第5話


 自宅で、風呂上がりで湿った髪を乾かしている時のことだった。スマホで秀斗くんとやりとりをしていると、チャット画面で『また遊びに行かないか』と黄緑色のメッセージが付く。私は嬉しくてスマホを胸に抱くが、ふとその時。一抹の不安がよぎった。最近、秀斗くんにはよく遊びに誘われる。前はもっと一人になりたい時間のためとか、課題とかで断られることが多かったのに。

 私は文字を打ち込んだ。

 

 『大丈夫? 私にあんまり気を遣わないでいいよ。絵を描く時間取れてる?』

 

 既読の文字がついても、返事がこない。私はドライヤーを下ろして、スマホを見ていた。少ししてからぽこんと音が鳴る。

 

 『別に。気にしなくていい』

 

 まあ……絵のことを何も知らない私が口を出すのも変だよね。私は気持ちを切り替えて、笑った。秀斗くんが誘ってくれたんだし、楽しもう。私はワクワクして高鳴る胸を押さえた。


 しかし、秀斗くんは日に日に痩せていった。髪は艶を失い、絡まっている。そして、部屋からこもって出てこない日もあった。私はメッセージアプリを立ち上げて文字を打った。

 

 『最近暑いけどちゃんと食べてる? 絵のことばっかりでおそろかになってない? よかったら私が料理とか作ろうか?』

 

 返信はない。

 

 『前にあったときも言ったけど、ちゃんと食べてね』

 

 それから、返信が来ることはなかった。





 三日後。私はアパートの秀斗くんの部屋の前に立っていた。部屋はカーテンが締め切られている。チャイムを鳴らすも出ない。そっとドアノブに手を伸ばして握ってみるも、予想に反してその扉は簡単に開いた。

 部屋は薄暗い。床には絵の描かれたキャンバスが、カッターのような鋭利なもので切り裂かれていくつも散乱している。息を詰めてそっと踏み出してみると、折られた筆がつま先に当たった。よく、秀斗くんが絵を描いていた、あの部屋の中心。そこに力無く座り込む一人の人影があった。

 私は恐々と声をかける。


 「秀斗くん……?」


 暗がりに座り込んだ秀斗くんはのっそりとした動きで、顔を上げてこちらを視認する。全てを諦めたような表情だった。


 「……駄目なんだ、もう」


 力無い声だった。虚な瞳。手元には酒の缶がいくつも転がっていた。秀斗くんはお酒を飲まないと言っていたのに……と私は頭のどこかで半分冷静に考えていた。でも、足はすくんで動かない。怖かった。いつもとあまりにも違う秀斗くんが。


 「意味なんかなかったんだ。無駄だった」

 「意味って……」

 

 「無理なんだよ。この世の中、上には上がいるんだ」

 「でも、秀斗くんの絵は秀斗くんにしか描けないよ」


 秀斗くんは頭を片手で支えて、わかってないなと言いたげに薄く笑った。


 「確かに俺と全く同じ人間はこの世にいない。それは真実だ。でも、俺の上位互換は大勢いる」


 私は何も言えなかった。秀斗くんは肺から重いため息を吐き出した。そしてそばにあった切り裂かれたキャンバスを拾ってその絵を見下したように笑う。


 「どんなに努力したって本物の天才には敵わない。価値がないんだ、この絵も俺も。今までの時間もな」


 そしてキャンバスを背後に放り投げた。ガン、と耳障りな音を立てて壁に当たって落ちる。秀斗くんのその目は酷く乾いていた。力無く自分の両手をじっと見下ろす。全てに疲れたというその瞳。私は思わず叫んだ。


 「そんなことないよ!」

 「ハッお前に何が分かる? 絵なんて……描かなければよかったんだ……!」


 自分を卑下するように笑った秀斗くんは、苦しそうに眉間に皺を寄せる。


 「俺には……才能なんてない。そんなこと一番自分がわかってるわかってるのに……俺は、」


 秀斗くんは額に深く皺を刻み込み、痛みに耐えるように目を閉じた。そして、消え入るような掠れた声が私の耳に入る。


 「夢を見てしまった……」


 その背中は小さく見えた。その姿はまさに自暴自棄。その時初めて私は理解した。秀斗くんは、苦しくて苦しくて……絵を描くことに耐えられなくなってしまったのだ。苦し紛れに他の娯楽に手を伸ばしただけで、私のことなんかこれっぽっちも好きじゃないってこと。


 秀斗くんは夢を諦めてしまったのだ。


 私はどうすればいいのかわからず立ち尽くした。秀斗くんはもうこちらを視界にすら入れない。私の足は自然と後ろに下がる。後ろで扉に当たった。私は唇を噛み締めると踵を返して部屋をでた。



 

 どうすればいいのだろう。

 

 私は唇を強く噛んだ。瞬きが自然と激しくなって、自分が動揺していると分かる。涙さえ溢れそうなほど私は感情を強くかき乱されていた。胸が締め付けられて痛いほどだ。

 秀斗くんが夢を追う姿。それはまさに私の憧れだった。私にとって彼はキラキラと輝いて見えて、何よりも眩しく、尊く見えた。その彼が夢を諦める。

 滲んできた視界で乱暴に目を擦る。自分のことのように辛かった。悲しくもあった、でも何より秀斗くんのその目。煮詰まった苦悩と後悔と……。触れることを躊躇うまでの痛みを抱えたその瞳。私は何もすることができなかった。


 出会った春からもうあっという間に夏の季節になった。秀斗くんと出会って、色々なことがあった。楽しかった。そうだ、私は何よりも楽しかったのだ。この幸せで刺激に満ちた鮮烈な日々よ。何よりも変え難いこの日々を与えてくれた彼にできることはなんだ。


 その夢を諦めてしまった彼にできること。私は秀斗くんの力になりたかった。だって、彼には笑っていてほしい。私が好きになったのは、普段は感情の薄い表情をする秀斗くんが楽しそうに少し口端を上げて絵を描くところ。やっぱり彼には笑ってる方がずっといい。そして、できることなら……幸せになってほしい。


 「ちょっと環? 手を洗いなさいよ」

 「……うん」


 私はボーッとしたまま洗面所を通り過ぎようとしたので、怪訝そうなお母さんに呼び止められた。蛇口を捻り、冷たい水で手を洗う。深く考え込んでいた私は、いつの間にか自分の部屋に戻っていた。部屋は雑多に色々なものが置かれている。ベッドに置かれているのは夏祭りの日に射的の景品でもらったクマのぬいぐるみ。本棚には教科書、参考書。私の好きな冒険小説。私は自然と机の前に置かれた原稿用紙を手にとっていた。引き出しを開けてさらに原稿用紙を出す。


 「こんなに書いたんだ、私」


 これは今まで書いてきた物語たちだ。いつの間にか、両手で抱えることができないほどの量の原稿用紙が私の目の前にはあった。

 秀斗くんがいたおかげだ。

 もちろん最初から私は小説を書くことが好きだった。でも、ここまでやり切って物語をいくつも最後まで綴ることができたのは、秀斗くんに喜んで欲しかったから。それだけだ。

 読んで欲しかった。楽しんで欲しかった。

 秀斗くんが絵を描く時のように少しの微笑を浮かべて、私の物語を読んでくれるその瞬間が欲しかった。秀斗くんに期待されて私は嬉しかった。人を楽しませるという、喜びを秀斗くんは私に教えてくれた。


 夢に向かって走り続けるその背中が私に勇気を与えた。諦めていた夢を、彼は応援してくれた。


 今度は私が彼に何かを与える番ではないか。


 私はグッと拳を握ると、原稿をありったけ手に取り、また家をでた。そしてそのまままた秀斗くんの部屋に足を踏み入れる。


 「秀斗くん」


 秀斗くんはこちらを見もしない。私は服で手のひらの汗を拭うと、大股でツカツカと秀斗くんの前に歩み寄り、口を開いた。


 「見て! いい? これは私が秀斗くんにアドバイスをもらって書いた小説! これも、これも!」


 原稿用紙が一面宙を舞って地面に落ちる。その紙吹雪の中、私は顎を上げて、堂々と秀斗くんを見据えた。秀斗くんは何をいうのかと少し目を見開く。私は秀斗くんを見つめながら言い放った。


 「私、小説家になる」


 これは賭けだった。こんなこと、私が言ったところで、秀斗くんには何も響かないかもしれない。何も届かないかも。彼を励ますことなんでできないかもしれない。でも、そうだったとしてもこの選択に迷いはなかった。

 私の胸にはもうすでに消すには手遅れなほど夢への焔が燃え盛っていた。この火をつけたのは、秀斗くんだから。

 

 「全部全部、私は見てたから。絵を描かなければよかったなんて言わないで。私が横から眺めていた秀斗くんの顔はどこか楽しそうだった。苦しいだけじゃない。どんなに辛くて苦しかったとしても、でも、楽しかったはず」


 私が胸に抱えていたのは希望だけではない。もちろん不安もあった。これを職にするなんて、一握りの才能がなくちゃいけない。私にそれがあるのだろうか。答えのない不安が込み上げる。

 私は決意を固めるように拳を握った。秀斗くんが抱えていたものが、この瞬間から分かった気がする。こんなに苦しいんだね、夢を追うのは。

 でも、人を喜ばすことができる幸せを、秀斗くんが教えてくれたから。

 

 私は頑張れる。そう思える。


 「秀斗くんが夢を諦めても、夢を追い続けるよ。あなたが夢にかけてきた時間も、情熱も、私は知ってる。それは全部無駄なんかじゃない。無駄になんてさせない」


 私は原稿用紙が一面に落ちた床にしゃがみ込んだ。そして呆然とする秀斗くんの手を握った。秀斗くんは口を開けるも言葉にならない。


 「あなたの夢に向かってひた走る背中に、私は憧れた。勇気をもらった。夢を、もらった。本当にたくさんのものを私はもらったんだ」


 私は涙を浮かべて、曇りなく笑う。籠の中の鳥が空に恋するように、焼きつかんばかりの憧れが、堰を切ったように溢れる。


 「だから今度は私の番。────私を見てて」

 

 本当にこれでいいのか分からない。あなたに何かを返せているかも分からない。でも、やるしかないんだ。私はまっすぐ秀斗くんの黒い瞳を見詰めて言い放った。


 「秀斗くんの分まで背負って一直線に走り続ける。あなたの夢は無駄じゃない。私が証明するから!」


 バクバクと激しい動悸がしていて耳に届く程だった。胃が締め付けられて、私の体調は絶不調もいいところだったが、私は夢中だった。

 受け取ったバトンはしっかり握って絶対に離さない。最後まで走りきれないかもしれない。夢を追う苦しさに押しつぶされる日が来るのかも。

 

 でも走り続けるよ。


 今はただ、追っていたい。走っていたい。この夢の道を。私が秀斗くんに夢を追う楽しさを教えてもらったように。私もいつか誰かにこのバトンを託す日が来るのかも。でもそれでいいと思う。それだってきっと無駄じゃないから。意味は確かにあるから。

 夢を叶えるまで、走り続ける。いつか夢を諦める日が来たとしても。努力は、この日々は、無意味なんかじゃない。


 はく、と秀斗くんの口が開いては声にならない吐息を漏らす。肩の力が抜けたように下がる。そして、深く息を吸い込んだ秀斗くんは震える声で口を開いた。


 「お前……なんでそんなかっこいいんだよ……」

 

 秀斗くんは目を伏せてこめかみに手をやった。その手は小刻みに震えていた。つ、と一筋涙が溢れるのが見えた。それ以上言葉が出てこないようだった。私は涙をいっぱいに溜めながらも笑った。


 「乙女パワーかな」


 秀斗くんも少し笑った。その笑顔。それだけが救いだった。

 ああ、やっぱり好きだったな。秀斗くんの笑ってる顔が好きだった。彼には笑っていて欲しかった。できれば私が笑顔にさせたかった。

 苦くて、涙が出るほど切ない。彼との今までの思い出が胸を掻きむしるようだった。


 これが失恋の味か、なんてね。私は、はらはらと流れる涙を拭った。大きな雨粒のような涙だった。

 

 でも後悔はない。この恋もきっと無駄にはならないから。いつか降り止まないこの雨が終わって、そうしたら私は前を向いて歩いていける。そんな気がする。




 

 「お母さん、私、小説家になる」


 私は口角さえ上げて実に堂々と言い放った。そうして穏やかな夕食の時間に爆弾を落とした。


 「はあ!? ちょっとそんなこと──」

 「もう決めたことだから」


 私は微笑んで、茶碗を持ってご飯を口に入れる。迷いはなかった。なんと言われようが、私はもう生きる道を見つけたのだから。なおも、口を開こうとするお母さんに、その隣に座っていたお父さんは手で制した。


 「本気なんだな」


 メガネのレンズ越しに目があう。その静かな瞳は私を見極めるようだった。

 

 「うん、そうだよ」

 「ならいい」


 私とお母さんは目を丸くした。お母さんはなおも言い募ろうとするが、お父さんは静かに黒縁メガネの縁を押した。

 

 「環の人生だ。好きに挑戦すればいい。挑戦した後で諦めればいいんだ」

 



 

 「卒業したら就職することにした」


 秀斗くんは気まずそうに視線を逸らしながら言った。それを聞きながら私は玄関前のアパートの扉の前で立ち尽くす。なぜか、秀斗くんがわざわざチャイムを鳴らしてこちらに尋ねてきたのだ。


 「洋菓子に関する仕事をしようと思う」


 まるっきり新しい世界に飛び込むつもりだと、秀斗くんは言った。


 「そうなんだ! 頑張ってね」


 私は顔を綻ばせてニコニコと笑った。私は心から秀斗くんの幸せを願って、応援していた。ただ、幸せになってほしい人だから。


 「なんでそう……いや今はいい。それより、なんで最近こっちに来ない?」

 「え? 受験勉強とか、小説の執筆で忙しかったから……そうだ、私小説を公募に出すことにしたんだ」


 最近の毎日はとても充実していると思う。もともと得意ではなかった勉強に加えて、小説の勉強に執筆。体があと二つは欲しいところだ。

 

 「お前、頑張ってるんだな」


 秀斗くんは目を細めて私を見た。眩しいものを見るような目だった。そして納得したらしい秀斗くんは「ん」と何かを渡してきた。手を差し出すとチャリと音がして、みれば銀色に輝くそれは鍵だった。このアパートメントの。


 「え? 秀斗くん?」

 「あのさ……今更都合がいいと思うかもしれないし、俺なんかもう嫌になったかもしれないけど。これは諦めないから」


 秀斗くんは真剣に目を細めて言葉を紡ぐ。

  

 「最近、また絵を描き始めたんだ」

 「そうなの?」

 「夢は諦めた、それに違いはないけど。環の言う通り苦しいだけじゃなかったって気づけたから」


 自然とその頬には淡い微笑が浮かんでいた。

 

 「それに気づけたのは間違いなく環のおかげだ」

 

  鍵を握った私の手のひらに、秀斗くんの少し筋張った手を押し付けてぎゅっと握る。半ばパニックになりかける私に秀斗はじっと見つめていう。


 「わかってる? 面倒な男に目をつけられたってこと」

 「へ」

 

 「今更逃げんなよって話」




 どうやら罠に引っかかった獲物は私の方だったらしい。


 私はグッとこみやげた涙を堪えて秀斗くんに飛びつく。細身の外見に似合わず案外しっかりした腕が、戸惑うがちにそっと私を支える。ぎゅうぎゅうと音が鳴りそうな勢いで私は秀斗くんに抱きついて、それで少し泣いた。

 幸せなのに胸が苦しくて、涙で声が詰まる。足がふらふらした。

 

 出会った時から秀斗くんとの思い出はどれもキラキラと美しい光を放っている。それらはきっとこの先一生忘れないであろうという輝きを、私に与えてくれた。秀斗くんが私を見て薄く微笑むその姿を見ているだけで、いつだって私は幸せな気持ちになれる。

 夢を追う勇気をもらえる。明日を一歩踏み出す勇気が。


 

 きっとこれからも私は、この人が与えてくれる鮮烈で煌めいているときめきを綴り続けるんだろう。


 

 

 これは私が夢を追いかけていた青年に出会い、恋に落ちて、諦めていた夢を追う物語。

 そして、これは私たちが、恋人になるまでの物語。


 





 






 

 

 

 


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夢追い人らよ 一夏茜 @13471010

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