第4話
夏が来た! 冒険の季節だ。茹るような暑さが続く夏の猛暑。学校から帰る道ではアスファルトから登る蒸気さえ見える日もあった。
私は目をつぶって、バッと手を前に差し出して頭を下げる。
「私とデートに行ってください!!」
秀斗くんは目の下に隈ができていて、以前よりずっと痩せて見えた。でも、その目だけは鋭い光を放っている。課題に追われているのだろう。私は少しでも息抜きになればと勇気を振り絞って言った。秀斗くんは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに苦笑して頭を掻いた。
「いいけど。でも、その代わりに行きたいところがあるんだ」
秀斗くんは表情の読み取れない視線をどこかにおくりながら淡々と語る。知り合いが個展を開いているらしい。その個展を、見に行きたいのだと秀斗くんは言った。
翌日。空が青く澄んで、真っ白な入道雲が湧き立つ。蝉の声が一斉に響き渡る、まさに夏って感じだ。飛行機が青い空に白く短い軌跡を刻んでいた。
アパートの前で明るい色の花柄のワンピースにサンダルを履いた私はソワソワと落ち着きがなく歩いたり地面を軽く蹴ったりしていた。早く家を出過ぎてしまった。昨日はウキウキしながら家でファッションショーを開催して、今日着ていく服を選んだものだ。それくらい楽しみだったのだ。込み上げるのはニコニコせずにはいられない嬉しさ。
ときめく胸の鼓動を私は抑えた。期待で胸が締め付けられて息もできない。
「環」
私はその声に満開の笑顔を咲かせて顔をあげた。
「秀斗くん!」
こちらに歩み寄ってくる秀斗くんはダークカラーのスリムフィットジーンズと、襟付きでターコイズブルーのシャツを着ていた。私はあまりのときめきに胸を押さえた。シンプルで細めの腕時計をした手が所在なさげに首にいく。
「じゃあ行くか」
てくてくと二人で駅に向かい、電車に乗る。なんでもその知り合いは、街の中心街のギャラリーを借りて個展を開いているらしい。ものすごい人と知り合いなんだなと私は感心した。電車に乗って目的地の駅に着くと、また私と秀斗くんは歩き出す。
私はソワソワドキドキしながら、一歩前を歩く秀斗くんの手を見ていた。手を繋ぎたい。頭にあるのはそれだけだった。普段は筆を握っているその手。指を重ねてみたら、どんな心地がするのだろうか。頬が紅潮するのを感じる。
でもダメかも、断られるかも。不安と期待が渦巻く。私はそっと秀斗くんの手に伸ばした。そのふしくれだった長い指と、私のマニキュアを塗った指が触れる直前。
「あのさ」
秀斗くんがこっちを振り向いて口を開く。私は瞬時に手を引っ込めた。なんでもないみたいに声を出す。
「何? 秀斗くん」
「今日、本当によかったのか? 絵とか見るタイプじゃないだろ」
なんだそんなことかと私は息を吐いた。
「いいんだよ」
「そうか?」
秀斗くんは表情を変えずに歩きながら、首を少し傾げながら私を見る。
わかってないなぁと私は微笑んだ。秀斗くんと一緒にいられるだけでいいんだよ。それでもう私は幸せなの。……言わないけどね。
そのギャラリーには早く着いた。入場料はなし。クーラーの効いたその屋内に入って私はふうと額の汗を拭った。
「三階だって」
秀斗くんはパンフレットを見ながらそういった。エレベーターに乗り込み、3階に上がる。
私は秀斗くんと一緒にギャラリーのドアを開けた。入った瞬間、私の目に飛び込んできたのは、壮大な絵画の数々だった。壁一面に広がるキャンバスたちは、まるで別の世界への窓のようで私は息を呑んだ。天井から降り注ぐ柔らかな光が、キャンバスの上で色彩豊かに踊っていた。
「すごい……」
私の声は自然と低くなった。震える手を額に寄せる。
そのギャラリーの中央にはいくつかの代表作が飾られている。静謐な森の絵はまるで木々が風に揺れる音まで聞こえてきそうだったし、夜空に浮かぶ都市の絵は夢のような美しさだった。
私は目を輝かせてギャラリーのあちこちを見て回った。
……隣で秀斗くんが唇を噛み締め辛そうに視線を逸らしたことには気づかなかった。
個展を後にして、私たちは黙々と駅に向かっていた。ひぐらしの鳴く声に促されてオレンジ色に染まった薄い雲の下を歩いて帰る。キリギリスがあちらこちらで掠れた声をあげて鳴いていた。
秀斗くんはまだ無言で、私はどう声をかければいいのかわからなかった。様子が少しおかしいことには気づいていた。私は視線を迷わせて言葉を選ぶ。
その時、道の向こう側に色とりどりの提灯が見えた。人々の賑やかな喧騒までこちらに漂ってくる。
「ねえ、あれ……夏祭りじゃない?」
私は興奮気味に秀斗くんに言った。秀斗くんは一瞬立ち止まり、提灯の方を見つめた。目を伏せて私を振り向く。
「そうだな……行ってみるか?」
私は喜びを頬に浮かべて頷いた。
「うん、行こう!」
喧騒の方へ向かって提灯の下を歩くと、鮮やかな浴衣姿の人々がちらほらと多くなっていく。やがて大きな公園で、出店の賑やかな声が迎えてくれた。たこ焼き、焼きそば、綿菓子の食欲をそそる匂いが漂っている。提灯は煌々と明るく輝いて私たちを照らしてくれている。私はこの、夏祭り特有の雰囲気が大好きだ。私は目を輝かせて辺りを見回した。
「射的だって! 金魚掬いもあるよ!」
私は秀斗くんの袖を引っ張りながら言った。彼は少し驚いた表情をしていたが、私の勢いに押されて微笑んだ。その微笑。私は胸がいっぱいになって、耐えようにも耐えきれず笑みが口角に浮かぶ。
その後も私は、秀斗くんを引っ張りながら屋台を巡った。私は日常の悩みをすっかりと忘れてただ目の前の楽しみに没頭していた。
そして、祭りの喧騒から少し離れて、ベンチに座った。両手いっぱいに抱えるのは景品のぬいぐるみや綿菓子、焼きそば、たこ焼き。秀斗くんは呆れたようにそれらをベンチに置いて、私の様子を見守っていた。
秀斗くんの隣で私は夢中になって綿菓子を頬張っていた。綿飴ってなんでこんなに美味しいんだろう。夜空には花火の音が響き渡り、遠くから人々の歓声が聞こえる。
「ねえ、環」
秀斗くんの声が少し低くなった。私は綿飴にかぶりつくのをやめて顔を上げる。
「ん?」
顔をあげた視界いっぱいに、秀斗くんの顔が近づく。次の瞬間、唇に少しカサついた柔らかくて温かいものが触れた。
世界から音が消える。驚きと共に心臓が止まって、またバクバクと激しい鼓動を刻み始める。まるで心臓が踊り狂うようだった。
私は目を見開いて固まっていた。思考が止まって頭が真っ白。数秒間、時間が止まったように感じた。秀斗くんの香りと、彼の手が私の頬に触れる感覚が全身に伝わってきた。私は唇を押さえてはわはわと動揺する。
「え? ええ!?」
「甘……」
秀斗くんの苦笑したようなその表情が少し苦さを帯びていたことに、私は気づかなかった。顔が熱い。夏の夜風がそんな私たちを包み込む。その日はふわふわとした足取りだった。気分はまさに夢心地。心の底から湧き出る歓喜に涙さえ込み上げそうだった。何度何もない道で転びそうになって秀斗くんに支えられたか分からない。
それは、忘れられない夏の夜だった。
この時に、私は気づいていればよかったのだ。秀斗くんの異変に。
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