志怪一 陥湖の水神 ⑨

 どうにか岸にいあがった英傑は、腕に抱えてきた阿弓と仲宣とを地面に放りなげた。湖面に打ちつけられた衝撃で気を失ったようだが、ひとまず息はしている。

 洛宝は無事だろうか。首を巡らせると、近くの岸辺に泳ぎついた洛宝の姿が見えた。英傑はあんし、朝を迎えた空を見上げた。

 はるか天空の高みを、水神が悠然と泳ぎまわっている。身をくねらせるたびに、朝日を浴びた翡翠の鱗がさんぜんと輝き、その神々しい姿にただただ目を奪われる。

「よかったな……。水神様、うれしそうだ」

 英傑が呟くと、洛宝が「そうだな」と答える。その朗らかな声音に驚き、振りかえると、洛宝は澄んだひとみで空を見つめていた。

 英傑の視線に気づいてか、洛宝は顔を険しくして身をひるがえした。

「帰るのか? 丁道士。礼と言っちゃなんだが、どうだ、これから城市で一杯……」

 洛宝は勢いよく振りかえり、鋭い目つきで英傑をにらみすえた。

「いいか、私は水神と水神の母親のために動いたんだ。おまえたちなど知ったことではない。わかったら、さっさと白淵山を出ていけ。二度とわずらわせるな!」

 ごうぜんあごをそらし、洛宝は足音高く湖辺の森へと去っていった。英傑はあつにとられてそれを見送り、「おっかねえ」とぼやいた。


     五


 長雨がやんで三日後、龍渦城市はすっかりもとのけんそうを取りもどしていた。翠尾江はいまだ茶色く濁ってはいるが、水位は下がりつつある。外に逃げていた人々も戻ってきて、壊れた家屋や橋の修繕に精を出していた。道端では人々が顔を見合わせ、「人間の顔だ!」と笑いあうさまもあちこちで見かけられた。無事に日常が戻ってきたのだ。

 そんな中、英傑もまた明洙楼のいつもの席で顔をほころばせていた。

「まさかこいつが無事だったとは!」

「ごめんね、渡しわすれてたのよ。あまりにごたついてたから」

 翠姫から差しだされたのは長細い布包みだ。家と一緒に流されたものとあきらめていたが、機転を利かせた紅倫が翠姫をつかわし、あらかじめ運びだしてくれていたらしい。

 七弦のきんだ。趣味で奏でているものだが、腰の剣と同じく長年の相棒だった。

「大変なときだったろうに。ありがとな、翠姫」

 人間の顔を取りもどした翠姫の白い頰が朱に染まる。長いまつにふちどられたれんな瞳を甘えるように細め、翠姫は英傑の体にしなだれかかった。

「いいの。琴を弾く英傑の指は好きだもの。骨太で、大胆に動くくせして、繊細で……」

 英傑はひきつった笑顔で、「翠姫」とその腕をとんとんとたたく。翠姫は「なによお」と肩越しに背後を振りかえり、びくっと姿勢をただした。

 いつの間にか、背後に殺気だって立っていた紅倫は、そそくさと去る翠姫をにらんでから、英傑に顔を向けた。そのふくよかな顔もまた人間のもので、濃い化粧は麗しいながら迫力があった。紅倫は銭袋を無雑作に英傑に放った。

「呂さんから届いた報酬だ。それと、呂さんと周さんの連名の謝礼金も入ってるよ」

 ずしっと重たい。勢いこんで中身をつくえに空けると、しゆせんが見事な山を築いた。

「こんなに?」

「怪力乱神がらみの依頼は相場が高いんだ。なにせ解決できる奴がいないからね。本当ならこういったことは道士の仕事だろ。けど、ここらには百華道士しかいないからさ」

「道士ってほかにいなかったっけ? 前に、城市で見かけた気がするんだが」

「いないよ。せいしゆう様の招きを受けて、出ていっちまったから」

 英傑はぴくりとまゆじりを揺らした。

「清州刺史……ようそうりようか」

 清州は龍渦城市が属する鼓州の北にある州だ。刺史とは州の長官を示す地位で、今は名門貴族である楊家の当主、楊荘亮がその任についている。

「そう。鬼神から皇帝を救った英雄にして、その偉業にみずから泥を塗ったさんだつ侯様だ」

 紅倫はにやりと笑って、乾帝国の人々が昔から好む話を口にした。

 ──乾王朝は、かつて一度、滅びかけたことがある。英傑が生まれるよりも昔、四十年ほど前のことだ。北方の異民族、しやの部族であるれんろう族が、ある冬、当時は今より北にあった都に攻めいってきたのだ。しんと呼ばれる異形の軍団を率いて……。

 鬼神の群れは城門を破壊し、かつちゆうの兵士たちを踏みつぶし、逃げまどう人々を血祭りにあげ、ついには、皇城に踏みとどまっていた皇帝までもが鬼神の手に落ちた。あわや殺されかけたそのとき、命がけで皇帝を救ったのが、禁軍の一兵であった楊荘亮だった。

 惨劇を生きぬいた人々は都を捨てて南へと落ちのび、当時、地方城市にすぎなかった金景を新たな都とし、かろうじて乾王朝の命を継いだ。楊荘亮は次々と軍功を重ね、やがて大きな権力を得ると、権威を失墜させた皇帝にかわって朝廷を牛耳るまでに至った。

 そこで終わっていれば、まだよかっただろう。だがその後、楊荘亮はよりにもよって帝位の簒奪をもくろみ、二度の造反をおこした。どちらも未遂に終わったが、その一件は王朝に大きな衝撃を与えた。そうしてついた通り名が、簒奪侯だ。

 とはいえ、それも十年近く前の話だ。今では楊荘亮も老年に入り、近ごろはその名を聞く機会も減っていたのだが……。

「刺史様はなんだって道士を招いてるんだ?」

「さあ。なんでも不老不死の丹薬を作らせてるって噂だよ。報酬が高額らしくてね、ここらの道士はみんな清州に行っちまったんだ」

 英傑はあきれる。権力を手にした者が最後に欲するのはいつだって不老不死だ。

(そんなに死が恐ろしいもんかね)

 まったく理解ができずに眉を寄せ、ふと首をかしげた。

「あれ。ってことは丁道士は招きに応じなかったのか」

「さあ。けど、行くと思うかい? 実はあれで名利を求めてるとでも?」

「……たしかに、人の世での名声になんか興味なさそうだなあ」

 はははと乾いた笑い声をたてると、紅倫は意味深長に笑んだ。

「そういう意味じゃ、あんたと似てるかもね。英傑も貴族嫌いだろう? どんな雑用でもやるくせに、貴族の仕事だけは絶対に受けない」

「よせよ。俺と似てるなんて言ったら、ぶちギレるぞ、あの道士様」

 英傑は苦笑して、窓の外に目をやった。雨で洗われ、美しく輝くいらかの群れの先には、白淵山の奇岩の峰々が霧をまとってそびえたっていた。

「丁道士はいつから白淵山にいるんだ?」

「七年ぐらい前だったかねえ。たしか神仙を探しに来たとか言ってやってきたんだよ」

 道士は修行のすえに神仙を目指すというから、教えをいにでも来たのだろうか。

(神仙は人間じゃないから、神仙相手ならちょっとは態度をやわらげるのか?)

 どうやら本当に人間嫌いのようだが、水神や精怪、老女の幽鬼に対しては、ずいぶん物腰柔らかに接していた。優しくほほえむ姿はまさにたんぼうにふさわしい。

 ──あながちまちがった噂でもない。

 ふいに「目が合うと死ぬ」という噂のことを語った洛宝の物憂げな表情を思いだす。あれはいったいどういう意味だったのだろうか。

「なんだい、興味を持ったのかい? たしかに、あの道士様は面白そうだけど」

 英傑ははたと我にかえり、顔の前でぶんぶんと手を振った。

「いやいや、ないない。あんな物騒な道士様、近づかないにかぎる」

「ふぅん。人間嫌いの道士と、人間不信の便利屋、案外、気が合いそうだけどね」

「おい、なに勝手にひとを人間不信扱いしてんだ、紅倫」

「違うってのかい? 仕事柄、いろいろな人間を見てきたが、あんたほどこじらせた人間不信も、そうそういないと思うけどねえ」

 英傑は笑って、「目が節穴すぎるぞ」と軽口を叩いた。


 ──ずっと、おまえを目障りに思っていた。


 唐突に、男の声が耳の奥に響きわたった。

 驚き、顔を上げる。すると、目の前に、ろうの格子が──

 英傑、と名を呼ばれる。はっと我にかえると、紅倫がげんそうにこちらを見ていた。英傑は小さく息を吐きだし、いつもの笑みを作って銭の山からひとつかみをとった。

「興味があるってわけじゃないが……陥湖の件を解決したのはほとんど丁道士なんだよな。あいつがいなけりゃ、龍渦城市は今ごろ水の底だった。この金が謝礼だって言うなら、半分は道士様のもんだ」

「なら、届けてくるかい? 白淵山に住む人間嫌いの変人に」

 紅倫がからかうように笑い──突然、真顔で「いいねそれ」とつぶやいた。

「そうだ、届けてきたらいいよ、あんた。ついでに、しばらく白淵山で暮らしたら?」

「……へ?」

「家も財産もなくしたし、ちょうどいいじゃないか。百華道士は、山頂近くにある廃れた道観で暮らしてるそうだ。そこにうまいこと転がりこんで、道士様から怪力乱神に対処する術でも教わってきたらいい! あんたが怪異がらみの依頼を解決できる便利屋になってくれたら、あんたもあたしも、ぼろもうけできるってもんだ!」

 英傑はぽかんとした。言われている意味をようやく理解し、にわかに焦る。

「待て、紅倫。さっきも言ったが、ああいう物騒な道士には近づかないにかぎると……というか、俺はこの金が半分もあれば、当分は生きてけるんだ! あっ」

 紅倫が几の上の銅銭を半分残してごそっと懐に抱えこむ。

「なにするんだ、俺の金だぞ!」

「馬鹿言うんじゃないよ! あんたのきんを土砂降りのなか運びだしてやったの、まさか善意でやったなんて思ってないだろうね!? 手間賃だよこれは!」

 絶句する。それを言われて「頼んでない」と言うのは愚の骨頂だろう。とくに、絶好の金儲けを思いつき、目をぎらつかせている金の亡者を前にしては。

「仕事を探しておいてやるから、行ってきな。人間嫌いだかなんだか知らないが、あんたの手練手管でぱぱっと懐柔してやんな。そんで、ぱぱっと教えを乞うてくるんだよ!」

 口を開きかけると、紅倫が先んじてぴしゃりと言った。

「便利屋が安定した暮らしを送れてるのは、誰のおかげだと思ってんだい?」

 英傑は顔をひきつらせ、「噓だろ」と苦々しくうめいた。

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