ビートルズなんか大嫌い
祐里
一九六六年、夏の終わり
夏が終わる。まるで飾られた額縁の中の油絵のような、のっぺりとした夏が。
「何でいつもバックでするの?」
「前に言ったろ。覚えてないのか」
「私の顔が好みじゃないから?」
「まあ、そういうこと」
「へぇ」と小さく返し、白いタオルケットを汗ばむ素肌に巻きつけた。どうせ他の女のことでも考えていたに違いないとわかってはいても、口にしても仕方のないことだと、心の中で毒づくだけに留めておく。
「またな」
◇◇
「
「別に」
「泣いてなくても、なんか沈んでない?」
「……前期の心理学の単位、取れる気がしないから」
伏し目がちな私に「へぇ」と
「確かに心理学はちょっと難しかった気がする」
「うん」
適当に返事をしてやり過ごす。九月に入ったというのに暑い中を歩いてきて、喫茶店内の冷房のおかげで汗は引いたが、喉がカラカラだ。
「授業中断されることもなくなったのに。……あ、注文お願いします」
私はそばを通ったウェイトレスに声をかけた。女性店員は無表情で注文を取り、厨房へと消えていく。
「ねえ佐和ちゃん、あの人、父親が資産家なんだって?」
「何? 誰の話?」
「歯学部の、夏休み前に学食でよく会ってた……えーと……」
「勝彦くんのこと?」
雅美は明るい笑顔になり、内巻きに整えた髪を触りながら「そうそう」なんてうなずいている。
「うちのサークルの先輩、知り合いなんだって。どこで知り合ったの?」
「飲み会に友達が連れてきたの。知らなかったからびっくりした」
「そんな出会いだったんだ」
「欲しければあげる」と言いそうになり、慌てて口をつぐむ。どうせ好きだの愛だのはない関係だ。おまけに本人自慢の性器は粗末なもので、女性にサービスするような性格でもない。雅美に下ろしてもいいのだが、私との関係は内緒にしておかないといけない。彼が嫌がるから。
「父親が資産家って言ったって、歯学部なんてそんなのばかりじゃない」
「まあね。でもハンサムだから」
雅美は名前も覚えていなかったくせに勝彦を気に入ったようで、彼の話ばかりしようとする。居心地が悪い。バックに流れているビートルズは好きではない。耳障りな音ばかりを、私の耳は拾ってしまっている。
「……ごめん、今日あまり時間ないんだ」
注文したエビピラフを食べ終えてすぐ、私は言った。雅美は「じゃあ帰る?」とにこにこしている。「うん」とだけ答え、自分の支払い分をテーブルに置いて喫茶店を出た。
◇◇
むしゃくしゃしている、自分でもわかっている。「佐和ちゃん」なんて本当は甘ったれた声で呼んでほしくない。でもそれを口に出すのも面倒で、待ち合わせには少し遅れるくらいできちんと行くようにしている。そんな自分に一番むしゃくしゃする。
「くそっ、いくら何でも八万はねえだろ」
パチンコ屋の前を通りかかった時に聞こえてきた、中年男性のダミ声。どうしてこうも耳を汚す音ばかりが聞こえてくるのかと、イライラが募る。
「あーあ、晩飯も食えねえよ、こんちくしょう」
男は、足元に転がっていた空き缶を蹴飛ばした。カン、カン、と甲高い音をさせ、私の足元へとやってくる。そこへパチンコ屋の扉が開き、店内でかかっているビートルズが漏れてきた。軍艦マーチではなく。どこもかしこもビートルズビートルズ。日本全体が流行に乗っているのが腹立たしい。
「んだよ、何か文句あんのかよ」
足元に転がってきた空き缶を眺めている私に男が絡んでくる。酔っているのだろうか、顔が赤い。
「わかった、おまえ勝ったやつ待ちだろ? たまにいるんだよ、そういうアバズレ」
男は、私のミニスカートをじろじろと見ながら言葉を続ける。彼は哀れな子羊なのだろう。賭けに負けるとその口を止められなくなる、とても哀れな迷える子羊。
男が近寄り、私の足を触ろうとして身を屈めた。その瞬間を狙い、私は右手を思い切り彼の顔に打ち付ける。パァンという、小気味好い乾いた音が響き、私の心は満たされた。そうだ、この音が聞きたかったんだ。
男は左頬を押さえて屈んだ姿勢を保っている。私はヒールの高いサンダルをカツッと鳴らし、駅へと歩き始めた。男が追いかけてくる様子はない。きっと高血圧で倒れているに違いない。
男の唾液のような液体が付着した手を駅のトイレで洗い流し、おざなりに据え付けてある小さな壁面鏡を見ると、すっきりしたいい顔が映っている。
私は駅のホームへ下り、次に来る電車を待つ。いつピアスを開けようか、涼しくなってからがいいだろうか、などと悩みながら。
ビートルズなんか大嫌い 祐里 @yukie_miumiu
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