第2話

 「どうぞ」

 「お邪魔しまーす」


 扉を開いて促す秀斗くんに、私は少し緊張しながらも一歩足を踏み入れた。部屋に広がる絵の具の匂いが鼻をくすぐる。靴を揃えて脱ぎながら、私は期待に胸を膨らませて部屋を見渡した。壁に掛けられた絵たちが目に飛び込み、思わず目を輝かせた。

 

 「わあ!」


 キャンバスが廊下いっぱいに置かれて、色とりどりの絵が置かれている。雑多ながらきちんと整頓されている印象だった。その中でも私は一つの絵を見た瞬間、私は息を呑んでいた。

 海の絵だった。

 秀斗くんの絵はまるで生きているようで、私はその場から動けなかった。目の前に広がる大きなキャンバスには、まるで現実を切り取ったような情景が広がっていた。光と影のコントラストが鮮やかで、さざめく波の音が聞こえてきそう。私は目を閉じて深呼吸した。そしてまたこの絵に戻ってきて感動を噛み締める。

 絵を好きだと思うことは初めてだった。こんなにも穏やかに心に迫る絵があるのかと、息が詰まった。


 「この絵……秀斗くんが掻いたの?」


 ふと、横に目を向けると、秀斗くんが立っていた。彼は無造作にポケットに手を突っ込み、無表情で絵を見つめていた。どこか遠くを見るような眼差し。その横顔には憂いが漂い、黒い瞳には思案の光が宿っている。


 「まあね……でもまだまだだ。インパクトが足りない気がする」

 「そうかな……」

 

 私はかろうじてそう言った。胸が早鐘を打つ。私は続けて何か言おうとしたが、言葉が出てこない。ただ、その瞳の中に吸い込まれそうだった。秀斗くんと、彼が描いた絵に圧倒されていた。


 「でもすごいよ、なんていうか心を掴まれた。タイトルは何?」


 腰に手を当てて絵を見る秀斗くんの瞳は優しく、遠い。ああ、私はこの人に恋をしているのだな、と思った。絵に込められた感情と同じように、秀斗くんの存在そのものが私を揺さぶった。


 「”静寂の海”。俺の内面にある静けさを表現したかったんだ」

 「素敵だね!」


 秀斗くんはそれに少し笑うとこちらを向いた。「あー……」と呟きカリカリと頭を掻いて口を開く。


 「これから課題をするけど……」


 秀斗くんは口を開いて言葉を濁らせる。私は少しの期待を含ませて尋ねた。


 「見てていい?」

 「……面白くないだろ」

 「絶対面白いよ!」


 キラキラと瞳を輝かせて身を乗り出す私に、秀斗くんは「しょうがないな」と呟きため息をついた。秀斗くんは隣の部屋でつなぎに着替えてきた。そして私の前でイーゼルをたて、キャンバスに向かいあう。

 すぐに秀斗くんは私の存在など忘れたように集中し切って、筆を走らせていた。汗が額に滲み、目は鋭くキャンバスを見つめている。彼の手元には、様々な色の絵の具が散らばっている。

 私は膝を抱えて秀斗くんを眺めていた。

 秀斗くんは自然と漏れたように「もう少しだ」と呟き、さらに筆を動かす。絵の具の量を調節しながらキャンバスに塗っていく。細かいディテールを描くために、何度も筆を替え、微調整を繰り返す。秀斗くんの手の動きは正確で、無駄がない。「これだ」と納得する瞬間、彼の目には力強い輝きが宿った。

 私はただその横顔に見入った。一心不乱に絵を描く秀斗くん。真剣なその横顔は何よりもかっこよかった。

 絵が完成すると、彼は一息ついて満足そうに微笑む。その絵は人々が通り過ぎる街の一瞬を切り取ったものだった。私はワクワクとしながら言葉を紡いだ。


 「すごい! 人がまるでキャンバスの上で生きてるみたいだよ! これはどういう画材を使っているの? コツとかある?」

 「油彩。俺の場合は、だけど……何層も薄く重ねて描くことが多いかな」

 「へえー!」


 その瞬間、私はピンときて、胸ポケットから拳銃を出すようにメモ帳を素早く出した。そしてせっせとペンで文字を書き込む。絵を描く主人公の話なんて良さそう。それを少し驚いたように見ていた秀斗が口を開いた。


 「お前……環だっけ。環が書いた小説ってどこで読めるんだ?」

 「えっ読む気なの!?」


 思いもよらぬ言葉だに私は顔を上げて素っ頓狂な声を出した。


 「なんだよ……いいだろ別に」


 少し不満げに秀斗は呟いた。


 「俺だけ見られたのは不公平だろ」

 「えー……わかったよ」

 

 私は仕方なしに一旦家に帰り、机の棚からのノートを一冊取り出した。そしてそれを持ってまた秀斗くんの部屋に戻る。


 「はい、そんな大したものじゃないけど……」


 ノートを私から受け取った秀斗くんは、手書きの文字をそっとなぞった。フッと微笑むと目を伏せてページを開き、最初の文を読み始めた。秀斗くんはどんどんページを捲る。最初の表情は真剣そのものだった。

 私は緊張のあまり息さえ止めそうになりながらその様子を見守っていた。秀斗くんが自分の小説を読むことにどんな反応を返すのか。楽しみな気持ちと不安な気持ちが半々。胸はありったけの緊張と少しの興奮で高鳴っていた。少し震える手を握り、音を立てて唾を飲み込む。

 しばらくして、ほうと息を吐いて秀斗は顔をあげた。


 「もったいないな」

 「え、何が?」


 私はちょっと緊張気味に尋ねる。どこがダメだったのだろう。しかし、秀斗くんが発したのは思いもよらない言葉だった。


 「こんなに面白いのに、誰も読んでないなんて……。プロになれるんじゃないか」


 私は息を呑んで微笑んだ。嬉しい言葉だったが、私は眉を下げて首を振る。


 「なれないよプロになんて。技術も何もかもが足りないし」

 

 秀斗くんは視線をノートに向けて、静かに口を開く。


 「確かに足りないものはある。ネガティブな感情表現は苦手だろ」

 「……うん」

 「でも、光るものはある」


 秀斗くんはそこで言葉を切ってこちらをまっすぐ見据えた。その瞳の力強さに私は少し息を呑む。


 「目指せばいい。努力してから諦めればいいだろ」

 

 心の底からそう思っているようだった。私は囁くように言葉をこぼす。


 「無理だよ……」


 努力なんて私には縁遠い言葉だ。代々この小説を書くのは、私にとって趣味として楽しんで書くためのものだし。私はノートを受け取って曖昧に笑う。秀斗くんはそれ以上何も言わなかった。





 

 「また来たのか……」


 秀斗くんは呆れたように呟く。今日、私は学校の制服を着ていた。白い襟が特徴的な、シンプルなデザインのセーラー服。清潔感のある白い生地に、濃紺のスカーフが胸元でリボンのように結ばれている。私は玄関に座って、ローファーを脱ぎながら言った。


 「へへっお邪魔しまーす。あっこれお母さんから。秀斗くんが好きって言ってたお菓子ね。あとジュースも」


 私が渡したのはお高めの洋菓子だ。前に好きだと言っていたのを聞いて忘れずにメモっといたのだ。あと、リュックから取り出した炭酸ジュースをドンっと床に置いた。


 「別にいいのに」


 秀斗くんは口ではそう言いつつも少し嬉しそうな微妙な表情で洋菓子の袋を受け取る。私は、部屋に上がり込むと、居間に置かれたローテーブルの上に問題集とノートを広げた。少し上機嫌に美味しそうなバームクーヘンを切っていた秀斗くんは、真っ白な皿に装ってこちらに持ってくる。そして、私の手元を覗き込んで感心したように口をひらいた。


 「宿題持ってきたのか。偉いな」

 「もっと褒めて!」

 「……えらいえらい」

 「でしょ!」

 

 やがて、秀斗くんは私が宿題に頭を捻らせる隣で、スケッチブックに鉛筆で絵を描き始めた。だが、次第に秀斗くんの顔は険しくなっていった。そしてぎゅっと唇を噛み締める。


 「ダメだ、こんなんじゃ……全然届かない」


 スケッチブックの紙を破りとり、くしゃくしゃに丸めて後ろに放った。秀斗くんについてわかったことがある。秀斗くんは自分に厳しい。真面目な性格なのだ。私は頬杖をついて秀斗くんの様子を眺めながら呟いた。


 「うまく描けていると思うんだけどなぁ」

 「全然ダメだ」

 

 私の励ましをあっさりと切り捨てる。秀斗くんはいつも何かに追い立てられるように、焦っていた。私は少し首を傾げて尋ねる。

 

 「誰と比べているの?」

 「……大学で、一つ下にすごく絵の上手い奴がいるんだ。そいつに勝ちたい。いや、勝たないとダメなんだ。画家になるならこんな試練乗り越えないと」

 「そっか……」


 私は何も言えなかった。秀斗くんは目指す先のものしか見えてないのだと思う。そこに至るまでの最善策、最短距離しか見えていない。いや、見ようとしていないのかもしれない。私はそんな秀斗くんも好きだったが、秀斗くんはそんな生き方苦しいだろうなと思った。


 「俺自身が満足できない絵なんて売ることはできない。……俺は、よくて秀才だ。しかも俺の周りには、すごい奴がたくさんいる。だからさ、」


 秀斗くんはこちらを見て薄く笑った。


 「負けないように頑張らないとな」

 「すごいなぁ秀斗くんは。努力家なところも好き!」


 私は笑って、秀斗くんの背中に飛びつく。秀斗くんはそれを受け止めると、ため息を吐くように笑った。


 「はいはい」


 全然響いてなさそうな返事に、私は抱きついたまま唇を尖らせるが、それも長く続かずパッと笑って言う。


 「あ、そうだ。あのね、今度の小説はね」

 「まった」


 そこで秀斗くんは私をどうにか引き剥がすと、そっと人差し指を口に当てる。私はハッと息を呑みながらも少し頬を赤くした。そんな私に気づいていないのか、秀斗くんは少しだけ微笑んで告げる。


 「俺は楽しみにしてるんだ。ネタバレなんてしないで、まずは小説を読ませてくれないか」

 

 私は喜びを頬に浮かべると、いそいそとリュックに入れていたノートを取り出す。秀斗くんはそれを受け取ると、静けささえ感じる真剣な表情で読み始めた。私はドキドキしながらも秀斗くんの背にピッタリ私の背をつけて膝を抱えた。ビクッと秀斗くんの背中が揺れるが、私は気にせず鼻歌を歌う。この時間が一番好きだった。


 秀斗くんのことを考えただけで私は力が湧いてくる。好きだーって山のてっぺんで叫びたいくらい。幸せな気持ちになれる。だから、少しでも秀斗くんに何かを返したいのだけれど。いつも私ばっかりがもらっているような気がする。

 だから、大好きだよって気持ちだけは偽りなく彼に伝える。

 今の私に渡せるのはそれくらいだから。



 それに、秀斗くんが私にくれるものはそれだけじゃない。

 インクをぶちまけたみたいな、星の輝きも月も出ない夜。私は自室で机に向かっていた。ノートを開き、最初の言葉を書き始める。しかし、最初の一文を書き上げるまでに何度も消しゴムを使って決しては書き、消しては書きを繰り返す。私は思う通りにいかない現実に唸り声を出した。


 「どんなに頑張っても言葉が足りない気がする……あーもうどうすればいいのかな」


 私は最近というもの、毎晩遅くまで机に向かっていた。決して勉強するためではない。ま、それも大事ではあるだろうけどね。

 プロになれるのではないかという言葉には曖昧に接してしまったけど、秀斗くんが小説を読んでくれたあの日から、確かに私の何かが変わった気がした。書き溜めた小説を読んでもらううち、私の心はポカポカと温かくなり、微かな希望と勇気が芽を覗かせていた。

 夢中になれるようなアイデアが無限に溢れる水のように湧き出る時もあれば、全く枯れきって思い浮かばない時もある。そしてアイデアを言葉にするのは難しかった。時には悩み、時には絶望し、時には書きかけのノートを机に叩きつける日さえあった。

 

 でも、私は書き続けた。


「ダメかもしれない……」そんな声が迫ってくる時、私は決まって秀斗くんの言葉を思い出した。プロになれるとまで言ってくれた彼の言葉を信じたい。私は再びペンを取り、思い描く物語の世界に没頭することにした。


 そして、しばらくして。紡ぎ上げた物語が少しずつ形を成して、登場人物たちが胸の中で生き始めるのを感じた。苦労の連続ばかりだったが、同時にその時確かにときめきを感じたのだ。どんなに苦しくても物語を紡ぐ楽しさ。それを微かだが、確かに再確認した。追い求める先を見つけた気もしていた。

 私は今日もペンを走らせながらも思うのだ。秀斗くんにこれを見せたらどんな反応をするのかなって。それが私の一番のエネルギーの源だった。


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