新・十ノ物語

辻岡しんぺい

第1話 芝衛門行状記

 天保八年、勝浦川を挟んで阿波狸合戦が勃発した。敵討ちから生じたこの戦は四国狸の頭領、六衛門狸を大将とする六衛門軍と、成り上がりの金長狸を大将とする金長軍との六百匹対六百匹の泥沼の戦いであった。

 もちろん、この知らせが淡路の大狸、芝衛門狸の耳に届かぬはずがない。どちらかが援軍を要請するに違いないと芝衛門は睨んだ。案の定、最初に援軍の要請をしたのは六衛門であった。しかし、芝衛門は眉をひそめた。六衛門の高圧的な文面に、もとより愛想が尽きたのである。それに芝衛門は六衛門の元来の頭領面を多少なりとも嫌悪し、軽蔑していた。老狸は咳き込んだきり、沈黙した。

 そんな折、成り上がりの金長から援軍の要請がきた。しかし、芝衛門はこれもまた、眉をひそめた。彼はどうあっても金長の敵討ちを正当化しようとする姿勢が気に食わなかったからである。その上に救うような義理もない若造の金長に加勢するのは、少し気が引けた。

「あんな若造なら、屋島の禿狸や、佐渡の団三郎にも同じように書状を送っているに違いない」

ひと時でもそんな感情が起こると、芝衛門の中の自尊心が手を伸ばし、彼の首根っこを捕らえて離さなかったのである。

 しかし、このまま淡路の地で戦の報を、ただ聞くだけというのもまた、彼の自尊心を大いに傷つけるものであった。「野山を駆ける阿呆どもは、わしのことを臆病ものだのと言うに違いない」とそう考えた。

 古狸はなんのこともなく、戦に身を投じる決心を固めたのである。



 芝衛門は阿波の地で休息をとった。勝浦川まであと一歩というところで急に金玉の縮む思いがしたのである。そこで彼は観音寺で催された芝居を口実に、一つ休息をとろうと考えたのであった。

 そこで芝衛門は頭頂部に葉を一枚乗せると瞬く間に、自らの姿を気の良い商人へと変えた。芝衛門はさらに葉を金に変え、懐に忍ばせると何食わぬ顔つきで観

音寺の門をくぐったのである。

 人は思いのほか少なかった。幸い周りの者も阿呆ばかりのように見えて、鼻を垂らす者や、髷も結えぬような者の巣窟である。芝衛門は軽く腹鼓を打ち、中央に端座した。

 そこで一人の芸人が舞台に出て挨拶をし、袖から犬を引き寄せ、戯けた様子で会釈して笑った。不愉快なほど笑った。そして、芝衛門はというと一人、客席の中央で戦慄していたのである。

超自然の存在である彼にとって、かの犬の息吹、牙、目、それら全ては鬼や悪魔や地頭や泣く子よりも恐ろしくまた、おぞましいものであったのだ。

 客席の異変を見取った犬は大声で吠え上げた。主の声も聞かず、狂ったように吠え、暴れ回った。

 芝衛門は全身に流れる冷たい汗を拭くこともできず、ゆっくりと立ち上がると、そのまま何処へでもなく駆け出した。ところがかの犬はそれを許すはずもない。目を剥き、牙を立て、足をしならせ、軍馬の如く、芝衛門を追いたてた。

芝衛門は息も絶え絶えに逃げ回った。幾角をも曲がり、人を押しのけ、押しのけ、仕舞には役人を突き飛ばしてしまった。役人はただ目を回し、困惑の表情を浮かべるばかりであった。

 ついに老狸は疲労のあまり目を回し、前後不覚の状態に陥った。その瞬間である。猛犬は老狸ののど笛をしたたか噛み付き、引き裂いたのである。



 その死体は長きに渡り、正体を現さなかった。長きにわたり、彼は気の良い商人であり続けた。が、ついに二十五日後にようやく正体を示した。それはある種、一時代の終わりを象徴しているようであった。


 芝衛門は今、州本八幡神社に祀られている。

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