志怪一 陥湖の水神 ④

 洛宝が舌打ちし、床をって高々と飛びあがった。蛇の上空をひとまたぎにし、階段のさくに音もなく降りたつ。なんて身軽な。まるで風をまとったようだ。英傑が目を見張った一瞬の間に、洛宝はすばやく柵を駆けあがった。

 だが、英傑も軽功の使い手だ。洛宝ほどの身軽さはないが、三度の跳躍で蛇だらけの食堂を突破し、二階へと駆けあがる。阿弓の部屋の前で気を失って倒れている呂達の横をすり抜け、英傑は室内に駆けこんだ。そして、きようがくした。

 しようの上で震えて身を丸める阿弓のそばで、巨大な蛇が鎌首をもたげていた。

 大蛇。いや、よく見ればそれは一匹の蛇ではなく、何百という蛇たちが互いを絡めあって作りだした姿だった。

『見つけたぞ、呂阿弓』

 威厳ある声が発せられた。洛宝が「水神」と呟くのが聞こえた。直後、耳をろうする雷鳴とともに部屋の屋根が吹き飛んだ。屋根を失った室内に勢いよく雨が降りそそぐ。

『この者を陥湖へ連れていく。邪魔する者は容赦せぬ』

「……っうわああ……!」

 ふいに阿弓のそばでつむじ風が発生した。渦巻く風は悲鳴をあげる阿弓の体を牀から浮きあがらせ、一気に手の届かない高みにまで運んでいく。英傑は腰帯から引きぬいた重石おもしつきの縄をとうてきの勢いで空に放った。阿弓の足にくるくると絡まった縄を下に向けて引っ張るが、なぜかまったく下りてくる気配がない。それどころか、英傑の体までが床から浮きあがりそうになる。

「水神相手に、縄一本で歯向かう気か。獅子だとかたいそうな名前をもらっておいて、知恵も、力もないようだな」

 洛宝がちようしようを浮かべて近づいてくる。

「悪かったな! 水神様の相手なんざしたことねえんだよ……おい!」

 洛宝は英傑の手から縄をもぎとり、宙に放った。歯止めを失った阿弓の体はあっという間に上空へと持っていかれる。

えるしか能のない獅子は黙っていろ」

 洛宝は風にひるがえる袖の内から、黄色い霊符を取りだす。それを唇にむと、顔の前に印を結んだ。

きようが一、らうきゆう──きゆうきゆうによりつりようちよく

 せつ、洛宝の足元にあおい光で描かれた陰陽の紋が出現した。

「顕現せよ。きようしんの格を示し、じやせいにしかるべききようおくの心を与えよ」

 洛宝が命じるとともに、陰陽の紋から、二本の角と翼を持つ黒虎が現れた。窮奇と呼ばれたその獣は、くうを駆け、大蛇の首へと猛然と突進する。迫る窮奇を目の当たりにした蛇たちは、ばらばらと分離、落下し、四方八方へと一目散に逃げていった。

『口惜しい──』

 声が遠のく。洛宝は濡れた顔を空に向け、叫んだ。

「水神、今夜かならず呂阿弓を連れていく。それまで待て!」

 答える声はなかったが、部屋の中で吹きあれていた風がふっと消失した。上空から悲鳴が落ちてきた。阿弓だ。英傑はぎょっとし、真っ逆さまに落下してきた阿弓を、その下に体を滑りこませるようにして抱きとめる。

「……っぶねー」

 ひきつった笑いが漏れる。英傑は阿弓を起きあがらせ、雨天の下、立ちあがった。「生きてるかー?」と声をかけると、阿弓はようやく我にかえり、恐怖とあんの交じった声をあげた。その阿弓の胸倉を、洛宝が横から腕を伸ばして摑みあげた。

「呂阿弓、なぜ陥湖に来なかった。馬鹿をやらかしたおまえたちに罪滅ぼしの機会をくれてやったのに、便利屋を護衛に立てるとはどういう了見だ!」

 洛宝と目が合った瞬間、阿弓は息を詰めて顔をそむけた。

「し、知らない。俺はなにも悪くねえ……っこっち見んなよ、百華道士!」

「ほう。よくも私を百華と呼んだな。目にもの見せてくれる!」

 阿弓にすごむ洛宝を、英傑はしげしげと見つめた。

「なあ、道士。今の、本物の窮奇か? 窮奇って伝説上の神獣の名だろう?」

 阿弓を助けるどころか、関係のないことを口にする英傑に、洛宝はそっけない。

「神仙でもないのに、神獣なんて呼べるものか。ただの幻術だ」

「へえ、本物にしか見えなかった! 感服したぞ、丁道士」

 丁重にきようしゆささげると、洛宝は阿弓の胸倉から手を放し、戸惑いをあらわにした。

「……なんの真似だ」

「いや、感謝を捧げなけりゃと思ってな。水神様を追いはらってくれて助かった」

「礼など不要だ。おまえたちのために追いはらったわけじゃない」

「そこなんだが、俺はあんたがこいつを水神様の供物にするために連れさろうとしているって聞かされてた。けど、水神はみずからこいつを迎えにきて、あんたはそれを追いはらい、かわりに、今夜、連れていくと約束した。いったいなにが起きてるんだ?」

「それをなぜおまえに話す必要がある」

「俺の仕事があんたを追いだすことだからだ。あくまでこいつを連れさる気なら、俺も俺の仕事をしなけりゃならなくなる。べつに俺はそれでもかまわんが、どうする?」

「ふん。腕に覚えがあるようだが、便利屋風情が私にかなうとでも? 今のを見てなおそう思うなら、おまえはよほどの馬鹿か、そうでなければ──」

 言いかけた洛宝は悠然とかまえる英傑の立ち姿を見つめ、そのぼうをしかめた。

 道士と武人という違いはある。だが、洛宝ほどの方術使いともなれば、相手の力量を読むことはたやすいだろう。そして、どうやら洛宝は、ただ立っていただけの英傑の力を高く見積もってくれたようだ。英傑はにこりと笑った。

「雨の中で立ち話ってのもなんだ、一階の食堂に移動しないか? 丁道士」

 洛宝は目をすがめると、「案内しろ」ととげとげしく言った。



 話の場を一階の食堂に移すと、気絶から目覚めた呂達がつくえに座した英傑に茶をれてくれた。呂夫人は階段に腰をおろし、円い魚眼でぼんやりと足元を見つめている。

 洛宝はといえば壁に背を預け、いらだたしげな顔で腕組みをして立っていた。呂夫人が用意したしゆきんでおざなりに髪をぬぐっただけで、がいとうからはしずくがしたたっている。

「丁道士。あんたもこっちに来て、火鉢で温まったらどうだ。熱い茶もあるし」

 洛宝は「不要」と言ってそっぽを向く。無愛想な奴だ。

「さて、阿弓。今度こそなにがあったか話せ。黙ってたっていいことなんかねえぞ」

 かたわらに座る阿弓に目をやり、熱々の茶をすする。冷えた体が一気に温まり、息をつく。英傑ののんきな様子を見て気が抜けたのか、阿弓は縮めていた肩から力を抜き、「こんなひどいことになるなんて思ってなかったんだ」とつぶやいた。

「仲宣とふたりで、陥湖に行ったんだよ。そこに、古い水神びようがあって……」

「ああ、待った。先に訊いておきたいんだが、その陥湖ってのは──」

 無知め、と毒づいたのは、洛宝だった。英傑は肩をすくめる。

「そーそー。無知だからいてんだよ。で、陥湖ってのはなんなんだ?」

 洛宝はため息まじりに答えた。

「白淵山にある湖の名だ。水神のがそこにある。つづけろ、呂阿弓」

 厳しい目つきを向けられた阿弓はびくりと肩を震わせ、先をつづけた。

「陥湖に古い水神廟があるんだ。そこに祭壇があって、それを……荒らしたんだ。度胸試しのつもりで……水神のたたりなんか怖くないっていう……」

「そんなことが度胸試しだってのか。くだらねえことをする」

「仲宣がやろうって言いだしたんだ! 俺は悪くない!」

 荒い口調で阿弓が言うと、階段に座っていた呂夫人がわずかに顔を上げた。

「もともとは陥湖を見に行くだけのつもりだったんだ。湖の底に、大昔の城市が沈んでるって聞いて、面白そうだと思って。けど、行ってみたら霧が深くてなにも見えなかった。それで、仲宣の奴が、かわりに度胸試しをやろうぜって。それで祭壇を──」

 荒らした直後、雨が降りだした。あわてて下山したが、それからも雨は降りつづけた。

 尋常な雨ではないとすぐに気づいた。怖くなったが、「祟りなわけない」と自分に言い聞かせた。だが数日前、母親の顔が魚になっているのを目の当たりにし、ぼうぜんとした。さらには父親、城市の人々が次々と魚頭に変わり、大きな混乱が起こるにつれ、阿弓はこれが祟りであることを認めざるを得なくなった。

 百華道士から文が届いたのは、そんな折だったという。

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