一〇月中旬。転居して半年が過ぎた。これまで部屋に蠅一匹いなかったのに、昨日か一昨日か、小説の執筆中、いきなりオデの周りに蠅が飛び込んできて、創作執筆の邪魔をする。

 季節外れの蠅は強力だ。視覚的にも聴覚的にもオデの集中力を阻害し、つまり蠅はオデの顔の前や首や頭の周りをぐるぐる飛んで、書き続けることができない。

 コンビニやスーパーで殺虫剤や蠅たたきを買ってこようにも、今月は金がない。窓を開けると寒いし近所がうるさい。寝室にパソコンがあるから、他の部屋に誘導してこじ込めてやろうと一瞬思ったが、俄然創作意欲が湧いたオデにはその余裕がない。

 いま蠅は、静かになった。たぶん休憩中だろう。しかし、この邪魔な蠅を小説の主題にしようと思ったときにいきなり静かになるのは、それはそれでかえって邪魔になる。本当に腹が立つ蠅だ。

 オデもまた椅子の背にもたれてリクライニングをし、休憩した。

 しばし、一服する。

 煙草を吸い終わったが、書けない。どうしよう。

 オデはiPhoneを起動し、蠅の習性を検索した。


「殺虫剤を使わずに蠅を追い出したいのなら、昼間窓を開けて部屋の電気を消すのです。そうすれば、蠅の光向性によって、暗い部屋から明るい外に出て行くでしょう」


 まだ外は明るい。オデはその通りにやった。カーテンと窓を開け、そのまま放置した。すると蠅はいなくなった、ように見えた。

 しかし、時間をおいて、また蠅は部屋のなかにいた。この蠅は光よりも人間を好む性質があるらしい。蠅はオデの頭や肩に乗り、それをはらう仕草をし続けた。

 そのうちオデは不思議な妄想に取り憑かれた。もしかしてこの蠅は、すでに死んだ知り合いの魂を持って、何らかのメッセージをオデに伝えているのかもしれない。

 時間はもうすぐ5時になる。秋の夕暮れは早い。オデは寒さや騒音をしばし我慢し、カーテンや窓を全開にして、蠅を追い出しにやった。

 小鳥や子どもの声がやかましい。ときどき通る自動車の音がうるさい。それでもオデは、暖房をつけ、蠅が出て行くまで我慢した。

 もうこれでいいだろう。再びカーテンと窓を閉めるが、蠅は壁にいた。

 オデは蠅に根負けした。まもなく小説は終わる。いや、終わりにしよう。書斎を出て、キッチンに行き、お湯を沸かす。温かいココアを飲む。それでも蠅はついてくる。

 古来より「虫の知らせ」というのがある。たとえば、衣紋掛けに下げた着物が鴨居から落ち、それと同時に親類縁者が死んだことを伝えられ、これは確かに虫の知らせだ、などと言う。

 しかしこれは虫の知らせというより、文字通り「しつこく纏わりつく蠅」だ。下手したらタンブラーの口やテーブルの上、オデの手の甲に止まり、まるでオデをからかっているようで、ひやっとする。そして腹が立つ。

 なんだこれは。なんなんだいったい。

 怒ったオデは、「お前なんかあっち行け!」「もう二度とくるな!」と、テーブルを叩きながら怒鳴る。がしかし、蠅は一向に消えない。オデの言葉が通じない蠅は馬鹿だ。

 空腹のときは腹が立ちやすい。オデはキッチンに行き、カレーが残った鍋を火にかけ、ご飯をレンジに入れた。それらが暖まったら皿に盛って、カレーライスの夕食をとる。

 そのとき蠅は、オデの顔の周りをぐるっと回ってどこかへ飛び去った。これもそんなような気がする。オデの期待がそうさせただけだ。

 夜。眠剤を飲み、ベッドに入って単行本を読む。やはり蠅の羽音がする。もう気にしないぞ。蠅の寿命は短いからな。眠たくなったオデは本を閉じ、スタンドライトを消して、眠った。

 朝。オデはしばらく蠅のことは忘れていた。いい天気だし、散歩に行こう。車椅子を運転して、T湖の周辺についたら杖で歩行する。数日前、車椅子の補助輪を出し忘れて頭部から転倒・強打し、救急車で知らない街の病院へ運ばれた。

 頭部の痛みは激しいが、CTスキャンでは異常なかった。腫れた瘤は痛くて、多少擦過傷になり、看護師が滲んだ血の処理をした。左膝も擦過傷があり、右手の肘もたぶん同じものがあると思う(オデは左片麻痺なので、右袖をめくって確認するのが面倒くさい)。

 しばらくして、左腰をひどく打ったような気がする。歩いても力が入らず、歩行がより困難になる。一〇月は散歩強化月間なのに、悔しいが、しばらくお預けになるだろう。

 T湖の周りは眺めが良かったが、歩行すると右腕に痛みがあり、階段の昇降はやめにして、いままで行ったことのない場所へ移動した。

 時間は正午を周り、バッテリーが半分になった。一時か二時になれば、図書館に予約した本が届く。オデは帰宅し、バッテリーを充電し、熱いミルクココアを飲み、読みかけの本を読み…そういえば、あのうるさくしつこい蠅はどこにいる?

 蠅は、どこにもいなかった。オデはほっとし、静かなときをようやく楽しめる。でも待てよ。昨夜、あの蠅はオデの頭をぐるっと回って挨拶したんじゃなかろうか?

 蠅は、煩わしいのが気になるが、いなくなっても気になる。気になるが、そのうち忘れてしまおうとする。オデには読書もあるし、執筆もあるし、身体が回復したら散歩を再開せねばならないから。

 ひとつだけ、蠅の馬鹿さは訂正する。オデの考えも蠅の考えもどちらもお互いわからないから。蠅のメッセージがオデには理解できなかったのかもしれない。

 と、これで終わらせるつもりでいたが、蠅は終わらせてはくれなかった。図書館から帰宅して、読みかけの本を開いたとき、蠅が「ぶうん」とやってきた。まるで「お帰り」と言っているようだった。オデは気味が悪くなった。蠅と同棲してる、という思いが過る。

 いいや違う。蠅が寄生しているんだ。断じて飼ってないし、同棲なんてとんでもない。第一、オデが納得してないし、了承もしていない。何が何でも追い出してやる。いまは余裕がないけれど、余裕のあるときには、芸を仕込んでやる。その脳みそが蠅には足りないらしいが、これだけしつこく部屋を追い出そうとしても全然出て行かない蠅は、きっと何かある。オデは期待しながらも、追い出すことに夢中であった。


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