志怪一 陥湖の水神 ③

「おまえなあ。親父さんにあの態度はないだろう。心配してくれてんだぞ」

「……んなの、わかってるよ」

 英傑はやれやれとため息をついて、「開けるぞー」と声をかけた。阿弓はしようの上にひざを抱えて座っていた。明かりもなく、窓も閉ざされ、ひどく暗い。英傑は牀のふちに腰をおろし、顔を上げた阿弓とまじまじと視線をかわした。

「へえ。おまえの頭は魚じゃないんだな、阿弓」

「大哥も……まだ魚顔じゃないんだ」

 阿弓は人間の顔をしていた。子供と大人の境にある未成熟の顔だ。いつもは生意気な面構えの阿弓だが、今は不安げに瞳を揺らし、顔色も青ざめて見えた。

「旅から戻ってきたばかりでな。俺もそのうち魚になるって言われたが……阿弓はなんで人間の顔のままなんだ? 俺が会った城市の連中はみんな魚頭になってたぞ」

 阿弓は動揺したように「知らねえ」と目をそむける。

「なにをやらかしたら、水神様の供物に選ばれるようなことになるんだ。百華道士ってのはたいそうな美人らしいが、なんかちょっかいでもかけたんじゃねえのか」

「なにもしてねえ。目が合うと死ぬなんて化け物、誰が好んで近づくもんか!」

 阿弓が怯えた様子で言った。本気で噂を信じて百華道士のことを怖がっているようなので、英傑はすこし驚く。

「なら、水神様のほうはどうだ。いま起きてることは、水神様の祟りだって話だ。阿弓、なにか水神様を怒らせるようなことはしなかったか」

「……してねえ」

 ひとつ前の問いかけに比して、こちらはずいぶん力ない。

 なにかやったな、と察する。少なくとも心当たりがあるのだ。英傑は詳しく訊きだそうとするが、あの手この手を使っても、阿弓はなにも語ろうとはしなかった。

(ま、知らなくても、仕事はできるか)

 ともかく百華道士の「魔の手」から阿弓を守りさえすれば、報酬はもらえるのだ。英傑はひとまず百華道士の「襲来」にそなえて、見張るのに都合のいい場所を見つけることにし、牀から立ちあがった──そのときだ。

「昨日の夜、仲宣の奴がいなくなったんだ」

 だんまりを決めこんでいた阿弓が口を開いた。英傑は振りかえる。

「仲宣ってのは、しゆうさんのところのせがれか。おまえの悪友だったよな」

「そう」とうなずき、阿弓は抱えた膝に顔をうずめる。「仲宣の親父さんが捜しまわってる。増水した川に吞まれちまったんじゃないかって心配してるって。でも、そうじゃない。仲宣は百華道士にさらわれたんだ。仲宣も百華道士から文を受けとってたから」

 英傑はまゆをひそめる。阿弓は身を小さくした。

「きっと水神の供物にされたんだ。今ごろとっくに死んでる。……俺もすぐそうなる」

「なんだよ、ずいぶん悲観的なことを言うな。ともかく、今晩のところは俺が寝ずの番をしてやるから、おまえは安心して寝てろ」

 声をかけて背を向けると、疲れきったつぶやきがあとを追ってきた。

「〈ねむらずの〉が守ってくれるなら、うん、ちょっとは眠れるかも……」

 英傑は一瞬、足を止めかけ、ふたたび歩きだした。


 夜になって強まりはじめた風雨が容赦なく暴れまわる。宿では、阿弓の部屋の前に座りこんだ呂達が棒を抱いたままいびきをかいていた。あれでは番をする意味がないが、あんなに邪険にされても子を守ろうとする親心には頭が下がる。

 一方の英傑はわずかな眠気も感じぬまま、二階の窓辺に座り、通りを見下ろしていた。

(皮肉なもんだな。〈眠らずの獅子〉なんて呼ばれるようになろうとは)

 旅の護衛の仕事は、昼は客と行動をともにするが、夜は自由な時間となる。だが、一年前に護衛を依頼してきた客が、「夜も見張りを頼みたい」とごねてきた。その客が、帰郷後に「獅子屋は何日も一睡もせずに見張りをしてくれた」と広めたせいで、〈眠らずの獅子〉が定着してしまったのだ。

(これじゃ、俺がたいそう仕事熱心な男のようだ)

 事実はまるきり違うというのに──。

 そろそろうしの刻だ。百華道士はいまだ姿を見せないが、来るとしたら間もなくだろうと当たりをつける。目を閉じ、聴覚だけに意識を集中させる。雨音。水路の濁流がたてるごうおん。風。遠雷──すべての音を、注意すべきものと、そうでないものとに分ける。

 ふと、英傑は目を開けた。今、鈴の音が聞こえた気がした。

 音のほうに目をやると、闇の先、雨の幕の向こうにだいだいいろに光る人影がぼうっと現れた。

(あれは……幽鬼か? いや……)

 よく見ればそれは手持ちどうろうを持った人間だった。傘を差している。鈴は傘の骨の先にるした飾り布につけられたもののようで、風が吹くたびチリンッと音をたてる。

 細身の人物だ。肩幅からして男。おん色の縁取りがされた白いほうをまとい、毛皮の襟がついたがいとうを軽くはおっている。全身が淡く輝いて見えたのは、衣の白が灯籠の光を照りかえしていたからのようだ。

 鈴は鳴れども、足音はいっさいしない。流れるような足どりで、こちらへと近づいてくる。やがて男は英傑の眼下、宿の扉の前で立ち止まった。

(さて。そのたんのかんばせ、拝んでやるとするか)

 英傑はほほえみ、大剣のつかに手をかけながら口を開いた。

「あいにく今夜は休業だぞ。人さらいのあくらつな道士様がやってくるって言うんでね」

 鈴が鳴り、傘が傾く。あましずくを垂らした飾り布の隙間から切れ長のひとみがのぞき、まっすぐ英傑をとらえる。

 その瞬間、英傑は笑みを消した。息をすることも忘れ、そのぼうに魅入られる。

 男はまさに牡丹を体現したような美貌の持ち主だった。なめらかなはくせきの肌、腰まである髪は闇よりもなお黒い。通った鼻筋、薄紅色の唇、長いまつは雨粒でれている。仙女にたとえられるのも納得の美しさだ。

 だが、英傑が目を奪われたのは、その面貌のためではなかった。

 目だ。こちらをいた男の瞳には、きだしの生命力とでも言うべき力強さが宿っていた。圧倒的な存在感を前に、自分がひるんでいるのがわかる。

(怯む? なぜこの俺が──)

 英傑は目をそむけることもできずにぼうぜんとする。

「そこのおまえ。今、私を人さらいの悪辣な道士と言ったか」

 男が声をかけてくる。涼やかな声だ。英傑は動揺を隠し、無理やり笑みを作った。

「あんた、百華道士だろ? お噂はかねがね。まさに牡丹のような美しさだな」

 ふいに道士の目つきが鋭さを帯びた。

「次に私を百華と呼んでみろ。貴様の額に『馬鹿』の二文字を刻んでくれる」

 面食らう。華麗な美貌からは想像もつかないほどの悪態だ。

 英傑はにやりと笑って、欄干をつかんで雨中に飛びおりた。体格に似合わぬ軽やかさで眼前に着地した英傑を見て、道士がわずかに身を引く。

「俺の名は、劉英傑。便利屋だ。ひと呼んで、獅子屋だ。あんたの名は? 百華道士って呼ばれたくないなら教えてくれ」

てい洛宝」

 思いがけずあっさりと名乗るが、それはさっさと会話を切りたいがためだったようだ。洛宝は英傑の脇を素通りし、軒下に入るなり傘と灯籠を捨て、宿の扉に腕を伸ばした。

 英傑は「おっと」と体を割りこませ、洛宝の行く手に立ちふさがった。

「ガキに脅迫状なんて物騒なもんをよこす道士様を通すわけにはいかねえなあ」

「そんなものは書いていない。ただ『かんに来い』と記しただけだ。なのに、あいつらは約束の日になっても来なかった。だから迎えにきた。それだけだ」

 険のある口調だ。顔だちが美しいだけに、冷たさがきわだつ。

「陥湖?」と唐突に出てきた名に困惑すると、洛宝がさらに目を鋭くした。

「そこをどけ。無知もうまいなごみくずに用はない」

 無知蒙昧なごみくずときたか。英傑が思わず笑ったそのときだった。宿の中で悲鳴があがった。呂夫人の声だ。

 洛宝が英傑を押しのけ、扉に手をかけた。「待て」とその肩を摑んで止めるが、そもそもかんぬきがかかっている。しかし、洛宝が「かい」とささやくと、扉はあっさりと内側に開いた。

 英傑は驚くが、扉の先、食堂の床を見てさらに仰天した。

 蛇がいた。足の踏み場もないほど大量の蛇が、床を埋めつくしている。

「し、獅子屋さん、あ、あっち。船着き場から、は、入ってきて」

 帳場の脇で、呂夫人がくりやの奥を指さしていた。船着き場。水路から入りこんだか。言うそばから次々と新たな蛇が現れる。呂夫人には見向きもせずに向かう先は階段の上だ。

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