第3話 雪の麗人
一面の白銀世界の中に小柄な人間がちらほら。汚れ一つ無い潔癖の白。頬を切りさくような風が吹き付けて顔を上げると、雪の造形物が百鬼夜行のように目の前にあらわれた。
真っ先に目に入ったのは巨大な氷の獅子であった。巨大な体を懸命に縮めて遠くの何かを睨みつけている。
遠巻きに顔面のついた機関車の雪像が見える。薄らと笑みを浮かべてあらぬ方向を見つめる雪像を見つめながら、酒に酔った父親の顔を思い出した。
強い風が辺りを撫で回していく。耳元に風が当たってごごごと鈍い音が聞こえる。耳が痺れ上がるほどの痛みがきてフードを被った。頭を下げてぶるぶると体を震わせる。ゆっくり一二歩前に進みながらじっと下を見ると、足元の雪が幾重にも足跡が重なって茶色く変色していた。ほうっと口から白い息が漏れ出ているのが見えた。
ふと思い至って顔を上げると、目の前に「雪の麗人」がいた。
雪の麗人という名を与えられたこの雪像は、長い髪に、大きな目を見開きながら、異常なまでに清潔であった。これほど清潔な女性を見たことがない。この「雪の麗人」は雪で形作られた怪物たちの中にあって、一つの違和感としてそこにあった。こうしてみると、込み上げてくる美しさに付して、ある種異常なまでの清潔感を持ってたたずんでいるのである。
何故か居た堪れなくなって深々とため息をついて目を落とした。そして再び目を上げてありありと、この美しい像を穴が開くまで見つめた。「雪の麗人」は私の視線に汚されることなく、依然として美しく、清潔であった。
自分の周りを幾人か通り過ぎていく。誰も彼も雪の麗人には見向きもしなかった。一歩、雪の麗人に対して歩みを進める。侵入防止のコーンが足に当たる。もう一歩、指先が届くまでもう少し。もう少しでこの手があの人の所へ。
ごおっと強い風が吹き付けて後退した。情けない声が漏れ出た。雪の麗人は私の悲痛を知る由もない。
こうなると写真を撮る気も起こらない。どうしようもない。目の前の「雪の麗人」が溶けて無くなるまで見つめるより他にない。
「まもなく閉園ですので。」
耳元で嗄れた声が聞こえた。それでも一向構わなかった。
「時間ですから。」
声の主がとんとんと私の方を叩いた。ようやっと顔を声の主に向ける。大方の予想通り年老いた警備員である。
「あの、お客さん、時間ですからね。出てもらえますか?」
「あと、少しだけ。少しだけでいいんです。」
警備員が唸って小さく舌打ちした。途端に何か心の中で大きなものが動いたような気がして、一歩警備員に大きく踏み出して睨みつけた。
「時間ですからね。出てください。もう時間過ぎてますから。」
一矢報いるような気持ちでこちらも舌打ちした。
捨てられた子犬のように足を引きずりながら、何度も振り返って雪の麗人を覗き見た。自分でも情けなかった。
それからO府に雪が降ったのは、私が帰ってきてから二日ほど後のことだった。雪など拝むことはもうないのかもしれないと思っていたが、朝窓を開けると半端に雪が街を覆ったちょっとした銀世界が広がっていた。あちこちの屋根が白く塗りつぶされていて、時折ぽろぽろと地面にこぼれ落ちていく。
遠巻きに見える山々に靄がかかっているのが見えた。
この雪の世界の中にまた「雪の麗人」の影が見えるかもしれない。もう二度と見ることないと思っていた。なるべく他のことを考えるようにしていた。しかし「雪の麗人」はまたすぐそこまで来ているような気がした。
ゆっくりと長い息を吐き出して目を下にやると、踏み散らかされてアスファルトの露出した銀世界の残骸が見えた。「雪の麗人」が一歩遠のいたような気がした。
「もう馬鹿なことを考えるのはやめた方がいい。」
無慈悲な声が心の中で聞こえた。それを言ったのは自分自身だった。
風が強く頬を叩いた。慌てて窓を閉じてベットに潜り込んだ。しばらく目を閉じていたがどうにも眠ることが出来なかった。
眠くなるようにと本を広げてみてみるが、目に灯がついたようになってきた。こんなことなら外を見るんじゃなかった。立ち上がって冷蔵庫からよく冷えた牛乳を取り出して飲んだ。頭にぐっと何かが迫ってくるようだった。
ようやっと決心して外に出た。玄関を開けるなり冷たい風がぐっと吹き付けた。うっと小さな声が漏れ出た。あてもなくただ歩くだけの惰性の行進。どうにも目的なく歩く高齢者の姿を死霊と例えたことがあるが、自分こそ今まさに死霊であった。
奥の小路で女性が電信柱にもたれかかってゆらゆらと揺れている姿が見えた。自分は無感動に歩き続けるよりなかった。私の目には酒に酔った怠惰な人間のようにしか見えなかった。ましてやまだ陽も高い時間である。嫌悪感すら覚えた。
歩みを進めるにつれ女性の姿がはっきりと見えてくる。ぼんやりとした影がはっきりと形になっていく。
雪の麗人がそこにいた。雪像に命が与えられたかのようだった。そして全くもって清潔であった。
白い透き通るような肌を紅くしてぼんやりと天を仰ぎながら、風にたなびくように揺れている。白い肌を覆うように長い黒髪が腰の近くまで垂れ下がっていた。
「うっ、うっ」
女性が身体の奥から込み上げるものを抑えつけるかのような声を出した。そして深い息を吐く。私が女性に後一メートルというところまで来た頃には、酒の匂いがぼんやりと漂っていた。それでもなお、この雪の麗人は清潔である。
「大丈夫ですか?」
気が付くと私は声をかけていた。女性は私に虚な目を向けた。
「大丈夫です。大丈夫ですから。すみません。」
そう言い終わらぬうちに女性が強か嘔吐した。女性の吐きつけたものが私の服にかかった。独特な強い匂いが酒の匂いを覆い潰した。
「ごめんなさん、ごめんなさい。」
「ちょっと待っててくださいね。」
私は少し離れたところにある自販機で水を二本買い求めた。それからまた例の所へ来ると麗人はへたり込んで座っていた。
「ごめんなさい。」
「これどうぞ。」
私は女性に水を手渡した。そしてもう一つの水で散らばった吐瀉物を洗い流した。
「昨日の夜からずっと飲んでて途中から全く記憶がなくて。」
女性がまた「うっ、うっ」と強い声を出したので私は女性の背中を摩っていた。女性は泣いているようだった。
「服汚れちゃいましたよね? クリーニング代出しますから。」
「いいですよ。気にしないでください。僕は大丈夫ですから。」
「ごめんなさい。本当に。」
「家この辺ですか? タクシー呼びますね?」
「いや、いいですよ。何とか歩いて帰りますから。」
「ちょっと待っててくださいね。」
私は携帯電話でタクシーを呼び出した。十分ほどで着くとのことだった。私は項垂れる女性の背中を摩っていた。これほどの怠惰な行いをしていながら、私の目には未だに清潔な存在に写っていた。黒い髪の間から覗く白く透き通るような首を私は穴が開くまで見つめていた。
「ごめんなさい、本当に。」
「大丈夫ですって。でも飲み過ぎには気をつけてくださいね。」
「はい、気をつけます。」
ゆっくりとした時間が流れる。不思議と誰も通りかからなかった。平生ならこんなこと絶対にしないだろう。見捨てていくに違いない。しかし、今目の前にいるのは雪像に命の籠ったような奇跡の存在である。逸る心を落ち着かせて考えてみれば、自分の不潔さに虫唾が走った。
遠巻きに黒い車が見える。上に帽子を被っているところを見るにタクシーのようだった。すっとタイヤを滑らせながらタクシーはゆっくりと自分たちの横に止まる。ドアが開いて運転手が私の名を言った。
私は女性を抱き起すとそのまま後ろの座席に座らせた。そして後ろから手を伸ばして運転手に一万円札を握らせた。
「またお返ししますので連絡先を」
「いえいえ、結構ですよ。」
女性が言いかけたのを務めて笑顔で遮った。後になってせめて連絡先を教えておけばと心底後悔した。
車が発進していくのを私は無言で見守るよりなかった。
それからまたあの女性に会ったのはそれから程なくしてからだった。寒風吹き荒ぶ中、あの女性は同じところに立っていた。女性は私をじっと見つめていた。
「あの、あの時はありがとうございました。」
「ああ、覚えてくれてたんですね。別にいいのに。」
女性は私に封筒を差し出した。
「これ、クリーニング代とタクシーの」
「別にいいですよ。誰だって酔って気持ち悪くなる時くらいありますから。」
何とか笑顔を取り繕う。その実全身が燃え上がるように暑かった。どっどっと心臓が激しく揺れていた。
「じゃあ、もしよかったらこれでお食事でも行きませんか? 折角ですから。」
麗人は私の目をじっと見つめていた。自分は黙って頷くよりなかった。互いに黙ったまま睨み合うだけの時間が続いた。自分としてはそれでよかった。
それから時間が経つのは早かった。一年と経たぬうちに私は雪の麗人と結婚した。結婚してからでも初めて出会った日のことは話題にあがる。今でも妻は私に謝罪する。
夢のようにある時不意に目の前の女性がいなくなるのではないか、と思うことがある。そんな話を妻にすると笑って私の肩を叩く。
この人は結婚してなお、未だに清潔である。
しかし一つ妙なことがあった。自分は一度もこの人の肌に触れたことがないのだ。口付け一つしたこともない。
それは妻との約束であった。
「私と付き合うならごめんだけど、そういうことは諦めて欲しい。どうしても誰かに触れることは出来ない。ごめんなさい。」
黙って承諾した。その時はそれでいいと思った。それでも時折欲が出て肩を優しく叩いたりする。あの人は笑っているが、それ以上のことをする勇気は出なかった。誰かに言うと笑われると思って誰にも言えない。
それも手伝ってかあの人は今でも清潔なのだ。私の欲求では到底汚すことのできない存在だった。
ある時、仕事の関係で後輩と話すことがあった。女性であったが、特に何も思っていなかった。最初はちょっとした仕事の相談から始まった。昼休みを使って快く話を聞いていた。しかしほんのちょっとしたタイミングに
「今日、飲みに行きましょうよ。ちょっとだけ、ちょっとだけ。ね。」
「でも今日奥さんに何も言ってなかったからな。」
「ちょっとだけですよ。ちょっとだけ。」
そう言って妻にも告げずにその後輩と酒を飲んだ。ただの人生相談だと思っていたし、一時間もせぬうちに帰るつもりだった。ところが気がつくと一時間以上も一緒に飲んでいた。妻からは幾度か連絡が来ている。
「どうしたんですか?」
後輩が横で囁く。
「奥さんからだ。今日何も言ってなかったから。」
「もうここまで来たら一緒ですよ。もう一軒行きましょうよ。あと一杯だけ。」
自分は黙って承諾した。ここまで来るともう相手の目的をある程度理解していた。それを払い除けることも出来たのかもしれない。しかし、私はこれ以上ないほど不潔なことを考えていた。
触れることも出来ない妻より、今自分の目の前にいる触れられる人の方がいいのかもしれない。
無論、目の前の人は妻ほど清潔ではない。だが、その時の自分はそれがよかった。
時刻は丑三つ時。私は思い至って不意にベッドから飛び起きた。横にいる女性は寝息を立てて寝ている。私は荒々しく服を着てタクシーを呼んだ。
言いようのない焦燥感があった。先程の自分の間違った選択について、誤魔化しようのない罪悪感が湧き上がった。どっと汗が吹き出して妻に電話をかける。しかし妻は出ない。何度電話しても呼び出し音だけが夜道に響いた。
そうこうするうちにタクシーが滑り込んでくる。私は勢いよく飛び乗って自宅を指定した。
無人の我が家。妻の姿は見当たらない。鍵も開け放たれ、まるで最初から一人で暮らしていたかのようであった。リビングに座り込んで頭を抱えていたが、何か思い至って玄関を飛び出した。
この日も冷たい風が吹き付けていた。ふらふらと白いものが空をちらちらと舞い始めていた。冷たい風を受けても私の額からは汗が流れ落ちていた。初めて妻に会った日のように身体が熱く煮えたぎるようだった。
人っ子ひとりいない夜道を自分は走りに走った。かつて目的なく歩く自分は死霊だと言ったが、目的を持って走る不潔な自分はもはや死霊よりも邪悪だった。
目の前にあるのは初めて妻と会った場所。何の変哲もない電信柱。
そしてそこに雪の麗人はいた。ひどく泣き腫らした目で私をじっと見つめていた。
自分は妻の目の前に走り寄るなり地面に頭を擦り付けて叫んだ。
「いいよ。」
妻が私の背中に優しく言った。それでも顔を上げることは出来なかった。妻が屈んで私の頭を優しく撫でた。
「いいよ。知ってるよ。私が悪かったよ。」
声が震えているのがわかった。私も泣き腫らしていた。ゆっくりと顔を上げる。
「ごめんね。私が悪いの。気にしないで。これからも一緒にいよう。もう忘れるから。」
そう妻がいい終わらぬうちに自分はもう一度地面に頭を擦り付けて叫んだ。それでも妻は頭を撫で続けていてくれた。そうしてゆっくりと時間が過ぎてゆっくりと立ち上がる。
「大丈夫だから。私が悪いよ。息苦しかったよね。ごめんね。気にしてないよ。大丈夫。ねえ、よかったらこれからも一緒にいてくれる?」
黙って頷くよりなかった。
妻は泣き腫らした目を拭って手を広げた。自分は初めて雪の麗人を強く抱きしめた。そうしてしばらく時間が経ち、気が付くと目の前に妻はいなかった。足元の雪の塊を見て自分は全てを理解した。
身を屈めて雪の塊に口付けした。それでもなお、雪の麗人は清潔だった。
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