第3話
しとしとと雨が降り注ぐ梅雨の季節。どこにも遊びに行くことのできない、アウトドアな私にとってはつまらない季節だ。朝も夜もなく、空の色は灰色に暗く澱む。今日もザーっと微かに雨の音がしていた。
「ダメだ……」
秀斗くんは眉に皺を寄せて、走らせていた筆を置いた。
時々、秀斗くんは絵を描いている時に苦しそうな顔をする。眉間に皺を寄せて息が詰まったような顔。私はちょっと私は秀斗くんの楽しそうにのびのびと筆を走らせる姿が好きだった。だからそんな辛そうな、泣きそうな顔をしてほしくなくて、私は明るい声を作っていった。
「そうだ、聞いて! 秀斗くん」
「なんだ?」
「投稿した小説にコメントがついたんだ! 面白かったって!」
「よかったな。やっぱり才能があるんだよ」
前に秀斗くんが言っていた通り、書き溜めて私の机の棚に積み上がるばかりだった小説をサイトに投稿してみることにしたのだ。結果は上々と言ったところだ。悪くもなく、とっても良い訳でもない。でも、秀斗くんは自分のことのように喜んでくれる。
秀斗くんと私はスマホの、同じ画面を覗き込んだ。コツンと額がぶつかってどちらともなく笑い出す。
「見てみて! ブクマがこんなに!」
「おお、すごいな」
日々はあっという間に過ぎていく。秀斗くんはいつも熱心に絵を描いていた。夢を追いかけて努力し続ける背中。私は憧れのような、言葉にできない感情をいつしか胸に抱え込んでいた。
私はいつものように自室で机に向かい、小説を書くためのノートを開いた。ペンを握りしめながら、頭の中で物語の世界が広がっていくのを感じる。登場人物たちの声が聞こえてくる。主人公は、明るいキャラクターにしようかな。それとも、影のあるトラウマを抱えたキャラクターかな。
彼らの感情や悩みを一つ一つ綴っていくと、私はやっぱり楽しくて胸が弾んだ。鼻歌さえ歌ってしまう。
「最近小説ばかり書いてない? 勉強はどうしたの」
夕飯の時のことだった。お母さんのその一言が、私の浮き上がっていた気分を急激に冷ました。お父さんはじっと様子を見守っている。私は投げやりに答えた。
「やってるよ」
「本当に? 成績が落ちてるんじゃないの? 言っておくけど、それを仕事になんて──」
「分かってるよ!!」
私はガタンと席を立つと、夕飯を途中で切り上げ部屋に戻った。そんなこと、自分が一番分かってるのに。唇を噛み締める。
そして七月になり、夏になった。
◇
秀斗視点
誰もが寝静まるようなシンとした夜深く。秀斗の部屋には燦々と電気が付いている。秀斗は自分のキャンバスに向かっていつものように筆を振るっている。
今回選んだテーマは「夏の夕暮れ」。都会の喧騒から離れ、静かな田舎の風景を描くことで幼少期の記憶と深いノスタルジアを表現しようとしていた。夕日に染まる空と、それを映す田んぼの水面。この情景には、秀斗の懐かしさが詰まっている。しかし、その筆使いにはいつもの熱は感じられず、作品がどうしても完成できずにいた。秀斗は深いため息をつき、一度作業を中断した。
彼の部屋の中心にあるのはイーゼルにかけられた未完成の絵画。その絵画は何度も何度も塗り重ねた跡があった。それは秀斗自身の絵に対する不安や自責に満ちた内面を映し出したかのようだった。秀斗はいつも環がいない時は、余裕が剥がれ落ち、何度も困難にぶち当たり頭を掻きむしって絵に向かい合っている。それはまさに魂を削りながら絵を描いているようだった。
天才、才能。
それは秀斗にとって喉から手が出るほど欲しいものだ。
どちらかと言えば……自分は秀才タイプだと秀斗は思う。間違っても天才ではない。しかし秀斗はそれが欲しくて欲しくてたまらなかった。
いつからだろうか。そんなふうに思うようになったのは。
絵を描くことは物心つく時から好きだった。夢を抱くきっかけは父だったと思う。父は画家だった。
夕焼けの差し込むアトリエで、父は絵を描いていた。その部屋の中は油絵の匂いとキャンバスの山で満ちている。
数分前。「邪魔してはダメよ、お父さんの大切な仕事場にお邪魔しては悪いわ」と母に言われ、幼い秀斗は気を落としていた。しかし父は笑って言った。
「別にいいじゃないか、見るくらい。秀斗、おいで」
その時間は不思議と今でも覚えている。ワクワクしながら父の絵を描く姿を見ていた秀斗に、父は振り向いて「お前も一緒に描いてみるか?」と誘った。笑みを見せて頷く秀斗のために、父はイーゼルを立て、高めの椅子を用意してくれた。そして、親子二人はキャンバスに向かい合った。
あの日、初めて秀斗はドキドキと幼い胸に鼓動を刻みながら、筆を握ったのだ。最初に描いた絵はお世辞にも上手いとは言えない絵だったと思う。でも、父は「才能があるな」と言って秀斗の頭を撫でた。
そして、父は秀斗の最初の師匠だった。
「いいか? 絵は心の窓なんだ」
庭で二人でスケッチをしている時のことだった。緑が生き生きとした色彩を放って生い茂り、ちゅんちゅんと小鳥が囀る。隣に座る秀斗にデッサンの仕方を丁寧に教えていた父は微笑んで言った。秀斗は首を傾げる。
「まど?」
「そうさ、窓。絵を通じて、人は自分の気持ちや思いを表現したり、他の人と感情を共有できるんだ」
秀斗は首を傾げる。そんな秀斗の様子を見て父は笑って言った。
「絵を描くことで、心の奥深くにある気持ちや考えを表現することができるだろう? それに、誰かが描いた絵を見ることで、その人がどんな気持ちでいるのか感じ取ることもできる。絵はな、みんなの心の中を覗くための窓みたいなものなんだ」
今でも父の言葉は、秀斗の胸に刻まれている。
父はそれから五年後、死んだ。病死だった。
父ともう会えないのだと知った時のあの、胸に穴でも開いてしまったかのような喪失感。とてもつない恐怖は言葉にできない。秀斗は父が亡くなってから、ますます絵を描くことにのめり込んだ。
絵を描くことは本当に好きだった。キャンバスの前に立つと、時間が止まり、全ての心配事や日常の騒がしさが消える。筆を動かせば、感情や思いを色と形にすることができる。秀斗にとって絵を描くことは単なる趣味ではなく、生きる意味そのものだった。
秀斗の世界にあるのは絵、それだけだった。それなのに……。
「秀斗くんただいまー」
「わかってるか? ここはお前の家じゃないんだぞ」
学校から直で来たらしい。秀斗は呆れ返って言葉をこぼす。それに環はびくともせず笑っている。……彼女はよく笑う。秀斗は楽観的なその笑顔に勇気付けられるようになったのを自分でも感じていた。慕うような眼差しを見ると心がふわふわとする。
蜂須、環。彼女は突如として秀斗の世界に現れた少女。自分が好感を抱いているのは間違いないだろうと、半分冷静に秀斗は考える。そもそも嫌いだったらここまで踏み込まれるのを許していない。かといって好きかと言われると曖昧な感情だった。初めて環と出会った頃、秀斗は環に対して特別な感情を抱いている訳ではなかった。秀斗は、自分の絵に没頭し、その創作活動に全力を注ぎ込むことしか興味がなかった。
だが、いつからだろうか。
彼女の存在が秀斗の中で大きくなっていったのは。自分を慕ってくれて、すごいすごいと言ってくれる環がいつの間にか心の支えになっていた。彼女は何よりも無邪気で、燦々とした太陽の煌めきを宿している。環がどのようにこの世界を見ているか、彼女の物語を見ればわかる。際立つのはこの世の美しさ、楽しさ。生きることを心の底から楽しんでいる環の在り方に、秀斗は自然と惹かれていた。自分にはないところだ。
秀斗にとって、まさに彼女は光だった。子犬のように戯れ付くあの子は。
この世で一番眩しい笑顔で笑う。
環のあの自分を見るキラキラした瞳を思うと……彼女の期待を裏切りたくない。そう思う。
ぼーっと考え事に浸っていた秀斗に、環はキョトンとしたように口を開いた。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
環を見ていてふと思い出したことがある。
小学生の頃、賞をとった時のことだ。あの頃の自分は人に喜んで欲しくて絵を描いていた。父に喜んで欲しかった。認めて欲しかった。父が目を細めて笑い、秀斗の頭を撫でる。その瞬間が欲しかった。昔から自分が欲していたのは、人を笑顔にする力だった。
きっと環は、……あの子は。その力を持っている。才能に恵まれた子だ。
才能。それは忌々しくも焦がれるような輝きを持っている。呪いのように己の頭から離れない。
秀斗が現実を思い知るのは早かった。賞で一番を取れたのは最初だけ。どんなに頑張ってもすぐに追い抜かれるのだ。周りに追い抜かれる感覚。それは大学に入ってからも止まない嵐となって秀斗に襲いかかった。
……でも、どうしても夢だけは諦めきれなかった。意地になっていたのかもしれない。父が死んで、秀斗はこの夢を手放すことすら怖くなった。父に顔むけできない気がして。
そして、秀斗は美大に入り、そこで本物の天才を見た。一個下に現れた期待の超新星。
そいつの描く絵を見た瞬間、秀斗は息を呑んで見入った。独特な世界観と荒々しいタッチ。思わず引き込まれるような奇跡の一枚。これこそが心を掴む絵なのだと理解させられた。ハッとして横を見れば、涙を流す者さえいた。
──違う。
──俺の絵とは全然違う。
秀斗は愕然とした。震える手で口を覆う。全く身動きできない程の衝撃。こんなにも人の心に響く絵は俺には描けないとすら思った。
追いつけるのか。……わからない。秀斗はそれから眠っている際にすら不安に苦しみ続けた。遠い、あまりにもその背は遠かった。
星の瞬くような夜。秀斗の部屋。秀斗は中心に置かれたイーゼルに置かれたキャンバスに向き合いながら、息を詰めていた。その瞳は苦悩と苦痛に染まり、その背は孤独にさえ見える。ここには誰も秀斗の自己批判を止める者はいなかった。
「ダメだ!! あいつの方が、もっとッ!!」
最終的に秀斗はキャンバスを床に叩きつけた。激しく息をする秀斗は苦しげに顔を歪ませて呟く。
「……クソッ」
ただ、秀斗はここにあの子がいなくてよかったと思った。唇を歪めるような苦痛が胸を這う。苦しくて苦しくて、嫌悪感が体の中を充満して吐き気がした。秀斗はただ、痛みに耐えるかのように瞼を閉じた。
俺は、才能がないのではないか。それはいつだって秀斗の頭の片隅にあった。これから努力し続けても無駄なんじゃないか。父にあった才能が、俺にはない。
秀斗の心が弱くなった時。悪魔の囁きが言う。逃げたい。ここから逃げ出してしまいたい。全てを諦めてしまいたい、と。
努力すればいつか報われる。そう思った時もあった。笑ってしまうほど御花畑な考えだと秀斗は自分を嘲笑した。
わかっている。努力しなければ秀斗の目指す高みには届かないと。頭では理解している。……でも、全てが嫌になる時っていうのはある。実らない努力をし続けることに心が折れてしまいそうだった。
限界が近いと自分でもわかっている。でもどうにもならない。
認めたくない現実が迫ってくる。もはや心休まる時はなかった。悪夢に飛び起きる毎日だ。悪夢には決まってあの天才がいた。夢の中では誰もがあいつの絵を称賛し、そして隣に飾られた秀斗の絵に落胆する。秀斗の絵の前にいるものが一人、一人と去っていき最後には環にすら見捨てられる。そういう吐き気がするような夢だった。
言うまでもなく目覚めた後は最悪の気分だ。息切れをしながら胸を抑える。胸にぽっかりと穴が空いている感覚が常にしていた。
秀斗は薄暗い部屋の隅に座り込み、スマホをスクロールしていた。見ているのはネットにあがった環の小説。窓の外からは蝉の声が鳴り響いている。秀斗に顔には強い集中の色が浮かび、眉間に皺を寄せながら一文一文を丁寧に追っていた。
彼は一瞬、顔を上げて部屋の中を見渡した。散らばった画材やスケッチブックが目に入ると、現実の重みが戻ってくるようだった。窓には入道雲が浮かんでいる。秀斗はすぐにまたページに目を戻し、小説の世界に引き戻される。
秀斗の心は現実の厳しさから逃れるように、小説の中で繰り広げられる冒険に没頭していった。秀斗は、物語の登場人物が直面する困難に自分を重ね合わせながら、静かにそのページを進めていった。
やっぱり、あの子には才能がある。自分にはない人を惹き込む才能が。
ああ、夏が来る。嫌になる季節だ。
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