志怪一 陥湖の水神 ④
洛宝が舌打ちし、床を
だが、英傑も軽功の使い手だ。洛宝ほどの身軽さはないが、三度の跳躍で蛇だらけの食堂を突破し、二階へと駆けあがる。阿弓の部屋の前で気を失って倒れている呂達の横をすり抜け、英傑は室内に駆けこんだ。そして、
大蛇。いや、よく見ればそれは一匹の蛇ではなく、何百という蛇たちが互いを絡めあって作りだした姿だった。
『見つけたぞ、呂阿弓』
威厳ある声が発せられた。洛宝が「水神」と呟くのが聞こえた。直後、耳を
『この者を陥湖へ連れていく。邪魔する者は容赦せぬ』
「……っうわああ……!」
ふいに阿弓のそばでつむじ風が発生した。渦巻く風は悲鳴をあげる阿弓の体を牀から浮きあがらせ、一気に手の届かない高みにまで運んでいく。英傑は腰帯から引きぬいた
「水神相手に、縄一本で歯向かう気か。獅子だとかたいそうな名前をもらっておいて、知恵も、力もないようだな」
洛宝が
「悪かったな! 水神様の相手なんざしたことねえんだよ……おい!」
洛宝は英傑の手から縄をもぎとり、宙に放った。歯止めを失った阿弓の体はあっという間に上空へと持っていかれる。
「
洛宝は風にひるがえる袖の内から、黄色い霊符を取りだす。それを唇に
「
「顕現せよ。
洛宝が命じるとともに、陰陽の紋から、二本の角と翼を持つ黒虎が現れた。窮奇と呼ばれたその獣は、
『口惜しい──』
声が遠のく。洛宝は濡れた顔を空に向け、叫んだ。
「水神、今夜かならず呂阿弓を連れていく。それまで待て!」
答える声はなかったが、部屋の中で吹きあれていた風がふっと消失した。上空から悲鳴が落ちてきた。阿弓だ。英傑はぎょっとし、真っ逆さまに落下してきた阿弓を、その下に体を滑りこませるようにして抱きとめる。
「……っぶねー」
ひきつった笑いが漏れる。英傑は阿弓を起きあがらせ、雨天の下、立ちあがった。「生きてるかー?」と声をかけると、阿弓はようやく我にかえり、恐怖と
「呂阿弓、なぜ陥湖に来なかった。馬鹿をやらかしたおまえたちに罪滅ぼしの機会をくれてやったのに、便利屋を護衛に立てるとはどういう了見だ!」
洛宝と目が合った瞬間、阿弓は息を詰めて顔をそむけた。
「し、知らない。俺はなにも悪くねえ……っこっち見んなよ、百華道士!」
「ほう。よくも私を百華と呼んだな。目にもの見せてくれる!」
阿弓にすごむ洛宝を、英傑はしげしげと見つめた。
「なあ、道士。今の、本物の窮奇か? 窮奇って伝説上の神獣の名だろう?」
阿弓を助けるどころか、関係のないことを口にする英傑に、洛宝はそっけない。
「神仙でもないのに、神獣なんて呼べるものか。ただの幻術だ」
「へえ、本物にしか見えなかった! 感服したぞ、丁道士」
丁重に
「……なんの真似だ」
「いや、感謝を捧げなけりゃと思ってな。水神様を追いはらってくれて助かった」
「礼など不要だ。おまえたちのために追いはらったわけじゃない」
「そこなんだが、俺はあんたがこいつを水神様の供物にするために連れさろうとしているって聞かされてた。けど、水神はみずからこいつを迎えにきて、あんたはそれを追いはらい、かわりに、今夜、連れていくと約束した。いったいなにが起きてるんだ?」
「それをなぜおまえに話す必要がある」
「俺の仕事があんたを追いだすことだからだ。あくまでこいつを連れさる気なら、俺も俺の仕事をしなけりゃならなくなる。べつに俺はそれでもかまわんが、どうする?」
「ふん。腕に覚えがあるようだが、便利屋風情が私にかなうとでも? 今のを見てなおそう思うなら、おまえはよほどの馬鹿か、そうでなければ──」
言いかけた洛宝は悠然とかまえる英傑の立ち姿を見つめ、その
道士と武人という違いはある。だが、洛宝ほどの方術使いともなれば、相手の力量を読むことはたやすいだろう。そして、どうやら洛宝は、ただ立っていただけの英傑の力を高く見積もってくれたようだ。英傑はにこりと笑った。
「雨の中で立ち話ってのもなんだ、一階の食堂に移動しないか? 丁道士」
洛宝は目をすがめると、「案内しろ」ととげとげしく言った。
三
話の場を一階の食堂に移すと、気絶から目覚めた呂達が
洛宝はといえば壁に背を預け、いらだたしげな顔で腕組みをして立っていた。呂夫人が用意した
「丁道士。あんたもこっちに来て、火鉢で温まったらどうだ。熱い茶もあるし」
洛宝は「不要」と言ってそっぽを向く。無愛想な奴だ。
「さて、阿弓。今度こそなにがあったか話せ。黙ってたっていいことなんかねえぞ」
かたわらに座る阿弓に目をやり、熱々の茶をすする。冷えた体が一気に温まり、息をつく。英傑ののんきな様子を見て気が抜けたのか、阿弓は縮めていた肩から力を抜き、「こんなひどいことになるなんて思ってなかったんだ」と
「仲宣とふたりで、陥湖に行ったんだよ。そこに、古い水神
「ああ、待った。先に訊いておきたいんだが、その陥湖ってのは──」
無知め、と毒づいたのは、洛宝だった。英傑は肩をすくめる。
「そーそー。無知だから
洛宝はため息まじりに答えた。
「白淵山にある湖の名だ。水神の
厳しい目つきを向けられた阿弓はびくりと肩を震わせ、先をつづけた。
「陥湖に古い水神廟があるんだ。そこに祭壇があって、それを……荒らしたんだ。度胸試しのつもりで……水神の
「そんなことが度胸試しだってのか。くだらねえことをする」
「仲宣がやろうって言いだしたんだ! 俺は悪くない!」
荒い口調で阿弓が言うと、階段に座っていた呂夫人がわずかに顔を上げた。
「もともとは陥湖を見に行くだけのつもりだったんだ。湖の底に、大昔の城市が沈んでるって聞いて、面白そうだと思って。けど、行ってみたら霧が深くてなにも見えなかった。それで、仲宣の奴が、かわりに度胸試しをやろうぜって。それで祭壇を──」
荒らした直後、雨が降りだした。あわてて下山したが、それからも雨は降りつづけた。
尋常な雨ではないとすぐに気づいた。怖くなったが、「祟りなわけない」と自分に言い聞かせた。だが数日前、母親の顔が魚になっているのを目の当たりにし、
百華道士から文が届いたのは、そんな折だったという。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます