夢追い人らよ

一夏茜

第1話

 私は蜂須、環。17歳。この春から高校二年生。夢はないけれど、毎日を楽しむことには自信がある。

 学校でも進路の話をされることが増えた。しかし、将来のことをこの時点ではっきりと決めている人は一体どのくらいいるのだろう。私はというと全く考えてない。好きなことを仕事にすればいいというが、私の趣味は小説を書くことだ。だが、私がそれを仕事にしている姿は一ミリも思い浮かばなかった。頭の中で何度もその場面を思い描こうとするが、どうしてもぼんやりとしか浮かんでこない。まるで霧の中にいるような感覚で、現実味が全く感じられなかった。

 学校の進路相談で、先生に将来の進路を聞かれたときも、私は答えに詰まってしまった。「特に…まだ決まってないです」と答えると、先生は優しく微笑んで「まだ時間はあるから、焦らずにね」と言ってくれた。でも、その言葉が逆にプレッシャーに感じた。小説を書くのが好きだけど、それを仕事にするなんて本当にできるのか。

 やってみなくちゃ分からないともよくいうが、やっぱり私には無理だと思う。とてもじゃないが私の書く小説が売れるとは思えない。

 お母さんにも『プロを目指すなんて』と、言外に無理だと言われている手前、言いにくいし。

 ……でも小説を書くことはやめられない自分がいる。書いている時だけは現実の重圧から解放されて自由に物語の世界を駆け巡ることができるから。数少ない趣味みたいなものかな。

 まあとにかく、将来のことなんて私にはまだ早い。それが私のとりあえず出した結論だった。問題を先延ばしにしたとも言える。



 どこからともなく春の息吹が漂ってくる季節。出会いと別れの季節だ。

 木漏れ日が屋根に映って穏やかな休日の朝。私は住んでいるアパートの前に座り込んでいた。

 年月を感じさせる二階建てのアパート。赤茶けたレンガ造りの外壁には、まるで絵画の一部のようにツタが緑色の糸を織りなしている。ところどころレンガが欠け、長い歴史を物語っているようだ。古めかしいながらも、その趣はどこか温かみを感じさせる。

 横に置かれた花壇にはピンク、黄色、オレンジ……色とりどりの花が咲き誇っていた。怪訝そうに歩んでいく人と目が合ったときはニコとして、それでもやめずに私は熱心に観察していた。歩んでいく人の特徴を手帳に書き出し、私の書く小説のネタにするのだ。これがなかなか楽しくて、変な目で見られてもやめられない。

 その時、一人の青年がこちらに歩んでくる。しゃがみこむ私に怪訝そうな顔をしながらも真っ直ぐこのアパートへやってきた彼は、何が入っているのか平べったくて大きな手提げ鞄を肩に下げて、紙袋を持っていた。彼は私より少し背が高く、風に吹かれて乱れた黒髪が自然なカールを描いている。白いTシャツにジーンズという飾らない装いだが、そのシンプルさが逆に彼の魅力を引き立てている。左耳に輝く銀色のピアスと、前髪に一房だけ入った青のメッシュが、無造作な外見に一種のミステリアスな雰囲気を醸していた。

 表情は冷たささえ感じる無表情。──でも、綺麗だと思った。その時、こっちをみた彼と視線が絡まる。その黒々と輝く瞳の力強さ。

 そのつり目気味の瞳が興味なさげにふい、とこちらから視線を逸らす。思わず私は息を呑んでいた。なぜだろう、特徴はあまりない青年なのに、目が離せない。

 そして彼は私の隣を通り過ぎてアパートに入って行った。私は慌てて手帳とシャーペンを持つと、彼の後を追いかけた。しかし少し遅れてアパートの中に駆け込んだ私は姿を見失う。私は彼を探すことにした。一階を見渡すと、階段を駆け上がる。

 そして、彼は見つかった。私が住んでいるアパートメントの部屋の前にいたのだ。私のお母さんと話していた。ちなみに私のお母さんは短く切り揃えた茶色の髪をした笑顔のほんわかした人だ。そのお母さんがニコニコしながらあの青年と話している。青年はお母さんに紙袋を渡した。

 

 「これつまらないものですが……」

 「あらまあ、こんなに気を遣ってくれて! 本当にありがとうね、嬉しいわ」

 

 彼は一礼して隣の部屋に帰っていく。空室だったはずの角部屋の扉がバタンとしまった。私は我慢できずお母さんに駆け寄り、尋ねた。

 

 「あの人誰?!」

 「隣に引っ越してきた美大生の奥野秀斗くんよ。画家を目指してるんですって。すごいわよね」

 

 思いもよらない言葉に私は目を丸くした。

 

 「画家!」

 

 画家を目指している人なんて今まで私の周囲にはいなかった。それは輝くような響きを持っている。

 私はずっとずっと隣の扉を見つめていた。奥野秀斗。そっと名前をつぶやいてみる。心がふわりと浮き上がるような感覚。心臓が激しく鼓動を刻み始める。頬がカッと熱くなる。

 初めての感覚だった。胸元をギュッと握りしめて私は目を輝かせた。

 


 数日後。鍋を持った私は隣の部屋のチャイムを押していた。しばらくして『はい』と返事がくる。

 

 「隣の蜂須です! お母さんから肉じゃがのお裾分けにきました!」


 少しの沈黙の後、扉がガチャリと開く。絵の具があちこちについたつなぎを着た秀斗くんが顔を出した。警戒した野生動物みたいに秀斗くんはドアノブを握ったまま、表情を変えず呟く。


 「……肉じゃが?」

 「はい、作りすぎちゃったみたいで……あ、私は環です! 環って呼んでください」


 私はニコニコしながら言った。秀斗くんは怪訝そうに眉間に皺を寄せると私をじっと見た。私は内心ドキドキしながら微笑んでその瞳を見返す。背伸びをして彼の後ろを覗くと絵の具の匂いがした。それに気づいた秀斗くんは無表情で扉を後ろでに閉める。

 

 「どうも、蜂須さん。じゃこれで」


 視線を逸らした彼はそっけなく呟くと鍋を受けとり、扉を開けて滑り込んだ。扉が音をたててしまる。

 その場に広がる沈黙に、自然と視線を落とした。嫌われてしまったかもしれない。

 私はちょっとしょんぼりして肩を落とすが、次の瞬間にはもう切り替えていた。私の取り柄はポジティブなところだ。もっとアタックしてみよう。


 

 それから私は秀斗くんにあらゆるアプローチをかけた。扉の前で待ち構えて話しかけてみたり、料理を作って差し入れに行ったり。それはほとんど意味がないようだった。警戒していた秀斗くんが次第に警戒心を緩めて、私の対応がちょっと雑になったぐらい。

 


 

 そんな風な日常が続いていたある日。鯉のぼりが青空に泳ぐ季節の日曜の昼下がり。

 暖かい日だ。穏やかでポカポカする春の日差しに誘われて、私はアパート花壇の前でこっくりこっくりと船を漕いでいた。メモ帳を持って人々を観察していたはいいが、眠気に襲われてしまったのだ。私としたことが不覚……!


 「なあ、おい。大丈夫か」 

 

 私は軽く揺り動かされて眠りから覚めた。ハッと横を見ると私の隣にしゃがみこむ秀斗くんがいた。呆れたような顔をしている。私は照れながら頬を掻いた。


 「えへへ、寝ちゃってた」

 「はあ……何をしてたんだ?」

 

 秀斗くんはため息を吐いてからゆっくりと立ち上がる。そして手を差し出された。私はその手を取って立ち上がる。……んー、まあ秀斗くんになら言ってもいいかな。


 「小説のネタ集めだよ」

 「小説? 小説を書くのか」


 秀斗くんは少し驚いたように目を見開かせた。私はそれをみて、少し恥ずかしげに笑う。


 「うん。楽しいからね、やめられないんだ」

 

 でも本音だった。小説は、私が感じたものを人に伝える手段だ。伝えなくちゃもったいない。世界はまだまだ私の知らない面白いもので溢れている。

 だってこの世界は、楽しい。

 そういうと、秀斗くんは目を細めてフッと薄く笑った。その瞬間、パッと世界が色づくようだった。


 「……チャラチャラしてるやつかと思ったけど、意外とはっきりしてるんだな」

 「なあにそれ」

 

 私はむくれたように唇を尖らせるが、我慢できず笑った。チャラチャラって、秀斗くんはそんなふうに思っていたのか。


 「あ、そういえば秀斗くんは絵を描くんだよね」

 「……そうだけど」

 「どんな絵を描くの?」

 「どんなって……」

 

 秀斗くんは戸惑ったように言葉を詰まらせる。


 「普通だよ。風景だったり、人だったり」

 「気になる! 見てみたい!」


 私は身を乗り出して言った。秀斗くんがどんな絵を描くのか。すごくすごく気になる。それに秀斗くんは少し考えるように視線を逸らすと、ぽりぽりと頬を掻いて控えめにこちらを見る。


 「まあ、見るだけなら……うちにあるけど」

 「え、秀斗くんの部屋!?」

 「大したものはないけど、もしよかったら……来るか?」

 「行く!!」


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