家だ。」
早太郎はじっと和尚の顔を見ていた。そして長く大きな声で吠えた。
しっぺい太郎はその日のうちに懇ろに葬られた。旅の僧と和尚はしっぺい太郎のために長いこと経を読んだ。
早太郎は庭からその様子を見つめていたが、ようやっと何か得心したかのように小さく短く吠えた。そうして寺を飛び出すと仲間を率いて走り出した。
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