志怪一 陥湖の水神 ⑤
文を見せてもらうと、呂達から聞いていた「水神の祟りを鎮めるため、おまえを供物として捧げる」という文面はなく、洛宝が話したとおりの「陥湖に来い」という一文と期日とがそっけない筆致で記されていた。
「なんで親父さんに、このひとがおまえを供物にしようとしてるなんて噓ついたんだ」
「道士は祟りを鎮めるのが仕事だ。しかもあの噂の百華道士だ。陥湖に俺と仲宣を呼ぶってことは、つまりそういうことだろ……」
阿弓の力ない答えを聞いた英傑は嘆息し、今度は洛宝に目を向けた。
「丁道士。あんたがこいつに文を書いたのはなんでだ」
「ある者から水神の怒りを鎮めてくれと頼まれた。水神廟を荒らしたことが怒りの原因なら、そいつらを陥湖に連れていき、謝らせれば、怒りを鎮められるだろうと思った」
「そのある者ってのは……」
「便利屋は雇い主の素性を他人にべらべら言いふらすのか」
「なるほど。なら、もうひとつ。昨晩こいつの悪友の周仲宣がいなくなった。それってのはやっぱり……」
「さっきの状況を見るに、水神が連れていったんだろう」
簡潔な答えに、阿弓が、それに呂達や呂夫人が息を
「無事だと思うか」
英傑が問うと、かたわらの阿弓も耳をそばだてる。
洛宝は冷ややかにほほえんだ。
「さっきの怒りようを見ただろう。とっくに腹の中に収まっているかもな」
英傑はふっと笑った。
「なるほど。で、本当のところはどう思う?」
洛宝は英傑を鋭くにらみつけた。
「もし
これにあわてたのは呂達だった。
「待ってくれ。道士様は息子をどうする気だい? まさか水神様の供物に……」
「謝らせるとさっき言ったはずだ。なにを聞いていた!」
威圧された呂達は「ひっ」と魚の顔を両腕で隠す。英傑は首をかしげた。
「本当に謝るだけで祟りは鎮まると思うか? 屋根を吹っ飛ばすぐらい怒ってるのに」
知るか、とでも言われるかと思ったが、洛宝は思案げに目を細くした。
「依頼主は、謝ればきっと許してくれるはずだと言っていた。信じてもいいと思う。ただ、誠意をもって謝ることができなければ、むしろいっそうの怒りを招くだろうな」
英傑はちらりと阿弓を見やる。誠意を示すことは、簡単なようで難しい。
「水神様がこいつを供物として要求することはあると思うか」
「……ないとは言いきれない。だが──」
洛宝の黒い
それは不思議な視線だった。洛宝の目はたしかに阿弓に向いているが、阿弓ではなく、阿弓の頭上になにかを
「──死ぬようなことにはならない。多分」
妙な答えだ。英傑は
「どうする、阿弓。この道士様を信じて、陥湖に行ってみるか」
阿弓は震えあがってぶんぶんと首を横に振った。はっ、と洛宝が短く笑った。
「度胸試しがしたかったんだろう? よかったじゃないか。今まさに試せている」
「……ちなみになんだが、もし、このままなにもせずにいたらなにがどうなる?」
英傑が訊くと、洛宝は淡々として答えた。
「遠からず、龍渦城市は水底に沈むだろう」
「まさか──」
「本当だ。水神は前にもそれをやっている。さっき、そいつが言っていただろう、陥湖の底には大昔の城市が沈んでいると。……言い伝えによれば、以前にも四十日にわたって雨が降った。人々の顔が魚に見えてからしばらくして地盤沈下が起き、城市がまるごと水底に沈んだ。『陥湖』の名はその伝承にもとづいている」
絶句して呂達を振りかえると、呂達は知らないとばかりに首を横に振った。
「龍渦城市は生き残った人々の手で築かれた町だ。『龍渦』というのは、蛇の祟りを忘れぬようにとつけられた戒めの名だったようだが……長く時が経ちすぎた。戒めは忘れられ、おまえたちのような愚か者どもが現れるようになった」
「丁道士はその伝承をどこで聞いたんだ?」
「白淵山に
とんでもないことになった。英傑はどうしたものかと思案する。金さえ払ってくれれば、どんな仕事でもするのが便利屋だ。そこに正義感や情を差しはさむことはない。
だが、龍渦城市が水底に沈むとなると、さすがに見すごすわけにもいかない。
(翠姫や小成も
英傑は「よし」と手を
「こうしよう。阿弓は丁道士に従い、陥湖に行く。それに俺も同行する。もし、おまえの身に危険が及びそうになったら、俺が全力で助ける。てことでどうだ?」
呂達がぽかんとし、あわててかぶりを振った。
「阿弓になにかあったら困るよ、獅子屋さん! 阿弓は大事な跡継ぎなんだ。たったひとりの息子だ。獅子屋さんはともかく、この道士様に息子を託すなんて……」
「丁道士がなんだってんだ? 怪力乱神を相手どろうってんだ、俺よりよっぽど頼りになると思うんだがなあ」
「それは……だが、噂が……」
呂達はちらりと洛宝を見る。洛宝がにらみかえすと、急いで目をそむけた。
(そういえば、目が合うと死ぬ、っていう噂があるんだったか)
阿弓といい、呂達といい、先ほどからいっさい洛宝と目を合わせようとしないが、どうやらそれが理由のようだ。
これは説得に骨が折れるか。そう案じたときだった。
「どうぞ連れていってください、獅子屋さん」
階段に腰かけていた呂夫人が、固く
「な、なにを言ってるんだ、おまえ。阿弓が水神様に喰われでもしたらどうする!」
「たとえそうなっても、自分のしでかしたことは、自分でけりをつけなけりゃ」
阿弓もまた呆然と母親を振りかえった。
「なんでだよ、母さん。ひでえよ、俺が水神に喰われて死んでもいいってのかよ!」
「あたしはずっと信じてたんだ。あんたはひとさまには迷惑をかけてばかりだけど、友達のことは大切にする子だ、本当は情に厚い子なんだって。……まちがいだったよ」
仲宣が悪い、自分は悪くない──そう言ったことが、呂夫人の心を決したようだ。
阿弓が傷ついた顔をする。だが、呂夫人はとりあわずに英傑を見つめた。
「もし龍渦城市が水底に沈んだりしたら、たとえ今この子が助かっても、
呂夫人が頭を下げると、洛宝が短く息を吐いた。
「決まったな。すぐに出るぞ」
四
英傑は雨衣をはおり、阿弓にも同じ身支度をさせた。慣れない旅支度に手間どる阿弓の表情は暗く、いらだっているようだった。出立の準備が整うと、英傑は「そら」と阿弓の背を押した。阿弓は両親に
外に手持ち
え、と
「そういや翠姫が、
英傑がのんきに言うと、洛宝がさっと呂夫人を振りかえった。
「舟で出る。船着き場はどこだ」
「まさかこの雨の中、舟で行こうってのか? 白淵山は上流にあるんだぞ」
「べつに表から出てもいいが? そっちはそっちで血の雨が降りそうだが」
洛宝が皮肉げに笑った。反論の余地もない。
呂夫人の案内で
「便利屋、舟を
通路の壁に立てかけてある舟を洛宝が指さす。英傑は顔をひきつらせ、どうとでもなれと舟を持ちあげた。雨中に出て、濁流に舟を浮かべ、流されぬよう支える。洛宝が
洛宝はつづけて空をあおぎ見た。唇と舌、歯を使って、口笛とも吐息ともつかない不可思議な音を奏でる。透きとおった音は荒天を抜け、四方八方へと拡散していった。
しばらくして、舟のすぐそばの水面に、ひょこっとなにかが顔を出した。数匹の亀だ。だが、黒い甲羅から突きでていたのは鳥の頭だった。精怪だ。
「荒天のなか悪いな、
洛宝は表情をやわらげ、現れた精怪たちに丁寧に頼んだ。心なし声色まで優しい。
精怪たちは『引きうけた』と人語で答え、ぱっと濁流の中に頭をひっこめる。と、英傑が力をこめて
「さっさと乗れ、愚図」
今の優しい口調との差に面食らい、英傑は苦笑しつつ舟に飛びのった。
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