志怪一 陥湖の水神 ③
「おまえなあ。親父さんにあの態度はないだろう。心配してくれてんだぞ」
「……んなの、わかってるよ」
英傑はやれやれとため息をついて、「開けるぞー」と声をかけた。阿弓は
「へえ。おまえの頭は魚じゃないんだな、阿弓」
「大哥も……まだ魚顔じゃないんだ」
阿弓は人間の顔をしていた。子供と大人の境にある未成熟の顔だ。いつもは生意気な面構えの阿弓だが、今は不安げに瞳を揺らし、顔色も青ざめて見えた。
「旅から戻ってきたばかりでな。俺もそのうち魚になるって言われたが……阿弓はなんで人間の顔のままなんだ? 俺が会った城市の連中はみんな魚頭になってたぞ」
阿弓は動揺したように「知らねえ」と目をそむける。
「なにをやらかしたら、水神様の供物に選ばれるようなことになるんだ。百華道士ってのはたいそうな美人らしいが、なんかちょっかいでもかけたんじゃねえのか」
「なにもしてねえ。目が合うと死ぬなんて化け物、誰が好んで近づくもんか!」
阿弓が怯えた様子で言った。本気で噂を信じて百華道士のことを怖がっているようなので、英傑はすこし驚く。
「なら、水神様のほうはどうだ。いま起きてることは、水神様の祟りだって話だ。阿弓、なにか水神様を怒らせるようなことはしなかったか」
「……してねえ」
ひとつ前の問いかけに比して、こちらはずいぶん力ない。
なにかやったな、と察する。少なくとも心当たりがあるのだ。英傑は詳しく訊きだそうとするが、あの手この手を使っても、阿弓はなにも語ろうとはしなかった。
(ま、知らなくても、仕事はできるか)
ともかく百華道士の「魔の手」から阿弓を守りさえすれば、報酬はもらえるのだ。英傑はひとまず百華道士の「襲来」にそなえて、見張るのに都合のいい場所を見つけることにし、牀から立ちあがった──そのときだ。
「昨日の夜、仲宣の奴がいなくなったんだ」
だんまりを決めこんでいた阿弓が口を開いた。英傑は振りかえる。
「仲宣ってのは、
「そう」とうなずき、阿弓は抱えた膝に顔をうずめる。「仲宣の親父さんが捜しまわってる。増水した川に吞まれちまったんじゃないかって心配してるって。でも、そうじゃない。仲宣は百華道士にさらわれたんだ。仲宣も百華道士から文を受けとってたから」
英傑は
「きっと水神の供物にされたんだ。今ごろとっくに死んでる。……俺もすぐそうなる」
「なんだよ、ずいぶん悲観的なことを言うな。ともかく、今晩のところは俺が寝ずの番をしてやるから、おまえは安心して寝てろ」
声をかけて背を向けると、疲れきった
「〈
英傑は一瞬、足を止めかけ、ふたたび歩きだした。
夜になって強まりはじめた風雨が容赦なく暴れまわる。宿では、阿弓の部屋の前に座りこんだ呂達が棒を抱いたままいびきをかいていた。あれでは番をする意味がないが、あんなに邪険にされても子を守ろうとする親心には頭が下がる。
一方の英傑はわずかな眠気も感じぬまま、二階の窓辺に座り、通りを見下ろしていた。
(皮肉なもんだな。〈眠らずの獅子〉なんて呼ばれるようになろうとは)
旅の護衛の仕事は、昼は客と行動をともにするが、夜は自由な時間となる。だが、一年前に護衛を依頼してきた客が、「夜も見張りを頼みたい」とごねてきた。その客が、帰郷後に「獅子屋は何日も一睡もせずに見張りをしてくれた」と広めたせいで、〈眠らずの獅子〉が定着してしまったのだ。
(これじゃ、俺がたいそう仕事熱心な男のようだ)
事実はまるきり違うというのに──。
そろそろ
ふと、英傑は目を開けた。今、鈴の音が聞こえた気がした。
音のほうに目をやると、闇の先、雨の幕の向こうに
(あれは……幽鬼か? いや……)
よく見ればそれは手持ち
細身の人物だ。肩幅からして男。
鈴は鳴れども、足音はいっさいしない。流れるような足どりで、こちらへと近づいてくる。やがて男は英傑の眼下、宿の扉の前で立ち止まった。
(さて。その
英傑はほほえみ、大剣の
「あいにく今夜は休業だぞ。人さらいの
鈴が鳴り、傘が傾く。
その瞬間、英傑は笑みを消した。息をすることも忘れ、その
男はまさに牡丹を体現したような美貌の持ち主だった。なめらかな
だが、英傑が目を奪われたのは、その面貌のためではなかった。
目だ。こちらを
(怯む? なぜこの俺が──)
英傑は目をそむけることもできずに
「そこのおまえ。今、私を人さらいの悪辣な道士と言ったか」
男が声をかけてくる。涼やかな声だ。英傑は動揺を隠し、無理やり笑みを作った。
「あんた、百華道士だろ? お噂はかねがね。まさに牡丹のような美しさだな」
ふいに道士の目つきが鋭さを帯びた。
「次に私を百華と呼んでみろ。貴様の額に『馬鹿』の二文字を刻んでくれる」
面食らう。華麗な美貌からは想像もつかないほどの悪態だ。
英傑はにやりと笑って、欄干を
「俺の名は、劉英傑。便利屋だ。ひと呼んで、獅子屋だ。あんたの名は? 百華道士って呼ばれたくないなら教えてくれ」
「
思いがけずあっさりと名乗るが、それはさっさと会話を切りたいがためだったようだ。洛宝は英傑の脇を素通りし、軒下に入るなり傘と灯籠を捨て、宿の扉に腕を伸ばした。
英傑は「おっと」と体を割りこませ、洛宝の行く手に立ちふさがった。
「ガキに脅迫状なんて物騒なもんをよこす道士様を通すわけにはいかねえなあ」
「そんなものは書いていない。ただ『
険のある口調だ。顔だちが美しいだけに、冷たさがきわだつ。
「陥湖?」と唐突に出てきた名に困惑すると、洛宝がさらに目を鋭くした。
「そこをどけ。無知
無知蒙昧なごみくずときたか。英傑が思わず笑ったそのときだった。宿の中で悲鳴があがった。呂夫人の声だ。
洛宝が英傑を押しのけ、扉に手をかけた。「待て」とその肩を摑んで止めるが、そもそも
英傑は驚くが、扉の先、食堂の床を見てさらに仰天した。
蛇がいた。足の踏み場もないほど大量の蛇が、床を埋めつくしている。
「し、獅子屋さん、あ、あっち。船着き場から、は、入ってきて」
帳場の脇で、呂夫人が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます