志怪一 陥湖の水神 ⑥

 すぐさま舟が水面を滑るように動きはじめた。上流に向かっているのに、揺れはほとんど感じず、しかも速い。英傑は背後の闇を振りかえった。すでに宿は見えず、見送りに立った呂夫人が持つ手燭の明かりだけが、遠くでぼんやりと光っていた。

「精怪にはずいぶん態度を変えるんだな。人間嫌いって噂は本当か」

 英傑がくが、洛宝はすました横顔を向けるばかりだ。

「そう不機嫌面で疲れないもんかねえ」

「……おまえ、私が怖くないのか。噂は聞いているだろう。目が合うと死ぬ、とか」

 横を向いたまま、洛宝がぽつりとたずねてくる。気にしているのか。そういえば「百華」と呼ばれることもやたらと嫌っていた。

「べつに死ぬのを怖いとは思ってないしな。それに、噂ってのは話半分に聞くから面白い。本気にしたら馬鹿を見る」

 洛宝が首をまわし、真正面から英傑を見据えた。

 ぎくりとした。それは「目が合うと死ぬ」というくだらない噂を恐れてのことではない。はじめて目が合ったときのあの奇妙な感覚を、ふたたび覚えたからだ。

(なんなんだろうな、この目は)

 この目にじっと見られると、心がざわつく。そむけたいとは思わないが、どうにも落ちつかない。だが、動揺は表に出さず、英傑はまっすぐに洛宝の眼差しを受けとめた。

 洛宝は眉を寄せ、「面白がられるのも不愉快だぞ」とつぶやく。

「そうか。なんでも面白がるのは、俺のよくない性分だ。ひとに好き勝手に噂を立てられたら、そりゃ気分が悪いよな。すまない」

 洛宝が珍異な生き物でも見るように英傑を眺めてくる。英傑は首をかしげた。

「目が合ったら死ぬって聞いたが、なんだってそんな噂が立ったんだ?……あ、『黙れ、有象無象』なんて言うなよ。そっちが水を向けてきたんだからな」

「なぜあの噂がただの噂だと思う」

「あれが本当なら、俺はとっくに死んでる。もし、あの噂に面倒な思いをさせられてんなら、城市の連中に『あれは噓だ』って言っといてやろうか?」

 まじまじと英傑を見つめていた洛宝のひとみにふっとかげが差した。

「いらない。……あながちまちがった噂でもない」

 英傑が眉を持ちあげたそのとき、急に舟が速度を落とした。ぐんっと揺さぶられ、英傑は舟べりにしがみつく。舟底に転げた阿弓を助けおこして、周囲に注意を向けると、どうやら白淵山のふもとを流れる小川に着いたところのようだった。

『ここから先は川幅が狭い。舟では無理であろう』

 舟の下から精怪たちがい出てくる。洛宝は「感謝する」と笑みを浮かべ、右の人差し指を口に運んで、ぐっと歯を立てた。血の滴がにじむ。そこにふっと息を吹きかけると血は黄金に輝く水滴となって、水面にこぼれおちた。それを、精怪たちが水しぶきをあげながららう。やがて水面は静まり、精怪の姿もまた見えなくなった。

 田地のあぜみちに立つ。稲妻が走り、眼前に白淵山の巨大な山影が立ちはだかった。

 ふと、洛宝がそでから取りだした霊符を二枚、英傑の胸に押しつけた。

ろうくんにゆうざんだ。持っておけ。これがあれば、山のモノが襲ってくることはなく、落雷に打たれる心配もない。──先を行く。ついてこい」

 洛宝は別の霊符を取りだし、ぱっと眼前に放りなげた。ふよふよと浮かんだそれは赤い炎へと変わり、松明たいまつがわりに辺りを照らして三人を先導してくれる。

 畦道の先からはじまった山道は、ぬかるんだ土の急斜面だ。霊符は舟のときとは違い、あめけの役割は果たしてくれなかった。横殴りの雨が容赦なく打ちつけてくる。

 だが、洛宝の動きは軽やかだ。英傑もひとりなら速度をあげられただろうが、阿弓は雨中の、それも慣れない夜の登山に目に見えて消耗していった。

「おい、丁道士! すこし休ませてくれ!」

 英傑は前を行く洛宝に叫んだ。洛宝はれた顔を険しくするが、さすがに休む必要を感じたのか、雨宿りができそうな洞の前でふたりがやってくるのを待った。

 洞の中は穏やかだった。入り口の上部で岩がほどよく張りだし、風雨をさえぎってくれる。英傑はへたりこんだ阿弓に、水の入った竹筒と、呂夫人が用意してくれた握り飯とを渡した。しかし、食欲がないのか首を横に振る。一応、洛宝にも声をかけるが、案の定「不要」とすげなく言って、背を向けて洞の奥に座った。

「……大哥あにきも、俺のこと薄情だって思ってんだろうな」

 阿弓が呟いた。

「仲宣のことか? んなことねーよ。本当は心配してんだろ?」

 英傑が洛宝に、仲宣は無事だと思うかと訊いたとき、案じる目をしていた。あれは心底からのものだ。心配はしているが、おびえが勝っているだけなのだろう。

 阿弓は英傑の言葉を聞き、目をうるませた。

「俺、止めたんだよ。仲宣が祭壇を荒らしてやろうって言ったとき。今回だけじゃなくて、前に市場の壁に落書きしようって仲宣が言いだしたときも。最近、親父も白髪が増えてきたし、おふくろも腰痛めたし……ちょっとぐらい、宿を手伝おうかと思って」

 へえ、とすこし驚く。阿弓もいつの間にか一歩、大人になろうとしていたようだ。

「でも仲宣の奴、俺がそんなこと言ったことに腹を立てたみたいだった。ならいい、先に帰ってろ、って。けど、先に帰るわけにいかねえだろ。だから……」

 だから結局は一緒になって祭壇を荒らしたというわけか、と納得する。仲宣も、大人になろうとしている親友を目の当たりにして動揺してしまったのかもしれない。

「馬鹿やったって思ってる。でも、ほかにどうすりゃよかったんだ。仲宣を放って、帰ればよかったのか? それこそ薄情だろ。……なのに、おふくろの奴──」

 舌打ちが聞こえた。洞の奥の洛宝を見やると、背を向けているので顔は見えないが、両肩が怒りにかこわばっていた。

「分別もついてねえガキのしたことだ。もうちっとゆったりかまえてたらどうだ?」

 声をかける英傑を、洛宝が振りかえった。その顔には冷笑が浮かんでいる。

「おまえこそ、もうすこしあわてたらどうだ。龍渦城市がどうなろうが私の知ったことではないが、おまえは城市に家や家族があるのだろう」

「家族はいないし、家はこの雨で流されたよ」

 答えると、洛宝は眉をひそめた。

「家が流されたのに、よく笑っていられるな。しかも、元凶を前にして」

「若いころに馬鹿をやらかしたことなら、俺にもあるからなあ。あんただって、その気性の荒さから察するに、親を泣かせたことのひとつやふたつあるだろう」

「そいつと一緒にするな。そんなこと、あるわけな──」

 ない、と言おうとしたのだろうが、その口がぴたりと止まる。あるらしい。

 英傑はにやりと笑い、「さて」と立ちあがった。

「あとひと踏んばりだ。行けるな? 阿弓」

 弱音を吐いてすこし落ちついたのか、阿弓は意を決したようにうなずいた。


 降雨の山道をふたたび歩きだし、どれだけ経ったころか。ふいに開けた空間が現れた。霊符が照らす先に、わずかに波打つ湖面が見える。だが、暗すぎて全容がつかめない。

 そのとき、稲妻が空を引きさいた。一瞬、光の中に浮きあがった陥湖は、巨大だった。雷がごうおんをたてて湖面に打ちつける。波紋が広がり、岸に波が押しよせた。

 陥湖だ。これが水神の巣か、と英傑はさすがに息をむ。

 岸辺に小さなあばら家が建っていた。「水神びようだ」と洛宝が言い、扉を押し開ける。洛宝が中に入り、英傑は阿弓を先に通してから、自分も足を踏み入れた。

 扉を閉ざすと、風雨の音が驚くほどすっと遠くなった。阿弓が土間にひざをつき、肩を上下させる。英傑は廟の内部を見まわした。

「こう言っちゃ失礼かもしれんが、農家の納屋みたいだな」

 荒らされた祭壇とやらは、土間の隅にざんがいとなって転がっていた。英傑は身をかがめ、それらを摑みあげて嘆息する。よくも神様をまつったものをここまで壊せたものだ。

 と、割れたふたつの木片を、手元でつなぎあわせた英傑は黙考する。

(これは本当に水神を祀った祭壇なんだろうか。この木片、まるではいだ)

 墨書は消えかかっていてほとんど読めないが、女人の名らしきものが記されていた。水神は声からして雄のようだったが、この名前はいったい……。

 大哥、と阿弓が切羽詰まった声をあげた。英傑は木片から顔を上げ、阿弓が目をいて凝視する先を見やり、はっとした。

 土間の隅で、老女が正座していた。長い髪を垂らし、背を丸めて深々とうなだれている。その姿は輪郭がぼやけ、判然としない。──幽鬼だ。

 洛宝はひるむことなく老女のそばに向かい、すそをさばいて対面に座った。

 端然と座した道士に向かって、老女がなにかをささやく。洛宝は無言でそれに耳を傾ける。やがて「わかった」と呟くと、老女はすうっと煙のように消えていった。

「水神は陥湖の底にいるそうだ。おまえが来るのを待っている」

 洛宝は立ちあがり、袖からこれまで見てきたものよりも薄い霊符を取りだすと、くしゃりと手の中で丸めた。そのまま阿弓のほうに近づいていったかと思うと、いきなり胸倉を摑みあげ、「え」と開いた口の中に丸めた霊符をつっこんだ。

「吞め。水の中でも息ができるようになる」

 洛宝は反射で吐きだそうとする阿弓の口を手で押さえ、無理やりえんさせようとする。英傑は「待て待て」と洛宝の腕を摑んで引きはがした。阿弓がむせかえり、吞みこめなかった霊符を吐きだす。

「強引にことを進めようとすんな! 水の中ってなんだよ。だいたいこれ紙だろ」

 洛宝は面倒そうに顔をしかめ、新しい霊符を取りだし、じゆじゆを唱えた。丸めた霊符が燃えあがり、またたく間に灰となる。それをひと握りすると、小さな丸薬となった。「これで満足か」と言うなり、今度は英傑のあごを摑もうとするので、あわてて身を引く。

「待てって! 先に話を聞かせてくれ。今の女性は誰だ?」

「私に水神の怒りを鎮めてくれと頼んできた幽鬼だ」

 宿で話していた、洛宝側の依頼主というわけか。さすがは道士だ、依頼主が人間ではないとは思いがけない。英傑はふと手にしたままの木片に視線を落とした。

「もしかして、この位牌の女性か」

 木片を示すと、洛宝はそれを受けとり、ふっと憂いを目に宿した。

「だろうな。存在の薄い幽鬼だ。声もあまり聞きとれず、たしかなことは言えないが」

「水神と、どう関係するんだ」

 洛宝はちらりと英傑に上目をつかい、いかにも面倒そうに答えた。

「水神がまだ一匹の精怪だったころに、母として慕ったひとだ」

「……なあ、あんたが人間嫌いなのは十分にわかったが、それはこれから水神様とたいする上で必要な話のように思えるんだが?」

 洛宝は顔をしかめると、ため息をついた。

「たしかに、話しておいたほうがいいかもしれないな」

 そう言って、洛宝はかつてこの地で起きた、今はもう知る者のほとんどいない水神にまつわる伝承を語りはじめた。

「龍渦城市ができるずっと昔、この辺りにはにぎやかな城市があった。そこには、まだ神と呼ばれる前の、蛇の姿をした精怪がんでいた……」

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