この足音さえ、海に隠して。

久々原仁介

この足音さえ、海に隠して。

 リストカットをした夜は海を走る。それは私のささやかな習慣だった。誰もが寝静まった頃に家を出て、海岸を目指す。


 国道2号線を走る道すがら、北北東の空には上半分が雲で隠れたオリオン座が青白く輝いているのが見えた。海や、星や、砂は、小さな宝物のように光っていた。浜辺に降りる階段を見つけた私は、その光の中に足を踏み入れる。


 肺が膨らんで下腹部が凹む四拍子のリズムが整うと、背筋が伸びる。砂を踏む足音までもが、規則正しい音程を伴って同心円状に広がっていく。


『……さい、応ください』


 きた。

 ノイズ混じりの声が頭の中に注がられる。電波を拾い始めたラジカセのように、それは段々と鮮明になっていった。


『こちら〈星海〉。聴こえていたら、誰か』


 声なんていらない。私もいらない。ただ規則正しい足音が、見えない電波に乗って言葉となり、交信を始める。


 この海のどこかで走る足音をキャッチして繋いでくれる。


『感、あります。星海さん、こんばんは』


 今日は涼しそうな女性の声だ。

 昨日は吐息が奇麗に響く人だった。

 一昨日はずっと泣いていて、会話にならなかったっけ。


『こんばんは、今日も生存してしまいました』

『わたしもよ、今夜も自傷がやめられない』


 ふふ、と。二人で小さな子どもみたいに笑ってみる。


『生き残って、海を走ってます』

『ここの人は、皆そうよ』


 ただ黙って、血で濡れたシーツを前に朝を待つことが怖いから。いつの間にか逃げるように海を走るようになっていた。


 ここは自傷がやめられない人たちが集う電波回線。海を走る、その足音だけが電波となっていく。


『いつまで、生きればいいんでしょうか』

『知らない。それでも、今だけは美しく』


 夜が深くなるにつれ、人数も増えていく。この回線はいつだって少女たちで混雑しているのだ。


 けれどそれは何の問題にもならない。まるで深夜に聴くラジオ番組のように、海の前を走るこの時間だけが安らぎをくれる。


『傷だらけのカラダでも』

『夜風で研がれる今だけは』

『ただ美しく、生きたいよ』

『そんな我儘を』

『赦して、海よ』


 自分が何を伝えて、誰が何を話しているかもう分からない。


 私は考える。こうしてずっと走ることができたなら、私の手首はいつか綺麗な姿を取り戻してくれるだろうか。


 何も解決はしない。手首に巻いた包帯が風になびいて解けていく。


 このまま足音だけになって消えていく。


 そんな私になりたくて、しょうがない。

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この足音さえ、海に隠して。 久々原仁介 @nekutai

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