志怪一 陥湖の水神 ②

 龍渦城市の土地神は水神だ。翠尾江のほとりには立派な水神びようがあり、祭壇には想像上の姿が描かれている。二本の角を持つ大蛇である。

 どんな言い伝えがあるかまでは知らないが、たしか人をらう神であったはずだ。

「俺は龍渦城市に来てまだ三年だからな。水神様についちゃ、おまえのほうが詳しいだろ。それに、祟りは道士とかしやの領分だ。たかが便利屋にはさっぱりだよ」

 小成は「道士様……」と呟き、前掛けをぎゅっと握りしめた。

「なら、やっぱりきゆうちゆうせんがなにかしたんだ。でなけりゃ、ひやつ道士が仲宣をさらうはずがないんだから。きっとあいつらが水神様を怒らせるような真似をしたんだよ」

「百華道士?」と英傑が首をかしげたそのときだ。

「小成! あんた、その話をよそでしたら、ただじゃおかないよ!」

 突然、鋭さ抜群の声が飛んできて、小成は首をすくめた。あわてて去る小成と入れかわりにやってきたのは、ふくよかな体に豪勢な深緑色のじゆくんをまとった金魚頭の女だ。

 さいこうりん。明洙楼の女主人にして、英傑はじめ便利屋たちを取りしきる元締めである。

「翠姫も客がいないからって、貧乏人を相手にしてんじゃないよ」

 翠姫は「はいっ」と大あわてで隣の席に転がりこみ、ぴちっと正座をした。紅倫は鼻を鳴らし、英傑と几を挟んだ向かいにどっかりとかたひざを立てて座った。

「そら、英傑。今回の旅の護衛の報酬だ。受けとりな」

 ぽいっと放られた布袋をつかみ、急いで中のしゆせんの枚数をたしかめた。

「ありがたい。これでしばらくは生きてける」

 便利屋の給金などたかが知れているが、当面は飯代に困ることはなさそうだ。

「しかし、あんたも豪気な女だな。こんなわけのわからねえ怪異のさなかに、しっかり店を開けるとは。ほかの酒楼はみんな閉じてたぞ」

「一軒ぐらい普段どおりに開いてる店があったほうが、みんなも落ちつくだろうさ。それに、うちには逃げる先のない妓女もいる。居場所は与えてやらないと。……で、そういうあんたも家を流されちまったわけだが、これからどうする気だい」

「それなんだが、家どころか全財産の入ったつぼも一緒に流されちまったみたいで。すぐ次の仕事をもらえたらうれしいが……この状況じゃ、さすがにないよなあ」

「いや、あるよ。さっき小成がポロッと口にしちまったやつがね。──あんた、百華道士のことは知ってるね?」

 英傑が答えるよりもはやく、翠姫が「あの仕事受けさせるの!?」とぎょっとした。

 道士とは、道教に属し、不老不死の神仙になるべく修行に励む者たちのことだ。方術、または神仙術と呼ばれる神秘の力を操り、祟りを起こす悪神邪鬼を調伏したり、身近なところでは、死者を弔うさいをとりおこなってくれたりする。

「知らねえな。聞いたことはある気がするんだが。有名人か?」

「え、知らないのかい。『そのかんばせ、たんのごとく』とまで言われた百華道士を?」

「なんだその通り名は。……牡丹のかんばせってことは、美人なのか」

「ああ、そりゃもう、すごみを感じるぐらいの絶世の美男子さ!」

 春のどけきころに咲く牡丹は、花の王者──百華の王と呼ばれている。

 紅紫色の大輪の花は、豪華にして繊細、れんにしてようえん。富貴を象徴する吉兆の花としても知られ、人々からこよなく愛されていた。だが、英傑は苦笑した。

「そりゃたいそうな話だな。けど、いくら美人でも男じゃなあ」

「ふん。あんただって、会えば『男でもいい』って思うだろうさ。白い肌は仙女のようになめらかで、切れ長のひとみは腰に来るほどあでやかだ。歳はあんたよりいくつか下かね」

 英傑は二十八だ。ということは、二十代の半ばか。

「背丈はあんたとそう変わらないかね。けど、あんたみたいに筋肉質じゃなくてさ。きやしやってわけでもないんだけど、細腰がなんともなまめかしくてねえ……」

「でも、性格は最悪よ」と翠姫がねた口調で言った。

「めったに山から下りてこないんだけど、たまたま市場で会ったのよ。みんな遠巻きにしてるから、声をかけてあげたの。そしたら、なんて言ったと思う? 話しかけるな、有象無象が、ですって。冗談じゃないわよ!」

 英傑は噴きだした。明洙楼きっての美女を有象無象扱いする男がいるとは驚きだ。それとも「美人は鏡で見慣れてる」などと言いだす自己陶酔野郎か。

「めったに山から下りてこないってことは、つまり……」

「ああ。白淵山の山奥で暮らしてるんだよ」と紅倫。「けど、神仙じゃない。まだ道士だ。山奥で暮らしてるのは修行のためってのもあるんだろうけど、そりゃもう大がつくほどの人間嫌いなんだよ。だから、めったなことじゃふもとまでは下りてこない」

「物騒な噂も多いの。美容のためにさらった赤子を食べてるとか。人喰いの精怪を家来にして、許しなく山に入った人間を喰わせてるとか。きわめつきは、目が合うと死ぬ」

 英傑は失笑し、空になった杯に酒をそそいだ。

「目が合うと死ぬ、ね。そこまでいくと化け物だな」

「仕事を受けるなら気をつけなさいよね。噂はともかく、性格悪いのはたしかだから」

「肝に銘じておくよ。で、その麗しの牡丹の君がなんだって?」

 話を戻すと、紅倫が魚の顔にほおづえをついた。

「その百華道士の魔の手から、りよたつの家の子供を守ってほしいんだよ。百華道士にさらわれる、水神の供物にされる、っておびえてるんだとさ」



 依頼主である呂達が経営する宿は、西の水路沿いにあった。龍渦城市では一般的な宿で、水路に面して船着き場があり、直接、舟客を迎えられるようになっている。

 傘を閉じ、宿の正面に立った英傑は、扉の横壁に貼られた門神の護符を見つめた。

 紅倫から「守れ」と言われた子供の名は、呂阿弓。宿の亭主、呂達のひとり息子だ。阿弓のことはよく知っていた。年齢は十五ほど。普通なら家業を手伝う年ごろだが、阿弓は悪友とつるんでつまらない悪さばかりしていた。龍渦城市の暮らしぶりは比較的豊かで、すこし裕福な家の子だと甘ったれて育つ。英傑も何度か、悪さをしている阿弓たちを捕まえ、きゆうをすえたこともあったが、それで反省するほど可愛いものではない。

 その阿弓が、今朝突然、そうはくになって呂達に訴えたという。

 ──百華道士が俺をさらいにくる。水神の供物にされちまう。

 詳しい経緯は、呂達に訊けとのことだった。

 英傑は扉を軽く叩いた。

「呂さん、便利屋の劉英傑だ。話を訊きにき──おっ!?」

 扉がいきなり開かれ、誰かが突進してきた。とっさに右によけた英傑だが、それがかつこうからして呂達らしいことに気づくと、その肥えた腹をぐっと左腕で抱きとめた。

「おいおい、大丈夫かー?」

 呂達が魚となった顔を勢いよく上げた。

「よかった。蔡さんからちっとも連絡がないから、見捨てられたかと思ってたよ。しかも来てくれたのが、阿弓が大哥と呼び慕ってる獅子屋さんとは。さあ、はやく中へ。戸締りをしっかりしないと!」

 呂達は周りの様子をたしかめてから、英傑を招き入れ、扉を閉ざしてかんぬきをした。

 室内は暗かった。燭台に火はともっているが弱々しい。入ってすぐの間は食堂として使われているようだが、今は客の姿はない。

 と、帳場の奥から呂達の女房、呂夫人らしき人物が現れた。その顔もやはり魚だ。

「おまえ、獅子屋さんに熱い茶を用意してやりなさい。さあ、獅子屋さんは二階へ」

 呂夫人はひっそりとうなずくと、奥のくりやへと消えていった。

「数日前、阿弓のもとに百華道士から文が届いたんだ。中身は見せてくれないんだが、『水神のたたりを鎮めるため、おまえを供物としてささげる』と書かれていたらしい」

 帳場の脇から延びる階段をのぼりながらの呂達の説明に、英傑は首をひねった。

「なんで道士様はわざわざ阿弓を名指しで供物に選んだんだ?」

「さあ。ともかく怯えてて、なにを訊いても答えてくれないんだ。かわいそうに」

 廊下の最奥にある部屋にたどりつく。閉じた扉の前には敷物が敷かれ、壁には棒が立てかけてあった。さっきまで呂達がここで息子を守る番をしていたようだ。

「阿弓、獅子屋さんが来てくれたよ」

 呂達が声をかけると、扉の向こうで、阿弓が「大哥あにき?」と息をむのが聞こえた。

「今晩は、ふたりでおまえを守るからね。ゆっくりおやすみ」

「親父は邪魔だから下に行ってろ! 母さんに言って、大哥の飯を用意させろよ!」

「わ、わかった。なら、母さんにそう言ってこよう。頼んだよ、獅子屋さん」

 いそいそと一階に向かう亭主の背をなんとも言えずに見送り、英傑は扉の前に立った。

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