花火と疑惑 2

「差し入れ? なーに?」


 床に座り込んだ詩織さんが、室岡に向かって細腕を上げている。


「差し入れだ、差し入れ」


 答えになっていないといった表情で詩織さんは首を傾げる。

床を素手で押し返して、彼女は軽やかに立ち上がった。

丸テーブルの前に行くと、水滴によって閉じられた袋を開ける。


「こっちは飲み物……こっちの箱は、なに?」


 茶色い長方形の箱を取り出して、白いテープで止められた蓋を開ける。


「んー、カツサンド?」


「そうだ。有名店オアシースのカツサンドだ。普通は手に入らないんだぞ。二時間も並んで買ったんだからな」


 いつもの虚無感がある表情とは違って、ずいぶんと得意顔だ。


 オアシースは、この街の洋食店でカツサンドが大人気だ。

カツサンドだけでも濃厚ソース、ハニーマスタード、デミグラスソース、マヨネーズソースなど種類が豊富だ。

仕入れている食材の質から値段が高いけれど、それに見合った味を出している。

裏メニューとして、うなぎを使用した謎の創作料理があるが、とても同じ店の物とは思えない味だ。

母が店の従業員と知り合いで、時々、リビングのテーブルにカツサンドが置かれていることがあった。


 鼻息を大きく吐き出して、俺たちを見渡している室岡は感謝と賛辞の声を望んでいる。

彼が待っている言葉は、真夏に拐われてしまうとも知らずに。


「ほら、遠慮するなよ。どんどん持っていけ」


 床に小さな雫を落として室岡は飲料を配る。


「ありがとうございます」


「あざーす」


「ありがとうございます。ごちそうさまです」


「あり……がとう……ございます」


 全員に飲料が渡ったところで、乾杯するか!と室岡は意気揚々としている。


 突然、詩織さんの声が部室内に響いた。


「待って!」という声で、メンバーの手を止める。


「ムロムロ……なんかした?」


 少しばかり顔を歪めて、詩織さんは懐疑的な思いを口にしている。


「な……なんかって……なんだよ」


 口が蛸のように動いて、早い瞬きを繰り返していた。


「んー、だって変じゃん」


 自身の顎を親指と人差し指で挟む。

小さく首を傾げて名探偵を気取る。


「へ……変って……なんだよ?」


「ムロムロ……顧問やりたくないって言ってたのに。急に差し入れっておかしくない?」


「そ……それは、お前……」


「――なにか入れたの?」


 室内に緊張の糸が張り巡らされて、練習後の余韻があった空気は一変する。

美波は室岡の実態を知っているかわからないが、少なくとも俺、凛花、悠馬は彼の怪しげな行動を目の当たりにしている。


「な、なんだ……よ? 入れるって? 飲み物にか?」


「――うん。例えば体液とか薬物」


 俺は驚きもせずメンバーを一瞥すると、各々の反応があった。

凛花は下を向いて飲料の口部分を摘み上げている。

ペットボトルを振って、底部分から中身を覗いている悠馬。

体液という言葉にひどく顔を歪めている美波は、隣りにいる凛花と室岡の反応を窺っていた。


「体液……? そ……そんなこと……するわけないだろ」


「えー、でも……ムロムロならやりそう。実際にそういう事件あるし」


 確かに。実際に起きた事件として、俺が知っているだけで数件あった。

例えば、職場の冷蔵庫内に置いてあった飲料に、自身の体液を混ぜるという性癖を持った人物がいたようだ。

もちろん、発覚した時のことであって、余罪は多いにあるだろう。

事件化されていないだけで、その男性の体液を体内に入れてしまった女性は他にもいるはずだ。

世の中には、己の欲望で相手を傷つけることを厭わない者がいる。

それは、室岡も同様なのかもしれない。


「い、入れるわけないだろ……!」


 真っ黒な瞳は白くならない。


「ふーん。じゃあ、どうして? 急に差し入れとかしたの。この中では一応年上だから、みんなを守らないといけないんだよー」


「そ……それは……」


 白衣の裾で起こっていた蛇の動きが、室岡の頸椎に移動している。


「なーに?」


「お前らの……演奏を聴いたからだ」


「え……? 演奏?」


「そうだ……最初は、うるせえなって思った……けどな。練習している、お前らの姿を見て……だんだん応援したくなった」


「応援?」


「と……とにかく、俺はなにも入れてない!」


 白衣のポケットに手を入れて、鳥の巣のような頭髪を俺たちに見せつけている。


「ふーん。そっか――」


 疑ってごめんね、謝罪を口にした詩織さんは飲料のキャップを開栓して喉に潤いを与える。

飲むのか……。

俺たちは、その様子を見ていただけで口にすることを躊躇っている。

懐疑心を持ち出したのは詩織さんであったはずなのに、箱のカツサンドに手を伸ばす。


「おー、おいしそう」と、表面が綺麗に焼かれたカツサンドは厚い。肉汁を保つカツ、新鮮で歯ごたえのよいキャベツ、酢漬けの玉ねぎがアクセントになる。


 冷めてもおいしい、と評判のカツサンドに彼女の唇が沈む。


「わ……おいしい! マスタードソース!」


 すっかり開かれてしまった箱をメンバーに向けてて味を堪能している。


「ほら、みんなも食べなよー。おいしいよー」


 室岡の発言に疑惑を向けた当の本人は、先程のことを忘れてしまっている。

ゆっくりとした咀嚼を繰り返して、厚切りのカツサンドを配る。


 俺たちは目配せをして、一応は差し入れをしてくれたという善意に報いようとする。

そこには各自の礼儀があったのだろう。

しかし、俺たちが持つ義に付け込まれることもある。


 不確かで怪しげな疑惑が残るカツサンド、眉をひそめてメンバーは口に運ぶ。

複雑な表情……太陽の下を歩かない真相とカツサンドの美味しさから生まれている。

意を決してカツサンドを口に入れると、カツの軽快な音が口内から脳内へと伝わる。

食べた断面から滴るマヨネーズソースを俺は見つめた。


 満足気に頷いた室岡は「俺にもくれ」と、口いっぱいにカツサンドを詰め込む。


 頼む……。

あなたに唯一の良心があって、俺たちの背中を押したい気持ちが本物であると信じたい。


 俺は哀れんだ目で、有名店のカツサンドを慰めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あすの空、きみに青い旋律を 陽野 幸人 @yukito-hino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ