第2話 芝太郎行状記

 天保八年、勝浦川を挟んで阿波狸合戦が勃発した。敵討ちから生じたこの戦は四国狸の頭領、六衛門狸を大将とする六衛門軍と、成り上がりの金長狸を大将とする金長軍との六百匹対六百匹の泥沼の戦いであった。

 戦いは三日三晩に及び、勝浦川の水を真紅に染め上げた。清水のような青い空も、断末魔の叫びが全てを包んだ。勢いのある金長軍に対し六衛門軍は篭城戦を展開、水面はさらに真紅の紅を強めた。

 戦況は膠着状態となったが、遂に金長軍は城門を突破。そこに攻め入った金長はついに大将六衛門を討ち取るが、流れとんだ矢が金長の心臓に深くつきささり、やがて死んでいった。

 よって戦は終息の一途をたどるように思われたが、亡き六衛門の息子、千住太郎が六衛門軍の残党を招集し、弔い合戦をするため金長軍の陣たる日開野に行軍したのだ。終わらぬ惨劇が始まり、多くの狸が絶望した折、日本三名狸の屋島の禿狸が仲裁役に入っり事はようやく終息した。

 結局後には何も残らなかった。


 

 偉大な父を持った子は、その親父の徳の分だけ苦汁をなめることになる。天は芝太郎にも同じ運命を与えた。彼の父は日本三名狸の一角たる芝衛門狸である。芝衛門は世の目からは「生ける伝説」だのといわれ、敬愛の念を一身に背負い立っていたが、しかし一旦、自宅に入ると「生ける伝説」は「ただの親仁」へと姿を変えた。格式ある狸なら纏うべき衣服の類もまとわず、ただ唯一褌だけをし、大きな徳利から酒を飲む。そうして酒がなくなると今度は徳利を逆さにし、手の甲に一滴をも集めんとする。その光景が芝太郎には大いに不愉快であった。

 芝衛門が阿波の地へ出兵すると、不在の父のために息子は精神的な自由を得た。しかし、そんな喜びもつかの間、芝太郎の耳に父親の訃報が入った。使いの者に言うには

「阿波の地で休息をとっておられたとき、犬の襲撃を食らい……無念であります」

 それから使いは涙を呑んで黙礼をし、立ち去った。しかし、芝太郎にはいまひとつ、実感と呼べるものが湧き出でなかった。この訃報は間違いであるかもしれぬ。否、もしかすれば父親が自分に悪戯を仕掛けているのではないか。と妙な空想が浮かんだ。涙も出なかった。

 その夜、芝太郎の枕元に父親が現れたのは夢ではない。芝衛門はかのように語った。

「芝太郎やい、わしはお前を残して逝くことになるが、もう悔いはあるまい。お前はわしの訃報を悪戯じゃと思うとるみたいだが、寝言を言うのはあきらめたほうがいい。ああ、わしは大に幸福者であった。世間のものは野山を駆けずるだけが能であるのに、わしには妻もおったし、それにお前もおる。あとのことは任せたぞ。」

 芝太郎は父親の霊を大声で呼び止めたが、それは叶わなかった。その時、ようやく彼の胸にとてつもない喪失感や、言いようのない悲しみ、そしてわけのわからぬ涙がこみ上げ、一息にあふれ出した。

 芝太郎は三日三晩、泣きはらした末にようやく、父親を弔わねばと思い立った。それからの芝太郎は早かった。彼は徳利に酒を入れると、他の思考はなく、ただただ走りだした。他のものは口々に「芝太郎は気が狂った」などと云い回っていた。



 芝太郎は港で密かに船に乗り込んだ。少しばかり海を渡らねば到底、阿波にはたどりつけぬものであったからだ。しかし、船長の佐衛門は実に勘の冴える男で船員に化けた芝太郎を槍で刺すような目で見入ると、はげ頭を掻いて、静かに芝太郎の傍らに立った。

そして先程までの静とは対象的に、突如、佐衛門は荒波の如く動へと変じるのだった。

 左衛門は芝太郎の肩を荒々しくつかんだ。

「おのれ、化け狸め。」

 と言うが早いか、荒縄を用いて血が出るほどに縛り上げたのである。

 佐衛門は手の空いた船員を甲板に集めると、化け狸を鍋にして食おうなどと話し出した。芝太郎はもう、死に物狂いで訴えた。父親の訃報、そして父の死した地を訪ね、父の骨を淡路に持ち帰りたいと。涙ながらに訴えた。すると船員の一人はいかにも重々しい様子で

「そういえば俺は、もう三十年も親父の墓へもうでてないな」

 その一言に端を発し、話題は狸鍋から父親の話へと転じた。そうして結論は「大変、親孝行な狸である。自分たちとしても何とか阿波の地まで無事にたどり着かせてやりたい」ということになった。芝太郎は荒縄の痛みから放たれることとなったのである。

 その時はそれでよかったが、日がくれ夜になり、夜があけ、それが何度も繰り返されると芝太郎は空腹に堪らなくなってしまった。もとより所持品は安い着物と少しの酒ばかりであったし、酒ももう昨日のうちに尽きてしまったから、芝太郎には腹に入るものが一切なかった。船員に飯を乞うことも無理な話ではない。しかし、船に乗せてもらって、その上飯をねだるのは気が引けた。

 芝太郎は積荷の魚に手をつけんとした。だが、彼の良心がそれを許さなかった。

 芝太郎の中の本能は道徳に一騎打ちを挑んだ。彼の心の中で槍と槍とが激しくぶつかり合ったが、しまいには魚の目を一つだけ、それで首尾よく誤魔化そうと、そのような結論にいたった。芝太郎はゆっくりと魚に手を伸ばし、目をつかみ、力をこめて引きちぎった。彼は異様な輝きを発する魚眼をゆっくりと眺め、そのまま口に放り込んだ。平生なら決して望んで口にすることはなかろうが、しかし今日は違った。一つ食うとまた一つ、それでも船長は気付かないだろう。一つ、また一つ、そのうちに積荷の魚は全て目無しになってしまった。芝太郎は多いに後悔したが、いまさら吐き出すわけにもいくまい。

 佐衛門は右記の事実に気付いたときには大いに狼狽した。そして内から沸き出でる憤怒に狂わんばかりにあたり一面を睨んだ。そして得意の勘で犯人を突き止めた。第一に船員に魚の目を食うような奴はいない。そのような下手物を食うのは狸に決まっている。と、そう言って芝太郎に怒鳴り散らした。

 事実に相違はないので、芝太郎は首を垂れるより他になかった。佐衛門が怒鳴る気力も失せるまで怒鳴ると、芝太郎は遂に許しを乞うた。涙を流し、必死の形相で許しを乞うた。

「何でもご恩はお返ししますから」

 もとより佐衛門は非常に心地良い人だったから、それ以上はなんとも言わずに静かに「許す」と言ったのは良いが、せっかくの商品がこれでは成り立たない。そこで佐衛門は知恵を捻った挙句に、「文福茶釜」の話を思い出した。

 佐衛門にはちょうど茶釜を売るあてがあったので、魚を売るよりよっぽど金になるに違いない。たしかにそうであった。佐衛門はいつぞやの狸の身の上話を忘れ、こう切り出した。

「お前少しの間、黄金の茶釜になれ。俺はそれを売って魚の分の金にする」

そういうと佐衛門は再び、芝太郎をにらみつけた。芝太郎は身を縮め、黄金茶釜に身を

変じたのであった。

 それからほどなくして、船が港に到着した。佐衛門は宣言どおり芝太郎の化けた黄金の茶釜を商人に売り払ってしまった。黄金の茶釜というのは、たいそう高価で売れたらしく、佐衛門はいやらしく口を緩め、いかにも嬉々とした様子であった。それからというもの、芝太郎は豪奢な商人の屋敷で飾られていたが、飾りの身はあまりにもつらかった。退屈であった。それに彼には父親に再び、淡路の地を踏ます。という決意があった。今となってはおっかない佐衛門はいないことであるし、芝太郎はすぐさま狸の身に戻った。



 芝太郎は若い武士に化けて、芝衛門が芝居を見たという観音寺に入った。もう芝居はしていなかった。近くにいた若い、優しい顔立ちの僧に声をかけた。彼が一番声をかけるにはおあつらえ向きだった。坊主の話では一座はもう別の町に行ったそうだ。芝太郎は父親が最期に見た芝居を一目みたいと思うたが、どうにもなることではない。ただ帰りにでも、町へ行こうと思い立った。

 坊主はいかにも人の良さそうな笑みを浮かべていた。芝太郎は丁寧に礼を述べると、父親の亡骸を探して回った。しかし、狸の亡骸など、そう簡単に見つかるものではない。芝太郎は狂ったように探してまわった。が、それでも見つかるものではない。芝太郎は絶望したように肩を垂れ、深くため息をついた。その時である。目を落とした先に小さな碑を見た。「芝衛門乃墓」と彫られた碑は夕陽に照らされた。が、傍らに佇む小さな松が、夕陽を遮った。しかし、日は枝、葉の隙間を縫って碑を優しく照らし出していた。そして木漏れ日に混じって一滴、芝太郎の目からこぼれるものがあった。

 芝太郎はゆっくりと手を合わした。

 もう全てを話してしまおうと、芝太郎は思った。もし父親の石碑を建てたのが、先程の坊主であるなら、礼を述べねばなるまい。芝太郎は坊主を呼び止め、事の全てを打ち明けてしまった。

 坊主は最低限の返事を返すと、奥へと足を向けてしまった。暫くの後に坊主は芝太郎に小さな包みを渡した。白い包みを開けると小さな骨が二つ、行儀良く座っていた。芝太郎はそれを受け取ると、再び、深々と頭をたれた。

 芝太郎は帰途、坊主の言う町に立ち寄った。父が最期に見た芝居は只今その地にて、好評を得ているそうなので、一つ、父親に会うような気で芝居を見てやろうと思ったのだ。そこで芝太郎は術で再び、自らの姿を武士に、木の葉を金に変えると、恐る恐る、芝居小屋に足を踏み入れたのであった。ちょうど時間になると、芸人が犬を引き連れ、舞台に立って挨拶をした。 芝太郎は背筋が凍る思いがした。彼は父親が犬に食われて殺された事実をすっかりと忘れていたのだ。あまりにも愚かで軽率な行動であった。

 猛犬は芝衛門を食い殺した時のように、口を大きく開け、この世のものとは思えぬ形相で芝太郎をにらみつけた。その瞬間、芝太郎の懐にあった芝衛門の骨が驚異的な熱をもって光を放ちだした。そうなると、猛犬は語調を強めるが如く、さらに意気を増したが、それに応じ、光はさらに猛々しくなった。そんなにらみ合いが続き、ついに犬ころめは、目を回して、泡を吹き、地に伏してしまった。一方芝太郎はといえば、何ぞ罪を犯したように肩をすぼめ、そそくさと芝居小屋を立ち去ってしまった。

 目的こそ果たせたが、芝居も見れず、押し寄せる人の波は険しい。それでも少しばかりは町の様子を見ておこうと、幾日か、町内を周遊していたが、しまい方には船長の佐衛門が市に姿を見せていたので、血相を変えて、淡路の地へと逃げ帰ったのであった。



 自分の住処は淡路を置いて他にはない。やはり淡路こそ自分にとっての都であると、芝太郎は強く確信した。芝太郎は父、芝衛門の骨を淡路の地に懇ろに葬り、ここでもまた、あくまでも、ささやかなものであるが、石碑をこしらえた。

 芝太郎は故郷の懐かしさと、無事に帰った父に、祝砲のようなつもりで腹鼓を打った。

 無心に打った。かくて、月夜の晩、村人は毎度の如く、芝太郎の腹鼓の音色に耳を傾けたのであった。

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