志怪一 陥湖の水神 ⑧

「……俺、ちゃんと謝った。本当だ。心をこめて謝ったよ。なのになんで──」

 死体を目にして動転したようだ。「阿弓」と名を呼び、ぐっと腕を摑むが、いったんせきを切ってあふれだした言葉は止まらなかった。

「なんでだよ。なんで母さんはこんな噓つき道士に俺のことを渡したりしたんだ。なんで俺のことは信じてくれねえのに、こんな奴なんか──っくそ、あのばばあ!」

 それは錯乱したすえに、ぽろりと口から転がり出ただけの子供じみた悪態だったはずだ。だが、阿弓がそれを口にした瞬間、体にかかる水圧が重さを増した。

『──あの、ばばあ?』

 はっと顔を上げると、店の入り口から赤い蛇の眼球が中をのぞきこんでいた。

 突然、店の前面の壁がごうおんをあげて崩落した。舞いあがったじんによって一気に視界を奪われる。水神はどこだ。英傑がその気配に意識を凝らしたせつ、砂の幕を破るようにして大口を開けた水神が眼前に迫った。英傑は阿弓を背後に隠し、腰の剣を引きぬいた。こうなってはもはや水神を斬るしかない。

 殺すな、と洛宝が叫ぶのが聞こえた。眼前では水神がきばき、英傑と阿弓を頭から吞みこまんとしている。英傑は決心し、床をしっかと踏みしめ、剣を構えた。

 と、蛇の動きが急激に止まった。英傑の目の前で、その口がぱくぱくと水をむ。

『……喰えぬ』

 水神が言った。

『喰えぬ。喰えぬ、喰えぬ……っ』

 どうこくし、ふらふらと首を遠ざける。

『そやつらは母の墓を荒らした。きっと母は冥界で苦労をしておる。いつも腹をすかせていたのに、冥界でまで飢えてしまう! 喰ってやりたい。なのに……喰えぬ──』

 大蛇の口から黒々としたしようがあふれだし、英傑と阿弓を包みこむ。英傑は阿弓を抱きよせ、なすすべもなく身を硬くした。

 ──吾が、馬を喰いさえしなければ、母様は死なずに済んだ。

 渦巻く瘴気が媒介となってか、水神の心にある深い嘆きが直接、胸に響いてきた。

 ──母様は小さかった吾にいつも己の食べ物を分けてくれていた。

 ──己も腹をすかせていたのに、母様はずっと我慢をしてくれていた。

 ──吾も我慢したらよかった。なぜあんな馬など喰ったりしたのだろう。

 ──ああ、もう二度と食べぬ。二度と、なにも、食べたりはせぬ……。

まれるなよ」

 英傑は我にかえった。声がしたほうを見やると、洛宝がかたわらに立っていた。

「結界で瘴気をさえぎった」

 阿弓を抱える英傑と、洛宝とは、不可思議な光のえんがいの中にいた。足元を見ると、三人を囲って霊符が四枚、水に揺らぐことなく水底に突き立てられている。光の外では、黒い瘴気が嵐のように吹きあれていた。

「今、なにか奇妙なものを……」

「水神が精怪だったころの記憶だろう。……城市が水底に沈んで数か月後、蛇は干からびたがいとなって見つかったという。どうして死んだのかと思っていたが、喰わずの誓いを立て、餓死したからだったのか」

 洛宝はそう言って結界の外を痛ましげに見つめた。

「水神が母の墓を荒らされ、腹を立てていたのはわかっていた。だがその裏には、母親の冥界での幸せを願う気持ちが隠されていたんだな」

 人は死ぬと冥界へ行き、そこで新たな暮らしをはじめると言われている。冥界での暮らしの質は、子孫がどれだけ死者を大切にまつるかで変わってくる。丁重に祀れば豊かな暮らしができ、ぞんざいに扱えば、貧しい日々を送ることになる。

「呂阿弓と周仲宣が母の墓を荒らしたことで、水神は思ったはずだ。これでは冥界の母が苦労してしまうと。……さて、どうするか。そいつにはもう期待できない。母親をばばあ呼ばわりするそいつを、水神が許すとも思えない。……ためしに呼んでみるか」

 洛宝は懐に手をやった。取りだしたのは、水神が母と慕う老女のはいの破片だった。

「持ってきてたのか」

「ああ。──ただ、あの幽鬼は存在が乏しすぎる。水神廟を離れるほどの力を持っていない。なんとか水底まで連れてこられたらいいんだが……」

 ひっそりとつぶやき、洛宝は霊符のつくる結界の外へと出ていこうとする。

「どうする気だ、丁道士」

「さあ。だが、どうにかする。……このままでは、あまりに水神がかわいそうだ」

 英傑はひょいとまゆを持ちあげた。龍渦城市の人々の身を案じてのことではないらしい。

(人間嫌いの百華道士、か)

 洛宝の姿が黒い瘴気の中へと消える。

「さて、阿弓。俺にできることはどうやらなさそうだが、道士様ひとりに任せるってのも申しわけねえ。ここは安全なようだから、おまえはひとりでここで待ってろ」

 そう言って歩きだすと、英傑の腕を阿弓がぎゅっとつかんだ。

「お……俺も行く。今度こそ水神様にちゃんと謝る」

「なんだー? 急に可愛げが出たなあ」

 英傑は笑って、すこし悩んでから、目を真っ赤にした阿弓の鼻先にこぶしをつきつけた。

 開いた手のひらの上で転がったのは、土でできた小さな人形だ。

「……なに、これ」

「出しなに呂夫人から預かった。おまえには内緒にって言われてたんだけどな」

 阿弓は目を見開き、信じられないとばかりにかぶりを振った。

「噓だ、こんなの。だってこれ……身代わり人形じゃないか」

 もし阿弓が死ぬようなことになれば、呂夫人がかわりに死を引きうける、そういう代物だ。ここらではよく知られたまじない物で、本当に身代わりになれるのかは英傑にはわからない。だが少なくとも呂夫人はそう信じ、英傑に託したのだ。

 阿弓は人形を受けとる。壊せば母が死ぬとでも言うように、そっと両手で包みこむ。

 やがて阿弓はふらふらと結界の外に出ていこうとした。止めるべきかどうか迷うが、英傑はそのまま阿弓の隣に従い、そろって黒い瘴気の中へと出ていった。

 悪寒が全身に襲いかかる。阿弓はその場でこうとうした。

「水神様。謝ります。どうか許してください。怒りを鎮めてください」

 瘴気が体にまとわりつくのも気にかけず、阿弓は一心不乱に叩頭を重ねる。

「祭壇を直します。美味おいしいものを供物としてたくさんささげます。なにが好物ですか。教えてください。水神様のことも、お母さんのことも、ちゃんとお祀りします」

 返ってこない答えに、これでは足りないと思ったのか、なお言葉を連ねる。

「毎日来て、掃除をします。水神びようの修繕をします。祭礼が必要だったら、道士様にお願いして来てもらいます。だから……だから──」

 水神の言った「ただいのちいをしているだけ」という言葉が脳裏をよぎったか、阿弓はぎゅっと唇を嚙みしめると、無言でその場にひれ伏した。

 ゆるやかに瘴気が薄れていく。気づくと、阿弓のすぐ目の前に水神がいた。本心を読もうとするように、顔を阿弓へと近づける。

『……もうよい』

 やがて水神はのどを大きくそらすと、仲宣の入った気泡を吐きだした。中で倒れていた仲宣は、平伏しつづける阿弓を見て、あわてて一緒に叩頭した。

 なりゆきを黙って見守っていた英傑が周囲に目をやると、すぐ近くで、洛宝が地べたにあぐらをかき、ほおづえをついて阿弓を見つめていた。

 水神はゆらりと首を後ろに向け、弱々しい動きで阿弓のもとを去っていく。

 その背に、洛宝がふと声をかけた。

「水神。私をここにつかわしたのは、おまえの母親だ」

 水神は動きを止め、首だけを洛宝へと向ける。

「存在のはかない幽鬼だった。なんとか水底まで呼べたらと思ったが、無理だった」

 洛宝の手には位牌の欠片かけらが握られている。

 洛宝は英傑が目を見張るほど優しい、いたわりに満ちた目を水神に向けた。

「だが、それだけ存在が儚いのは、めいかいでの生活が何不自由ないからこそだ。おまえの母を想う清い心は、ちゃんと冥府の王に届いている」

 水神は洛宝を見下ろし、口を開いた。

まことか。われの祈りは冥府に伝わっておるのか。母上は……幸せにしておられるか』

 洛宝がうなずくと、水神はすいうろこを眩いばかりに輝かせた。

『そうか。……ならばゆるそう。人の子らよ──』

 水神が赤い眼を細める。長い首をもたげ、波打つ水面みなもを見上げる。

 ふとその体がせんを描いて上昇をはじめた。水神の動きによって水が逆巻き、英傑の体が水底から引きはがされる。あわてて振りかえると、洛宝、阿弓、それに仲宣の入った気泡までもが浮きあがり、生じた渦の回転に巻きこまれようとしていた。洛宝が「待て、水神!」と叫ぶが遅きに失した。なすすべもなく激しい水流にきりもみされ、一気に水面まで運ばれて──突然、湖面を割って高々と噴きあげられた。陥湖の上空にはじきだされた英傑の顔面に雨粒が降りかかる。目をすがめて見ると、翡翠の鱗を持つ水神がまっすぐに雨空へと昇っていくのが見えた。

 水神の体がぶ厚い雨雲を突きやぶる。すると黒雲はまたたく間に四方へと吹きとばされ、あとにはただ澄みきった早暁の空が広がった。

 きれいだ。そうれたのも一瞬、打ちあげられた英傑の体が、急激に落下をはじめる。悲鳴をあげる間もなく、英傑は水柱をあげ、水中へと逆戻りするのだった。

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