志怪一 陥湖の水神 ⑩


(俺が怪力乱神がらみの依頼を解決する便利屋? できるか、そんなもん)

 陥湖の水神とたいし、さらに洛宝の方術を目の当たりにしてから言ってほしい。あれを見て「俺にもできそう」などと思える馬鹿がいたらお目にかかりたい。

(まあ、決まったことをあーだこーだ言ってもしかたないか)

 やるとなったら、とことん楽しむ。それが劉英傑の信条だ。なにかしらの成果を得て、紅倫が満足したあたりで、さっさと下山すればいい。

 人でごったがえした市場で手土産を見繕い、背負しよいに詰めこむ。龍渦城市の南のはいろうを抜け、白淵山のかすみがかった山道をのぼりはじめる。陥湖から先はとくに険しさが増した。だんがい絶壁にうがたれた道、先日の雨の影響が残る濁流と化した翠尾江の上流、天高くそびえる奇岩群、幽玄の大瀑布……。

 とはいえ──。

「ここがひといの精怪がむ山?」

 拍子抜けする。たしかにしゆんけんな山だが、旅慣れた英傑にはさほどでもなく、精怪どころか獣一匹出る気配がない。

 英傑は思いだして懐に手をやった。取りだしたのは、洛宝がくれた老君入山符だ。

(すんなりのぼれてるのは、もしかしてこいつのおかげか?)

 木漏れ日のさしこむ穏やかな森を抜けると、やがて眼前に崩れかけたえいへきと牌楼が現れた。へんがくはないが、おそらくここが洛宝が暮らしているという道観のはいきよだろう。

 魔よけの影壁をまわりこんで、牌楼をくぐり、観内に入る。起伏に富んだ岩の斜面に、紅殻色の堂や廟が点在している。敷かれた石畳は割れ、隙間から雑草が生え、びようの多くも松がかわら屋根を破って育ってしまっていた。

 と、どこからともなく賑やかな声が聞こえてきた。声を追ってさまよううち、青々とした竹林の奥に一軒のやかたを見つける。

 廃墟ではなく生きた館だ。軒下に架けられた扁額には、金字で〈りよくうんかく〉とある。

「おーい、丁道士。いるかー? この間、龍渦城市で会った劉英傑だが」

 両開きの扉を開けておとないを入れるが応答はない。どうしたものかと立ちつくしていると、突然、廊下の奥からころころとした黄色い毛玉のようなものが転がってきた。

『ああ、忙しい、忙しい!』

『まったく洛宝さまときたら、我々の苦労はすこしも考えてくださらないのだから。あ、ほら、またくつを脱ぎっぱなしにして!』

 高い声で愚痴をこぼして、短い四つ足で走ってきたのは、虎のそっくりの丸っこい獣だった。だが、虎ではない。毛並みははんてんのある黄金色だが、長い尾は牛のしっぽそのものだ。しゃべれるところを見ても、精怪だろう。

 英傑はひょいとその場にしゃがんだ。二匹のうちの一匹はそのまま走りさり、もう一匹が足を止め、床に落ちていた履を『あむっ』とくわえる。物珍しく眺めていると、視線に気づいたのか、精怪がくりんくりんのつぶらなひとみでこちらを見上げてきた。

「よう。言葉は通じそうだな。悪いんだが、丁道士は……」

 精怪の口から、ぽとりと、くわえていた履が落ちた。

『キャンッ!?』

 虎の毛がブワッと逆立ち、子犬のような悲鳴があがった。

 精怪はぶるぶる震えながら、威嚇……に見えなくもない前傾姿勢をとった。

『ど、どどどこのどいつだ、誰の許しを得て入った! く、くく、ってやるぞーっ』

 キャンキャンとえたてられた英傑はぽかんとした。

(まさか、これが噂の人喰い精怪か?)

 ふっと笑いがこみあげてきて、英傑は口を手の甲で隠してせきばらいをした。

「失礼した。俺は劉英傑。丁道士に会いにきた客だ」

『噓つけ! 洛宝さまに客なんか来るものか! 友達ひとりもいないんだから!』

「……ああ、いなそうだなあ、たしかに」

 英傑は半笑いし、ふと思いついて、手にしたままだった老君入山符を掲げた。

「だが、丁道士の許しは得てるぞ。そういうわけで、案内をよろしく頼む」

 にこりと笑いかけると、精怪はあっけにとられて、老君入山符と英傑とを見比べた。

! どこへ行った!」

 館の奥で声があがった。精怪が丸っこい耳を立て、英傑をちらちらと気にしながら声のほうへと駆けだす。英傑も立ちあがり革履をその場で脱ぐと、精怪のあとを追った。

 天井から垂らされた薄絹のとばりの下をくぐり、精怪が奥へ消えていく。英傑も帳をかきわけ、その先に足を踏み入れた──途端、目を丸くして立ち止まった。

 広々とした部屋だった。赤々と燃える火鉢の熱で室内はあたたかい。それはいいのだが、部屋はとんでもなく散らかっていた。がいとうやらほうやらがあちこちに脱ぎちらかされ、床には無数のさかがめに、ちくかんやら貴重な紙の巻物やらまでが乱雑に散らばっていた。

 そして、びようの前にもうけられたしようとうでは、緑雲閣のあるじ、丁洛宝がだらしなく寝そべって、酒をあおっていた。

「斗斗。もっとうまい酒はないのか。なんだ、この安酒は」

 たんにたとえられる顔は赤らみ、切れ長の瞳はとろんと酔いしれている。まとった長衣もだらしなくはだけ、髪には寝ぐせがついていた。

 精怪が牀榻に飛びのった。

『洛宝さま、大変です。一大事ですっ』

 洛宝は「ああ、まったく一大事だ」と吐き捨て、手にした酒器をゆらゆらと揺らす。

「酒がまずい。なんだってこんな安酒をこの私が飲まなきゃならないんだ!」

 くうっ、と悔しさに目を潤ませる洛宝に、精怪が丸い耳を情けなさそうに伏せた。

『いや、それ、洛宝さまがご自身で買ってきたやつですよ。ちゃんと市場で買えばよかったのに、得体の知れない行商人から買ったりするから』

「市場には行きたくないんだ。人の顔を見れば、やれ牡丹のかんばせだの、やれ目が合えば死ぬだの……わずらわしい! だから嫌いなんだ、低能な人間ども!」

『またそんなこと言って……って、大変です、お客さまです!』

「客なんか来るか。私には友人も知人もいないんだから。朽ちた道観、人間嫌いの死を招く道士、どこに人が来る要素があると言うんだ」

『ですよね!? でも客だって言うんです!』

 精怪の必死の訴えに、ようやく洛宝が怪訝そうに顔を上げた。部屋の入り口に突っ立って、肩を震わせている英傑に気づいて、ぎょっと身を起こした。

「なんだ、おまえ。便利屋? なんでここに」

 精怪が『だからお客さまだと言ったのに』と文句を言う。

「丁道士。陥湖ではずいぶんと助けられた。この劉英傑、感謝の念に堪えない。今日はその礼に来た。まずは、これを受けとってくれ。呂氏と周氏からの謝礼金だ」

 英傑は腰にるしてきた革袋を放る。洛宝はそれを虚空でつかみ、中身が銭だと確認すると、肩にのってきた精怪をにらみつけた。

「なぜ侵入を許した。人が入ってきたことに気づかなかったのか」

『老君入山符をお持ちなんです。そのせいで、結界が反応しなかったんですよ』

 洛宝は目を丸くし、片手で額を押さえてうめいた。

「あれか。くそ、うかつに渡すんじゃなかった」

 洛宝は深々と息をつくと、尊大なしぐさであぐらを組み、英傑をへいげいした。

「謝礼金、たしかに受けとった。用が済んだなら、とっとと帰れ」

 英傑は「まだある」と背負子をおろして、荷の中から酒甕を取りだした。

「これは俺からの礼だ。道士に酒もどうかと思ったが……心配なかったな」

 洛宝の切れ長の瞳が見開かれる。きらりと輝いたのは、純然たる欲望だ。

(想像を上回る好反応だな。これは案外、攻めるに易いとりでだったか?)

 英傑は許しを得ずに、おおまたで牀榻へと近づいた。ぎょっと身を引く洛宝に向けて、まずは酒甕の表面に刻まれた「明」の文字を見せた。

「明洙楼の一等酒〈こうすい〉。とろりとしただくしゆは、口に含めば甘みが広がり、あとに残るほどよい酸味はめいていを誘う。高級じよいでくれる、一般には売らない酒だ」

 ふたをはずし、洛宝が手にした空の杯にとぽとぽと注いでやる。洛宝の目は白く濁った水面みなもくぎづけになるが、すぐに我にかえって顔をそむけた。

「なにが礼だ。あんなわずらわしい思いをさせておいて、この程度で礼になると──」

「ああ、たしかにさかながほしいところだよなあ。先にやっててくれ、すぐに絶品料理を用意してやる。市場でいろいろ買ってきたんだ」

 混乱したままの洛宝を置いて、さっと廊下に出る。精怪が四つ足で追ってきた。

『困ります、勝手をされちゃ! 斗斗が𠮟られます!』

「斗斗というのが名なのか。ちょうどよかった、斗斗殿。くりやはどこにある?」

『斗斗……殿!?』

 精怪の全身がまばゆく輝き、その毛先から黄金色の炎がぼっぼっと噴きあがった。

『斗斗殿……斗斗殿かあ、えへへ。あ、厨でしたね。こっちです』

 英傑は駆けだす精怪のあとを追いながらつくづく思った。人の噂はあてにならない。

「それじゃ、まずは胃袋を摑ませてもらうとしましょうかね」


 料理を終え、洛宝の部屋に戻った英傑は、整理せいとんされた室内の様子を見て感心した。複数匹いるらしい精怪はこの短時間でかなりがんばったようだ。牀榻の真ん中にはつくえが置かれ、主人と客人とが几を挟んで座れるよう、織物がそれぞれに敷かれていた。

 その片側に、すっかり身ぎれいになった洛宝がかたひざを立てて座っていた。几にひじをつき、面白くなさそうに酒を飲んでいる。

 英傑は両手に持ってきた皿を几に置いた。洛宝がそれを横目ににらみつけた。

「大口をたたいておいてこの程度か。いかにもまずそうだ。匂いは……悪くないが」

「まあ、そう言うな。まずはひと口」

 如才なくはしを差しだすと、洛宝は仏頂面で箸を奪いとった。

 たけのこの漬物と豚肉とを辛い味つけでいためたものだ。ここらでは定番の家庭料理で、辛みと酸味が絶妙に絡みあう。洛宝はうたぐりぶかげに肉を箸にとり、口に放った。

 精怪がはらはらと洛宝を見つめる。英傑は向かいに腰をおろし、横柄な道観の主を観察する。洛宝は無言で料理をみしめていたが、その表情が驚きを帯びはじめた。

「うまいか」

「まずい」

「そりゃよかった」

「まずいと言っている!」

 言いながらも、洛宝の手は止まらない。市場で買った漬物や、臭みは強いが酒には抜群に合う発酵豆腐も並べてやる。いよいよ酒も進みはじめ、その美貌が花咲くようにほころびはじめた。──どうやら機は熟したようだ。

「ところで前にも言ったが、あの長雨で家が流されてしまってな。しばらく厄介になろうと思ってる。廃屋のひとつを勝手に使わせてもらうが、かまわねえな?」

 料理と酒に夢中になっていた洛宝は「好きにしろー」と歌うように答え、しばらくしてから「え?」と顔を上げた。

「対価は朝晩の飯でどうだ。獣肉は好きか? きじはどうだ。ここらは山菜も豊富のようだし、食材には事欠かなそうだな。さすがに米は市場か……」

「……なにを言っている?」

「お望みなら、明洙楼の酒も仕入れてくるぞ。あいにく金がないもんで、酒代は融通をつけてもらう必要があるが、下山の手間賃はとらん。俺もふもとに用があるからな」

 相手の理解を待たずに畳みかけ、英傑はにこりと笑った。

「つーわけで、しばらくの間、よろしくな。丁道士」

 洛宝は、酒と、皿と、英傑とを見比べ、顔を思いきりしかめて言った。

「……はあ?」


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◆この続きは、2024年7月25日頃発売予定

『牡丹と獅子 双雄、幻異に遭う』(角川文庫刊)にてお楽しみください!



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牡丹と獅子 双雄、幻異に遭う 翁まひろ/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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