おすそ分けの肉

蟹場たらば

知らない味の肉

 部屋のインターホンが鳴った。


 平日の夜に連絡もなしに訪ねてきたということは多分急用だろう。何かトラブルでも起きたのかと、つい身構えてしまう。アパートの管理人さんだろうか。それともガス会社や消防か。まさか警察ということはないと思うが……


 そんな僕の心配は、ドアを開けた瞬間に吹き飛んだ。


「夜分にすみません」


 化粧っ気は薄いのに、瞳は大きく、睫毛は長く、肌は白い。高いが落ち着いたトーンで、声まで美人だった。


「ああ、お隣の」


篠原しのはらです」


 大学進学を機に上京してきたとか、出身はなんとか県のなんとか市だとか、四月に引っ越しの挨拶に来たことがあった。それでアパート内で顔を合わせた時に、会釈を交わす程度の関係にはなっていた。


 言い換えれば、彼女とまともに話をするのは実に三ヶ月ぶりのことだった。


「どうかされました?」


 ようやく二年目とはいえ、仮にも社会人である。友達を呼んで夜遅くまで騒いだり、ゴミを溜め込んで異臭を漂わせたり、隣人から苦情を訴えられるようなことはしていないはずだが。


「カレーを作り過ぎちゃって。よかったら、もらっていただけませんか?」


「え?」


 ドラマや漫画では、しばし見かけるシチュエーションである。というか、フィクションの中くらいでしか見たことがない。あれって実在するものだったのか。


「ご迷惑でしたか?」


「とんでもない! いただきますよ!」


 タッパーを引っ込めようとするので、僕は慌てて手を伸ばす。


 ただ単に、他人ひとの善意を無下にできなかっただけである。それ以上の意味はないつもりだった。しかし、今の態度は、カレーや美人にがっついているように映るのではないだろうか。


「よかった」


 幸いなことに、誤解されずに済んだらしい。篠原さんはただ嬉しそうに微笑むばかりだった。


 会社から帰ってきたばかりで、夕飯を食べるどころか、まだ作り始めてすらいなかった。篠原さんが立ち去ると、僕は早速もらったカレーに手をつけることにする。


 電子レンジでルーを温める。その間に、皿にご飯を盛る。それでも時間が余って、手持ち無沙汰になってしまった。そのせいで、僕の頭にはひとつの疑問が浮かんできた。


 カレーを作り過ぎるなんてことがありえるだろうか。


 篠原さんはこの春から一人暮らしを始めたばかりだという。まだ料理に慣れていなくて、つい多めに作ってしまうということはあるかもしれない。しかし、カレーは保存が効くのだから、わざわざおすそ分けなんかしなくてもいいはずである。


 かといって、彼女が僕に好意を持っていて、アプローチをかけてきたという線もないだろう。はっきり言って、僕の容姿はぱっとしなかった。人間は顔じゃないと反論したいところだが、ろくに話したことがないから、中身を好きになってくれたとも思えない。


 一応、篠原さんが変わった趣味の持ち主で、僕に一目惚れをしたという可能性は考えられる。ただ引っ越しの挨拶から三ヶ月経って、今更アプローチを始めるというのは不自然じゃないかという気もする。


「まぁ、なんでもいいか」


 温め終了音を聞いて、僕はそう思案を打ち切った。美人の女子大生から夕飯のおかずをもらえてラッキー。それでいいだろう。


 行儀が悪いが、味見だからと言い訳をして、直接タッパーから一口食べる。その味は――ごく普通だった。


 スパイスや隠し味を足さずに、市販のルーをそのまま使ったんだろう。具も肉がたくさん使ってあるくらいで、他にはニンジン、タマネギ、ジャガイモとごく一般的なものしか入っていない。僕が作っても、誰が作っても、おそらくこんな味になるんじゃないだろうか。


 しかし、あの篠原さんが作ったのだと思うと、なんだか特別な味がするような気がしてくる。


 それなりに量があったものの、僕は一食ですべて食べ切ってしまったのだった。



          ◇◇◇



 今夜は、僕がインターホンを押す番だった。


「昨日はありがとうございました」


 篠原さんに綺麗に洗ったタッパーを返す。失礼のないように、普段はやらない浸け置きまでしてあった。


「すごく美味しかったです。ごちそうさまです」


「本当ですか?」


「ええ、とても」


 おすそ分けしてもらったのだから、これくらいのお世辞は言っておいた方がいいだろう。それに平凡な味というだけで、まずかったわけではないから、まったくの嘘というわけでもない。


 僕の言葉をそのまま素直に受け取ったらしい。篠原さんは「上手くできたか不安だったので安心しました」と頬を緩ませる。


 それどころか、返したタッパーと交換するように、別のタッパーを差し出してきた。


「よろしければどうぞ」


 カレーがまだ余っているのかと思ったら、中に入っていたのは肉じゃがだった。


 昨日に続いて、今日も作り過ぎてしまった……というのはさすがに考えにくい。ずっとおすそ分けに来なかったあたり、これまでは上手くやれていたはずである。それなのに急に分量を間違えだすというのは、いくらなんでも不自然だろう。


 そんな疑念が表情に出てしまっていたようだ。


「実を言うと、夏休みに実家に帰る時に、両親に料理を作ろうと思っていて。その前に、他の人の感想を聞いてみたかったんです」


「親孝行なんですね。まだ大学生なのに立派だなぁ」


「いえいえ、〝ちゃんと一人暮らしやれてるのか?〟って何度も聞かれちゃって、それでムキになってるだけですよ」


「ご両親は篠原さんのことが心配なんでしょう」


 そう相槌を打ちながら、僕は心の中で納得していた。なるほど、だから今になって突然おすそ分けを始めたわけか。


 また一方で、落胆もしていた。分かってはいたけれど、やはり僕へのアプローチではなかったようだ。


「……吉川よしかわさんは大丈夫ですか?」


「何がですか?」


「彼女さんが嫌がったりしませんか?」


「今、誰とも付き合ってないんで」


 篠原さんが僕に好意を持っているわけではないことはもうはっきりしている。しかし、それでも見栄を張りたかった。モテない男だと思われたくなかった。


「一応、大学の時はいたんですけどね」


「別れちゃったんですか?」


「実は浮気をされてたみたいで。そのことを問い詰めたら逆ギレされちゃって。それで……」


 しまった。これはむしろモテない男のエピソードだった。これでは篠原さんに笑われてしまう。


 けれど、そうはならなかった。


「そうですか」


 確かに篠原さんは笑ってはいた。だが、それは嘲笑ではなく、安堵の笑みだったのである。


 その上、彼女は誤魔化すように慌てて言い足してきた。


「すみません。プライベートなことをお聞きしてしまって」


「いやぁ、僕の方こそ変な話をしちゃってすみません」


 謝られることなんてひとつもない。それどころか、むしろお礼を言いたいくらいだった。今のは脈ありというやつなんじゃないだろうか。


 篠原さんもおそらく現在は誰とも付き合っていないだろう。アパートで何度かすれ違ったが、女友達と一緒にいるところしか見たことがなかった。それに男に手料理をおすそ分けするなんて、それこそ彼氏が嫌がるはずである。


 僕は軽い足取りで自分の部屋へと戻る。すぐにでも夕飯の用意を始める。


 彼女の好みなのか、それともまさか僕を喜ばせようと思ってのことなのか。篠原さんの肉じゃがは、カレーと同じで肉がたくさん入っていた。


 ただカレーに比べると、肉じゃがは味もにおいも薄い。その分、素材の風味を強く感じられる。だから、昨日は考えもしなかった疑問が今日は浮かんできた。


 この肉はいったい何の肉なんだろうか?


 脂が乗っているから、鶏肉ではないだろう。また、安い牛肉にありがちな乳くささもない。しかし、特有のにおいはするので、豚肉でもなさそうだった。


 かといって、羊肉のにおいかというと、それもまた違う気がする。けれど、他に肉というと……


 結局、正体が分かるより先に、僕は肉じゃがを食べ終えてしまったのだった。



          ◇◇◇



 洗面所の鏡で、身だしなみをチェックしている最中のことだった。


〝アンタみたいなのと本気で付き合う女がいると思った?〟


 元カノとの最後の会話が脳裏をよぎる。


 初めて一夜を共にした日、付き合うのは僕で二人目だと彼女は言った。こう見えて軽い女じゃない、と。


 しかし、実際には、中学の頃から男をとっかえひっかえしていたらしい。それでたまには今まで付き合ったことのないタイプにも手を出してみたくなって、冴えない中ではマシな方という理由で僕が選ばれただけだった。彼女には最初から、カフェのマイナーなメニューを味見する程度の気持ちしかなかったのである。


 そんな恋愛感情とはとても呼べないものがきっかけだったから、僕たちの関係が上手くいくわけがなかった。早々に僕では物足りなくなって、彼女はすぐに他の男に二股をかけ始めたのだった。


 いくら僕が経験不足で女性の機微に疎くても、露骨な態度を取られれば浮気されていることくらい勘づく。彼女が寝ている隙に指紋認証でスマホのロックを解除して、証拠を抑えることにした。


 浮気相手との楽しげなやりとりが出てくることは覚悟していた。けれど、デートコースがめちゃくちゃだとデート中に報告したり、付き合って一ヶ月の記念写真を服がダサいと笑いものにしたり、僕の陰口で盛り上がっていたのはさすがにショックだった。


 しかも、そのことで彼女を問いただしたら、逆に僕の方が責められてしまった。「勝手に人のスマホを見るなんて最低」「浮気されるのは自分に魅力がないせいでしょ」「アンタみたいなのと本気で付き合う女がいると思った?」……


 あれ以来、僕は一度も彼女を作ったことはなかった。女はもうこりごりだったからである。


 だけど、いい加減吹っ切った方がいいかもしれない。世の中、あんな女ばかりというわけじゃないだろう。


「肉じゃが、ありがとうございました。今回も美味しかったです」


「よかったぁ。喜んでいただけたんですね」


 建前上は親に食べさせるための練習だったはずなのに、篠原さんは僕の好みを気にするかのようなことを口走る。多分、嘘をつき慣れていないんだろう。


 やっぱりこの子は、あの女なんかとは全然違うのだ。


「篠原さんは、甘いものは大丈夫ですか?」


「ええ、好きですけど」


「これ、お返しにどうかと思って」


 僕はプリンを差し出す。それも瓶に入った、少しいいプリンだった。


「ありがとうございます!」とはしゃいだあと、「気を遣わせてしまったみたいですみません」と彼女は頭を下げる。ただ、それでも気が収まらなかったのだろう。


「じゃあ、私からも」


 篠原さんは今日もタッパーを渡してきた。


 中には、青椒肉絲チンジャオロースーが入っているようだった。


「また肉……」


 和洋中の違いこそあるものの、これでカレー、肉じゃが、青椒肉絲と三日連続で肉料理である。その上、どれも肉の量が多かった。


「ごめんなさい。同じようなものばかりだと飽きちゃいますよね」


「ああ、いえ、今高いのにいいのかと思って」


「そんなことなら気にしないでください。少食なのに親がたくさん送ってくるので」


「そうでしたか」


 説明に頷いてはいたが、実際にはまったく納得していなかった。生物なまものの仕送りなら、普通は体にいいように野菜を送るものじゃないだろうか。


 昨日もちらっと考えたことだけど、男を喜ばせるなら肉だと篠原さんは思っているのかもしれない。それで食べ切れないと嘘をついてまで、僕のために毎日肉料理を作ってくれたのだ。


 あるいは、篠原さんの実家には、大量に肉が手に入るような何か特別な事情があるのかもしれない。たとえば両親が牧場を経営しているとか、祖父が猟師をやっているとか。……そういえば、肉からは僕の知らない味がしたんだった。


「あの、これって何の肉なんですか? 牛や豚ではない気がするんですが」


「吉川さんは何だと思いましたか?」


「えーと……」


 羊肉が一番近い気がする。けれど、先程の会話で狩猟肉ジビエという可能性も出てきた。


「よかったら、当ててみてください」


 固まってしまった僕を見て、篠原さんはいたずらっぽく笑うのだった。


 そんなことを言われたら、もう当てないわけにはいかない。篠原さんに味の分かる男だと思われたかった。いいところを見せたかった。


 部屋に戻ると、いつも違ってテーブルにはお茶ではなく水を用意する。肉の味をよく感じ取れるように、舌を完全にリセットするためである。また、念のために食べる前にも一口飲んで、それからようやく青椒肉絲に箸を伸ばす。


 肉質はやや固め。ただし、脂は乗っている。濃いめのタレで大分抑えられているものの、それでも独特のくさみは消し切れていない……


 やはり僕が今まで食べたことのある肉ではなさそうである。


 つまり、牛、豚、鶏、羊、それから人間元カノの肉ではないだろう。






(了)

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