志怪一 陥湖の水神 ⑦

 白淵山の谷間に築かれたその城市は、街道の要所にあり、大いに栄えていた。富める者は街道沿いの平地に居をかまえ、そうでない者はがけに粗末なぼうおくを建てて暮らした。そうした者たちの暮らしは貧しかった。食事は日に一度あるかないか。たっぷりの水で炊いたあわをすするように食べ、あとは木の根をかじって飢えをしのぐほかなかった。

 ひとが飢えると、精怪も飢えるのだろうか。二本の角を持ち、すいうろこを持つ小さな蛇の精怪は、生まれたときから腹をすかせていた。親はおらず、自分がなにを食べる生き物なのかも知らず、空腹をもてあまして崖の草の中をいまわった。

 そして、ある茅屋にたどりつく。土間にあったかめひつをのぞくが空っぽだ。ただ、わらを敷いた寝床のそばに、老いた人間の女がいた。蛇は老女に近づくと、その裸足はだしの指にかぷりとらいついた。

「あれ。おまえ、人喰いの精怪だね」

 驚いた老女はあわてて蛇を払いのける。しかし、生まれたての蛇はきばが小さく、指には小さな穴が開いただけだった。

「あんた、腹が減ってるんだねえ。こんなおばあさんの足に喰らいつくなんて」

 老女は食べようとしていた粟を半分よこしてくれた。蛇は喜んでそれを一吞みにした。

「あたしが飯をあげるから、人を食べたらいけないよ。殺されちまうからね」

 蛇は寝藁の中に棲みはじめた。老女はいつも飯の半分を分けてくれた。世の中のことをまだ知らない蛇だったが、老女がわずかしかない飯をくれていることはわかった。その優しい心はしみじみと伝わり、蛇はやがて老女を母と慕うようになった。

 蛇は成長し、やがて一丈もある大蛇となった。自力で山の獣を捕り、肉の塊を老女に届けることもあった。だが、老女はいつも「あんたがお食べ。人を食べないようにね」と言って、受けとらなかった。

 ある日のことだ。蛇は丸々と太った馬を見つけて、いつものように丸吞みにした。それは、城市を管轄する役人の愛馬だった。愛馬を殺された役人は激怒した。老女が蛇をかくまっていると聞くと、「蛇を出せ」と茅屋に押しかけた。

 そのとき、蛇は茅屋の裏手にある茂みにいた。茅屋からは、老女が「蛇なら藁の下で眠っています」と答える声が聞こえてきた。役人が寝藁の下を探るうちに、老女は茂みまでやってきて、優しく囁きかけた。

「お逃げ。もうここにいてはいけないよ」

 ところが、蛇を見つけることができなかった役人がすぐに老女を追いかけてきた。「だましたな」と叫び、こぶしを振りあげ、老女を殴り殺してしまった。

 いまだ茂みに隠れたままだった蛇の目の前で。


「蛇は泣いた。そのどうこくを耳にし、あわれに思った天帝は、蛇にたたりを起こす力を与えた。雨が四十日にもわたって降りつづけた。やがて城市の人々は互いの顔を見て、驚きに叫んだ。顔が魚になっている、と。しばらくして起きたことは、宿で話しただろう」

 地盤沈下が起き、城市はまるごと水の底に沈んだのだ。

「嵐を起こした蛇は、数か月後に干からびた死骸となって見つかったそうだ。城市で無事だったのは、高台にあった老女の家だけ。人々はその家に祭壇を作り、二度と祟りが起きぬよう、老女を葬り、蛇を水神として手厚く祀った」

「じゃあ、ここは水神を祀った廟であり、水神が母と慕ったひとの墓でもあるってわけか。つまり、阿弓と仲宣は水神様の母上の墓を荒らしちまったと……」

「知らなかった。そんなつもりなかったんだ」

 阿弓がそうはくになって訴える。洛宝は冷ややかに阿弓を見据えた。

「孝行な蛇だな。どこかの甘ったれた悪童とは大違いだ」

「……どうせ俺は親不孝者だよ」

 洛宝は「わかってるじゃないか」と言って、両手に丸薬をのせ、英傑と阿弓とに差しだした。英傑は覚悟を決めてそれを受けとり、口に放る。あまりの苦さにもんぜつする。洛宝は、英傑のありさまを見て後ずさりかけた阿弓を捕まえ、無理やり口に丸薬を押しこんだ。うめく阿弓の横で、洛宝は涼しい顔で丸めただけの霊符を優美にみこむ。

「紙のままで吞んだほうが甘いのに、妙な奴らだ」

「……そういうことは先に言え」

 扉を開け、雨の中に出る。洛宝は湖面へとせりだした崖のきわで立ち止まった。「先に行く」と言うなり崖をり、水面みなもに身を躍らせる。水しぶきがあがり、その姿が黒い湖面の下に消えると、英傑はひきつった笑いを浮かべた。

「ここまできたら、うんてんってやつだな。覚悟を決めろ、阿弓」

 逃げ腰になる阿弓の肩を英傑はつかみ、渦巻く水面へと跳びこんだ。


 水中は外の荒天が噓のように穏やかだった。それにぼんやりと明るい。水底からほのかに光があふれだし、緑がかった水の世界を柔らかく照らしだしている。

 もがく阿弓をしっかり抱えて洛宝の姿を捜すと、ちょうど洛宝が英傑の横まで泳いでやってくるところだった。長い黒髪や、ほうすそが優美に揺らめく。

「息をしろ。ここを水中とは思うな。そのまま水底に落ちていけばいい」

 当然のようにしゃべるので、英傑はもはやどうとでもなれという勢いでのどを大きく開いた。流れこんできたのは、水ではなく、空気だった。

「阿弓、呼吸をしてみろ。大丈夫だ」

 阿弓は頰をふくらませて首を横に振るが、すぐに限界を迎えて空気を吸いこんだ。

 やがて三人は湖の底にふわりと着地した。すなぼこりが舞いあがる。一瞬、濁った視界はすぐに晴れ、眼前に古色蒼然とした城郭都市のはいろうが姿を現した。

 牌楼の先には繁華街とおぼしき通りが延びている。英傑はきようがくに目を見開く。

(これが、かつて水神の祟りによって、水底に沈んだ古代の城市……)

「こっちだ」と言って、洛宝が歩きだした。水の抵抗でもどかしいほどに体の動きが鈍い。だが、霊符のおかげか、体が好き勝手に浮きあがることはない。

 それにしてもなんと奇異な光景だろう。どうやら立派な城市だったようで、建ちならぶ建物はどれも二階建てだ。茶楼や酒楼の看板はそのまま残っており、客寄せの旗までが往年の姿のまま水に泳いでいる。二階の窓から魚の群れが飛びだし、通りを挟んだ向かいの楼閣へと消えていく。なまずが石畳を這い、突然現れた人間たちに驚き、急いで砂にもぐる……。美しいとも、恐ろしいとも思える光景だ。

 洛宝が足を止めた。幅広の階段の前だ。その上には堂々たる瓦葺きのびようが建っている。不思議なことに廟の出入口からは光があふれだしていた。

「水神のぜんだ。最大の敬意を払って、拝礼しろ」

 洛宝は階段下にひざまずき、優美な仕草でその場にこうとうした。英傑もすかさず同じようにし、阿弓もおずおずとひざをつき、ためらいながらひれ伏す。

「水神に願いたてまつる。どうかこの者の謝罪を聞いていただきたい」

 ずるずるとなにかが這う音がした。英傑はひそかに廟の様子をうかがった。

 やがてそれは悠然と姿を現した。翡翠の鱗を持つ蛇だった。一対の目は赤く、額には二本の立派な角が生えている。胴回りは英傑が両腕をまわしたほどもあり、宿で見たかりそめの姿よりもはるかに巨大だ。また、鱗の一枚一枚が淡く光を放っている。どうやら先ほど目にした光は、水神の放つ光──神気だったようだ。

 水神はゆったりと鎌首をもたげると、はるか頭上から三人を見下ろした。

『待っていたぞ、道士。謝罪と言ったか、ならば申してみよ』

 水神が言葉を発した瞬間、のしかかる水圧が増した。阿弓はがくがくと震えあがった。叩頭したまま口を何度も開けるが、恐怖のあまりにか言葉が出てこない。

 水神が大きく喉をそらし、なにかを吐きだした。階段下まで転がりおちてきたのは大きな気泡だった。中には、前夜に連れさられた周仲宣が閉じこめられていた。

「……仲宣!」

 阿弓が跳ね起き、気泡に駆けよった。

 内側でひっくりかえっていた仲宣は、近づいてくる阿弓に気づいて急いで立ちあがる。

「来てくれたのか……っごめん、俺が馬鹿なことを言ったから。本当にごめん!」

 仲宣の無事をたしかめた阿弓の目に深いあんが宿った。首を横に振り、「俺も遅くなってごめん。怖かったんだ」と素直な心を口にする。

 しかし、それは水神の怒りを逆なでしたようだった。

われには謝罪をせぬのに、その者にはすぐにびるのか』

 阿弓はびくりと震え、狼狽うろたえてその場に叩頭した。

「申しわけありませんでした。どうか、仲宣を出してやってください……っ」

『それで詫びているつもりか。ただいのちいをしているだけではないか。おぬしらは己らがなにをしたのか、いまだわかっておらぬのか……!』

 水神は勢いよく首を下に伸ばすと、仲宣の入った気泡を丸吞みにした。

 阿弓は悲鳴をあげた。英傑はとっさに阿弓のもとへと泳ぎ、その体を抱えこむと、水神から距離をとった。

「水神。おまえが望むことを教えてほしい。この者たちがそれをかなえる」

 洛宝が問うが、水神はそれを一笑にふした。

『ならばが供物となれ。死して、めいかいで吾が母に詫びるがよい!』

 水神は長い尾をふるうと、洛宝をよこぎにつぶそうとした。当たるよりもはやく、その場を浮きあがって逃れた洛宝は、「いったん引くぞ」と英傑に声をかけて廟を離れ、ともに商店らしき建物の中へと逃げこんだ。

大哥あにき、仲宣が──仲宣が……っ」

「しっかりしろ、われてはいない。蛇腹が気泡の形にふくれてた。まだ無事だ」

 たしかではないが、阿弓をなだめるためにそう口にする。だが、目の前で友を丸吞みにされた阿弓は聞いているのかいないのか、ただ泣きじゃくる。

 英傑は身を縮こませる阿弓を抱え、嘆息した。

「謝ったら許してくれるんじゃなかったのかよ、丁道士」

「誠意をもって謝ることができなければ、いっそうの怒りを招く。そう言ったはずだ」

 たしかに言っていたし、英傑も阿弓の様子からこの展開を予想できていたのだが、水神のあの威圧感を前に冷静でいられる人間はどれほどいるだろうか。

 ふいに、英傑の腕の中で阿弓が震えた。見下ろすと、少年は食い入るように床に散らばったなにかを見ていた。白骨死体だ。かつての水没者だろう。

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