志怪一 陥湖の水神 ①



 けん帝国の南の辺地にあるはくえんさんは、神仙が住む山だと言われている。

 たちこめる霧の先に、桃花咲くせんがあり、不老不死の仙人や仙女たちが死におびえぬ暮らしを送っているという。

 一方、ひといの精怪がむ魔境だと言う者もある。立ち入ったが最後、虎に似た姿の化け物に頭から喰われてしまうのだ、と。


 そのふもとにあるりゆう城市は交易で栄えた水郷だ。緑の水をたたえたすいこうには、あさもやも晴れぬうちから多くの舟が行きかい、荷をおろしては積み、旅人を乗せては去っていく。朗々たる船頭の歌声とともに、舟が太鼓橋をくぐりぬけるさまは、しゆう一の勝景としても知られ、人々は龍渦城市を皇都・きんけいをしのぐ美しさと誇りに思っていた。

 そんな龍渦城市の玄関口であるはいろうの軒下で、えいけつはあっけにとられて足を止めた。

「こりゃ、いったいなにごとだ?」

 せいかんな顔つきの男だ。りんとしたまゆに、高いりよう。砂色の髪を無造作に肩口でくくっている。小柄な者が多い龍渦城市では、きわめて目立つ長身だ。くたびれた旅装をまとった体はたくましく、いかにも武人という風情だ。だが、たたずむ姿はゆったりとし、まなしには鋭いところがなく、唇にはなにごとも面白がるような笑みが浮かんでいる。

 姓はりゆう、名は英傑。ここら一帯を縄張りとする便利屋で、通り名を「」という。獅子を冠したその名は、腰にいた大剣〈けん〉に由来している。

 その英傑がいる牌楼を境に、天気が二分していた。背にした街道には、早春の日差しが照りつけている。地面は乾き、少なくとも直近の数日は雨に降られた様子がない。ところが、牌楼の先、城市の内側は、うってかわって土砂降りの雨だった。

 晴雨の境目だろうか。しかしまた、ずいぶんくっきりと。不思議に思って、雨の中へと腕を伸ばすが、大粒の雨に打たれた瞬間、びくりとしてひっこめる。

(なんてまがまがしい雨だ)

 腕に鳥肌が立っている。雨粒にしようでも含まれているのだろうか。ともかく尋常な雨ではなさそうだ。英傑は背負っていた荷から防寒用のがいとうを取りだし、羽織った。外套についているきんをかぶり、龍渦城市へと足を踏み入れる。

 雨に打たれて白く煙る石畳の道を慎重に歩く。吐きだした息が白い。城市の外は春の陽気だというのに、内はまるで真冬の寒さだ。濁流の流れる水路には当然ながら舟の往来はなく、固く門扉を閉ざした家々にも人の気配が感じられない。

 水路に沿って延びる屋根付きのちようろうに入ったところで、英傑は頭巾を取りはらった。

 と、前から人が来るのが見えた。先ほどまでの英傑と同様に深々と頭巾をかぶり、一輪車を押している。無言ですれちがいかけたとき、ふと、相手が顔を上げた。

「ああ、獅子屋か。あんた、帰ってきたのかい」

 聞きおぼえのある声だ。英傑は相好を崩した。

「なんだ、えんさんか。ただいま。なんか面白いことになってんなあ」

「なにをのんきなことを。悪いことは言わねえ、あんたもはやく逃げな」

 逃げる? 英傑は首をかしげ、眉をひそめた。

 男の姿にはどこか違和感があった。なにがおかしいのか──そう、頭だ。頭をすっぽり覆った頭巾の形がおかしい。丸い頭部を覆っているにしては、そのふくらみは妙に細く、また前後に長く、どことなしにいびつだった。

 怪訝に思い、頭巾の下をのぞきこんだ英傑は息をんだ。

「……おい、袁さん。その顔、いったいなんの冗談だ」

 男は深々と嘆息し、重苦しい仕草で頭巾を頭から取りさった。

 そこにあったのは「魚」だった。体は人間のものだが、頭があるはずの場所に黒いうろこをした大きな魚がのっている。こつけいな姿だ。だが、笑えない。かぶりものかとも思うが、真正面から見た魚の身幅の狭さからして、この下に人間の顔が収まっているとは到底思えなかった。なにより、ぬめりを帯びた真円の魚眼があまりに生々しい。

「言っとくが、かぶりもんじゃない。本物の魚だ。今朝、いきなり頭が魚に変わっちまったんだ。……水神様のたたりって話だ」

 魚の口をぱくぱくさせて悔しげに言うと、男は頭巾をかぶりなおした。

「安心しな。城市の外に出れば、もとに戻る。みんなそうなんだ。……誰が水神様を怒らせたのか知らねえが、龍渦城市はもう終わりだよ」

 力なく言って、男はまた一輪車を押して歩きだすが、ふいにその足を止める。

「ああ、そうだ。獅子屋の家、大変なことになってるよ。もう三日前になるか、濁流に吞まれて、家がまるっとなくなっちまった。気の毒にな」

 英傑は「え!?」と目を丸くすると、男に礼を言って、薄暗い長廊を駆けだした。

 道すがら、何人もの人とすれちがった。多くは頭巾で顔を隠していたが、顔をあらわにしていた数人はみな魚頭だった。荷を背負い、魚頭の赤子を抱き、城市の外を目指している。誰もがいんうつにうなだれ、疲れきった様子だった。

(水神の祟りだって? なにがどうなってやがる)

 やがて自宅のある川辺にたどりついた英傑は「噓だろ」とつぶやいた。男の言うとおり、見慣れたあばら家は、建っていたはずの地面ごと濁流にえぐりとられてしまっていた。


 朱色の柱が鮮やかな酒楼〈めいしゆろう〉の二階、窓ぎわの席にあぐらをかき、英傑は改めて嘆息した。

「災難だったわね、英傑。体もすっかり冷えちゃって、かわいそう」

 背後に座り、英傑のれた髪をしゆきんでぬぐっていたじよが言う。英傑は「だろー?」と言って、妓女に顔を向け、大きな魚眼と目が合った瞬間、つい口端をひきつらせた。

 妓女はエラぶたをぱかぱかと開閉しながら憤慨した。

「なによ! 魚の顔になっちゃって、あたしだってつらいわよ。そんな顔しなくていいじゃない。ひとりだけ人間の顔のままで憎たらしい!」

 英傑は苦笑した。暗い面持ちで逃げる人々を見てきただけに、妓女の元気な口調にはほっとさせられる。

「いや、すいは魚になっても愛らしいなと思っただけだ。薄紅色の鱗なんて、まるで天女さまの爪みたいじゃねえか」

 翠姫は「もう」と言いつつ機嫌をなおし、英傑の背にしなだれかかった。

「ありがと。でも言っとくけど、英傑も数日もしたら魚の顔になるわよ。この雨に打たれると、だんだんそうなってくの」

「……いったいなにがあった? 明洙楼だって、まるで俺の貸し切りじゃねえか」

 平素なら華やかなにぎわいの中にある明洙楼が、今は英傑のほかに客がいない。十人ばかりいる妓女も、翠姫以外は姿が見えず、寒々としている。

「わからないのよ。はじめにおかしいなと思ったのは、雨。もう四十日も降ってるの。春先はもともと雨が多いけど、さすがに降りすぎだわ。それに城市の外は晴れてたでしょう? 降ってるのは城市の中と白淵山だけなのよ。土手が決壊したとこもあるし」

「顔が魚になっちまったのは?」

「私は今朝起きたらこうなってた。早いひとは数日前から。……次々と魚の顔になるひとが増えて、ひどい混乱状態だったわ。城郭の外に出れば人間の顔に戻るってわかってからは落ちついたけどね。でも、ぴりぴりしてる人は今も多い。水神様の祟りだ、誰が怒らせたんだって、元凶を探して騒いでる人たちもいる。すごくいやな雰囲気……」

「水神様の祟り、か。……おっと、これを待ってた」

 給仕の少年がつくえさかがめと杯とを置いてくれる。そそがれたのはとろりとしただくしゆだ。ぐっとあおると、熱の塊がのどを抜け、冷えきった体がカッと熱くなった。「うめーっ」とえる英傑に、翠姫が「うらやましい」と息をついた。

「英傑のその、家をなくしても笑ってられる大らかなとこ、見習いたい」

 言いながら、英傑の腕に抱きついてくる。その手は冷たく、かすかに震えてもいた。魚顔のせいで表情が読めなかったが、どうやら思っている以上に怯えているようだ。

「くよくよしたってしかたないだろ? 流されたもんは供物にしたとでも思っとくさ」

 翠姫の手を軽くたたき、英傑は盆を抱いたまま立ちつくしている給仕の少年を見上げた。

「おまえまでどうしたよ、しようせい。ずいぶんおとなしいじゃねえか」

 小成はやはり魚になった顔をわずかに上げ、ぱくぱくと口を開いた。

「……大哥あにき。水神様の祟りって本当にあると思いますか?」

 英傑は杯を傾け、「そうさなあ……」と天井を見上げる。

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