志怪一 陥湖の水神 ⑧
「……俺、ちゃんと謝った。本当だ。心をこめて謝ったよ。なのになんで──」
死体を目にして動転したようだ。「阿弓」と名を呼び、ぐっと腕を摑むが、いったん
「なんでだよ。なんで母さんはこんな噓つき道士に俺のことを渡したりしたんだ。なんで俺のことは信じてくれねえのに、こんな奴なんか──っくそ、あのばばあ!」
それは錯乱したすえに、ぽろりと口から転がり出ただけの子供じみた悪態だったはずだ。だが、阿弓がそれを口にした瞬間、体にかかる水圧が重さを増した。
『──あの、ばばあ?』
はっと顔を上げると、店の入り口から赤い蛇の眼球が中をのぞきこんでいた。
突然、店の前面の壁が
殺すな、と洛宝が叫ぶのが聞こえた。眼前では水神が
と、蛇の動きが急激に止まった。英傑の目の前で、その口がぱくぱくと水を
『……喰えぬ』
水神が言った。
『喰えぬ。喰えぬ、喰えぬ……っ』
『そやつらは母の墓を荒らした。きっと母は冥界で苦労をしておる。いつも腹をすかせていたのに、冥界でまで飢えてしまう! 喰ってやりたい。なのに……喰えぬ──』
大蛇の口から黒々とした
──吾が、馬を喰いさえしなければ、母様は死なずに済んだ。
渦巻く瘴気が媒介となってか、水神の心にある深い嘆きが直接、胸に響いてきた。
──母様は小さかった吾にいつも己の食べ物を分けてくれていた。
──己も腹をすかせていたのに、母様はずっと我慢をしてくれていた。
──吾も我慢したらよかった。なぜあんな馬など喰ったりしたのだろう。
──ああ、もう二度と食べぬ。二度と、なにも、食べたりはせぬ……。
「
英傑は我にかえった。声がしたほうを見やると、洛宝がかたわらに立っていた。
「結界で瘴気をさえぎった」
阿弓を抱える英傑と、洛宝とは、不可思議な光の
「今、なにか奇妙なものを……」
「水神が精怪だったころの記憶だろう。……城市が水底に沈んで数か月後、蛇は干からびた
洛宝はそう言って結界の外を痛ましげに見つめた。
「水神が母の墓を荒らされ、腹を立てていたのはわかっていた。だがその裏には、母親の冥界での幸せを願う気持ちが隠されていたんだな」
人は死ぬと冥界へ行き、そこで新たな暮らしをはじめると言われている。冥界での暮らしの質は、子孫がどれだけ死者を大切に
「呂阿弓と周仲宣が母の墓を荒らしたことで、水神は思ったはずだ。これでは冥界の母が苦労してしまうと。……さて、どうするか。そいつにはもう期待できない。母親をばばあ呼ばわりするそいつを、水神が許すとも思えない。……ためしに呼んでみるか」
洛宝は懐に手をやった。取りだしたのは、水神が母と慕う老女の
「持ってきてたのか」
「ああ。──ただ、あの幽鬼は存在が乏しすぎる。水神廟を離れるほどの力を持っていない。なんとか水底まで連れてこられたらいいんだが……」
ひっそりと
「どうする気だ、丁道士」
「さあ。だが、どうにかする。……このままでは、あまりに水神がかわいそうだ」
英傑はひょいと
(人間嫌いの百華道士、か)
洛宝の姿が黒い瘴気の中へと消える。
「さて、阿弓。俺にできることはどうやらなさそうだが、道士様ひとりに任せるってのも申しわけねえ。ここは安全なようだから、おまえはひとりでここで待ってろ」
そう言って歩きだすと、英傑の腕を阿弓がぎゅっと
「お……俺も行く。今度こそ水神様にちゃんと謝る」
「なんだー? 急に可愛げが出たなあ」
英傑は笑って、すこし悩んでから、目を真っ赤にした阿弓の鼻先に
開いた手のひらの上で転がったのは、土でできた小さな人形だ。
「……なに、これ」
「出しなに呂夫人から預かった。おまえには内緒にって言われてたんだけどな」
阿弓は目を見開き、信じられないとばかりにかぶりを振った。
「噓だ、こんなの。だってこれ……身代わり人形じゃないか」
もし阿弓が死ぬようなことになれば、呂夫人がかわりに死を引きうける、そういう代物だ。ここらではよく知られたまじない物で、本当に身代わりになれるのかは英傑にはわからない。だが少なくとも呂夫人はそう信じ、英傑に託したのだ。
阿弓は人形を受けとる。壊せば母が死ぬとでも言うように、そっと両手で包みこむ。
やがて阿弓はふらふらと結界の外に出ていこうとした。止めるべきかどうか迷うが、英傑はそのまま阿弓の隣に従い、そろって黒い瘴気の中へと出ていった。
悪寒が全身に襲いかかる。阿弓はその場で
「水神様。謝ります。どうか許してください。怒りを鎮めてください」
瘴気が体にまとわりつくのも気にかけず、阿弓は一心不乱に叩頭を重ねる。
「祭壇を直します。
返ってこない答えに、これでは足りないと思ったのか、なお言葉を連ねる。
「毎日来て、掃除をします。水神
水神の言った「ただ
ゆるやかに瘴気が薄れていく。気づくと、阿弓のすぐ目の前に水神がいた。本心を読もうとするように、顔を阿弓へと近づける。
『……もうよい』
やがて水神は
なりゆきを黙って見守っていた英傑が周囲に目をやると、すぐ近くで、洛宝が地べたにあぐらをかき、
水神はゆらりと首を後ろに向け、弱々しい動きで阿弓のもとを去っていく。
その背に、洛宝がふと声をかけた。
「水神。私をここにつかわしたのは、おまえの母親だ」
水神は動きを止め、首だけを洛宝へと向ける。
「存在の
洛宝の手には位牌の
洛宝は英傑が目を見張るほど優しい、いたわりに満ちた目を水神に向けた。
「だが、それだけ存在が儚いのは、
水神は洛宝を見下ろし、口を開いた。
『
洛宝がうなずくと、水神は
『そうか。……ならば
水神が赤い眼を細める。長い首をもたげ、波打つ
ふとその体が
水神の体がぶ厚い雨雲を突きやぶる。すると黒雲はまたたく間に四方へと吹きとばされ、あとにはただ澄みきった早暁の空が広がった。
きれいだ。そう
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