Tower

三茶吾郎

Tower

 ボクは宙に浮いていた。いや落下していた、の方が正しいか。ともかくなんだか分からないがそんな状況に陥っていていた。なぜこうなっているのかは検討がつかない。それでも頭を捻って、これまでのことを思い出そうとする。しかし、こんな状況で脳が上手く機能するわけがなく、それでヤケになって追い風にただ身を任せた。優しく撫でるような風だった。穏やかでひんやりとしていて気持ちが良い。まるで自分はソメイヨシノの花びらで、散って、ゆらりゆらりと土へと向かっていってるようだと思った。そう考えると凄く心地が良い。しかしそんな気分も束の間であった。

 

 ゴツン。派手に頭部を強打した。激しい振動が脳を襲い、太い血管を何本か損傷したんじゃないかって思うほどの疼痛が、意識がフワッと飛びそうになるほどの目眩がやってくる。

 

 ストン。今度は臀部でんぶをぶつけた。肛門切れたんじゃないかってほどヒリヒリとしてくる。次に用を足した時は血の一滴や二滴流れ出てくるだろう。そう確信するぐらいには痛い。

 

 バタン。裸のかかとを地面にめり込むほど勢いよく打ち付けた。きっと皮膚をめくったら踵骨に深く大きなヒビが入っているだろう。

 上半身を起こす。そこからすーっと尻を浮かせたが、身の重みが踵とへと行き、強烈な激痛が襲ってきた。一度さっきの状態に戻そうと勢いよく座り込んだが…


「うっ…」

 

 ボクは小さく唸った。臀部もさっきので痛めつけてしまっていたことを完全に忘れていた。これなら踵の痛みの方がまだ耐えられると、おもむろに立ち上がる。すると今度はふらっと立ちくらみがくる。バランスを崩し、そのまま転倒にしそうになるも、なんとか持ち堪えた。

 

 そうしてやっと異変に気づく。ボクは何者だ?記憶がない。なぜ落下していたのかもそうだが、それ以前に自分をに関すること全てが思い出せない。自分の過去、年齢、口癖、利き手、家族構成、自分の名前すら思い出せない。何度も頭を巡らせたがただ時間と労力を無駄にしただけでこれといって何も出てこず、途方に暮れる。それでやっと辺りを見渡した。

 

 全方向、白いペンキ塗りの壁に囲まれている。ここは塔か何かなのだろうか。窓はひとつもないというのに明るい。出口もなく、完全に閉じ込められている。上を見上げると永遠に続いてるんじゃないかってほどのコンクリート剥き出しの手すりのない螺旋らせん階段が続いていて、天井が見えない。強い光が差してきているのでガラス張りなのかもしれない。


 もしや愉快犯がボクをここに閉じ込めて衰弱していくのをひっそりと隠されているカメラ何かで傍観しようとしているのかもしれないという考えが浮かぶ。有り得るかもしれない。しかしだとしたらこの階段は何だ?なぜ塔に閉じ込める必要がある?もっと狭く監視しやすい密室の方が良いではないのではないか。そう考えると余計訳が分からなくなってきた。一度それらを全てを頭から排除し、再び視線を巡らせる。するとあの長い螺旋階段の前、右側の壁に貼られている金属板が目に入った。それにはここからでは読めないが文字らしきものが彫られている。ボクは踵のズキズキとした痛みに耐えながらその金属板の方まで歩み寄ってみた。


『あなたのお忘れ物はこの先です』という文字と、左端に斜めの矢印。

 

 やはり愉快犯の仕業にしか思えない。きっと今頃カメラ越しにボクの反応をみて嘲笑しているに違いない。記憶を失っているのも奴が医学に精通した者で、その知識を使って抜き取ってしまったのではないか。だとしたらこの階段を登るのは相手を思う壺ではないかと思ったが、それなのにボクは自然と石段に一歩足を踏み出していた。そして二歩三歩と上っていく。なぜ誘導に乗ってしまったのかは分からない。もしかしたらヤケになってていたからかもしれないし、この先に出口があるかもしれない淡い期待があったからかもしれない。


 手すりのない恐怖感、石段のゴツゴツとした感触とヒヤリとした嫌な冷たさを噛み締めながら上り進めている、はずなのだが全く進んでる感じがしない。天井が見えてくることさえない。まさに無限階段。ボクは一生上り続けなくてはいけないのではないか。それだけは嫌だ。早くここから出たい、そう思うばかり。


 時々、足の疲労と踵の疼きで立ち止まる。ボクはあまりに運動をしないタチの人間だったんだろうか。じゃないとこのぐらいでへたることはないだろう。今度は水分を補給したくなってきた。喉がカサカサで気持ち悪い。まだか、まだなのか出口は。そもそも出口なんてあるのだろうか。現れるとしたら出口ではなくきっと頂上だろう。地下に建てられるものでもない限り。


 そうこう考えていると、あるものが目に入った。それはこの白とグレーだけの色のない世界には異質とも不似合いとも言えるほど色鮮やかで、そして少し高級感のある木製の額縁に入れられている。芸術などに微塵も理解を示さない者には名画だと捉えられてもおかしくない。ボクはそういうのに造詣が深かったのかは分からないが、それをみて酷い嫌悪感、不快感がフツフツと浮かんできた。


 その絵は夕暮れ時の誰もいない教室、深緑とした黒板とその方向に向かって並ぶいくつもの机と椅子を描かれた、至って普通の室内画だが。ボクには地獄の光景にみえた。これの傍から今すぐ離れたい。そう思うのだが目が離せない。なにかに取り憑かれたように筆先の跡まで追ってしまう。やがてどんどん絵に吸い込まれる気がして……。


 い、痛い。さっき強打した時よりさらに強烈な痛みが唐突に頭を、いや脳を襲う。変に思考を巡らせすぎたせいか脳内で大噴火が起きて、その振動でいくつかの細胞や血管を破壊してしまったんだろうという訳の分からない空想が頭に浮かんできたり、あまりの頭痛の辛さに涙がポロポロと流れてきたりしてくる。そしてやがてだんだんと視界もぼやけてきて……。



 うーん、なんだが今度はガヤガヤと騒がしい。寝惚け眼をこすりながら机に押し付けていた顔を上げる。ここはどこだ?ああ、そうだ。学校の教室だ。多分は今は授業合間の休み時間。周囲を見渡すとひと目でわかるほどはっきりといくつかのグループに分かれている。だが自分はそのどれにも入れていないし、誰一人僕の方へと近寄ろうともしない。それもそうだ。僕は完全に浮いている。去年の春、小学校六年の初めにやってきて、もうあと二週間で卒業だというのに友達という友達が一人もできてない。別に特段、迫害を受けているというわけでもない。ただ馴染めてない。ここにいると生きてる感じがしない。根本的に自分だけなにかズレている。歯車がワンテンポ早く廻ってしまったり、ツーテンポ遅く廻ってしまったり、だからここにいる時間は苦痛だった。出来るだけ早く帰宅して、ふかふかのベットに飛び込みたい。それでヘッドホンで耳を塞ぎ、ガンガンに音楽を流して、その音に聴き入ることに没頭したい。学校にいる半日はそればかり考えていた。


 はあと深いため息をつき、机に右肘をつけて、窓ガラスから誰もいない殺風景な校庭を覗いていると、一人僕の前にやってきた。僕はふとそいつを一瞥した。丸い眼鏡に色白な肌、威嚇するような目をしている。確か名前は……玲子れいこ。苗字は覚えていない。いつも一人読書に勤しんでいる印象だ。こんな子がまさか自分に用があるとは思わず、僕は再び遠望に耽る。そしたら玲子が顔近づけてきて、ずーっと睨んできた。


「なんか用ですか?」


「柚々原君だっけ?あんた、いつも一人ね。寂しくないの?」


「その言葉、そっくりそのまま返します。それに別に僕は寂しくないですよ。もう慣れましたし」


「嘘つき。本当は集団に入りたくてしょうがないんでしょ?言っとくけど私はあんたと違うから本当は集団にも馴染めるし、でもそれが面倒臭いから。馬鹿らしいから。入っていかないの。だってほんとに馬鹿らしいじゃん、あんなに騒ぎ立てて」と玲子は周囲にも聞こえるぐらいの声量で言う。だが幸運なことにも皆自分たちの会話に夢中らしく、玲子の言葉など耳には入ってないようだ。


「あんた、自分が転校生だから、六年になって来たんだから馴染めるはずがないって思い込んでる、そうでしょ?」


「そ、そんな──」ことないと言おうとしたが、喉に突っかかる。玲子はその様子をみてつまらなそうな顔をして去っていった。


 

 それからあっという間に二週間が過ぎて、特に思い出もない校舎を去ることになった。そしてそれから半月で中学生にクラスアップしたがあまり実感はないし、やはり馴染めていない。かと言って小六の時みたいにろくに友達ができてないわけでもない。でもなんというか合ってない。自分と価値観が合ってない奴と無理に絡んでいる。またあの時のように孤独になりたくないという恐怖感、それ故に取り繕っている友好関係。窮屈だ。これならいっそ孤独の方がマシな気もしたが、一度作り上げた関係を壊す勇気は僕にはなかった。


 そんな虚しい日常過ぎ行く中で一つ吃驚仰天な出来事が起こる。


 それは移動教室で隣の教室の前を通り掛かった時のこと。あの一匹狼、ナイフのような視線を他人に向けたり口をいつも固く閉じていた玲子が、男女七八人のグループの中心となって、あれやこれやと話題を振ったり、男子のボケにアハハと大笑いしたりしているのを目撃してしまったのだ。自分が知っている玲子とは全くの別人で僕は酷く困惑した。あんなに馬鹿にしていたのに……本当は自分が集団に入り込みたかったんじゃないかと失望のようなものが感じながら呆然と立ちすくんでいると、玲子がちらっとこっちへ向いてきて目線が合う。するとニコリと愛らしく笑い掛けてきた。それに僕はぎこちない笑顔で返す。玲子はまた集団に戻っていく。


 僕は歩行を再開するが、脳内はさっきの玲子の笑顔が何度も反芻はんすうして、だんだんとそれがおぞましいものに感じてくる。もしやあれは嘲笑で、それをするだけのために、僕を貶めるためだけにあんなことをしていたのではないか。あの時突然あんな言葉をかけてきたのもこの時のためだったのではないかとか、ありもしないことがいくつも浮かんでくる。教室に着いて授業が始まってもそんな感じだから、頭痛が酷いと仮病を使って保健室へと逃げ込んだ。養護教諭ようごきょうゆの暖かい言葉を耳障りに感じながらベッドに入り、布団を頭まで被る。暗闇の中でまた先のこと思い返す。僕もあの子みたいになりたいけど無理だ。一生このままひとりぼっちなのだろうか。他人と壁を感じて、心を閉ざしてしまうのだろうか。そんなこと考えながら枕を濡らしていると、瞼が重くなっていき……。


 

 ハッと目が覚める。僕は脚を折り曲げて、膝を床に押し付けている。あれは夢だったのか?それにしても嫌な夢だが……夢にしてはリアル……やはりあれは過去の記憶か。それであの少女は僕のことをゆゆはらと呼んでいた。ゆゆはら……たつろう……そうだ、柚々原達郎。それが僕の名前だ。思い出した。しかしそれぐらいしか浮かんでこない。その事実に悲観しながらも、おもむろに立ち上がって再び上り進める。


 それから数分ほど経って、また新たな絵画が壁に設置されている。描かれているのは食卓と、それの前に向かい合って置かれている四つのチェア。ごく一般的なダイニングルームといった感じだ。なのにこれもまた目を背けたくなるほどの嫌な感じがしてならない。これも僕の記憶になにか関係があるのだろうか……でも何も思い出せない。思い出せ。きっと頭の片隅にこれに関係する何かが残っているはずだ。だが真剣にその絵を見つめていくほど分からなくなってくる。脳を酷使したせいかズキズキ傷んできた。いや違う、これはきっとそういった類のものではない。これは儀式。さっきもそれで……アァーまた吸い込まれていく……



「ねえ!聞いてるの?」と母が問いかけてきた。母はまだ三十代だというのにしわも白髪も多い。それとひどく肥えており、頬が脂肪の重みでたるんでいたり、二の腕もボンレスハムみたいだ。


「え?なんだっけ?」


「だからこんな点数で高校どうすんのって。来年でもう受験生だよ。こんな点数じゃどこもいけないよ」母はテーブルに紙をバンと叩きつける。それはバツの多さが目立つ、数学のテスト用紙。二十一点と採点されている。思わず自分の頭の悪さから逃避したくなり、目を背ける。


「大丈夫だよ。来年になったら真面目に勉強するからさ」


「来年からやり始めても遅いの。今から、じゃないと」


「だから大丈夫だって」


「再三言うけど来年でもう受験生だよ。もうちょっと危機感持ってよ……。それとさぁ、今朝お母さんが帰ってくる前までには米炊いといてって言ったんじゃん。なんでやっといてくれてないの?飯遅くなるんだけど」

 

 失言するんじゃないかという危惧の念を抱いて、何も発せない。いつもこうやって母親と向かい合って話すと、恐怖感に悶えて、しまいには泣き叫ぶ。もはやその様は阿鼻地獄のようで……


「謝ることもできないの?」


「ご、ご、ごめ──」んなさいと言い出したいがやはり言葉に詰まる。こんなことも口にできない自分に対して腹が立ってきた。殴り飛ばしたい気分だ。


 母はただゴモゴモとしている僕に嫌気が差してたのか、ひどく酷く乾いた眼差しを向けてきた。そして深いため息をついたかと思えば、突然バーン!とテーブルを強く叩きつけて腰をあげた。それでこっちへドスドスと音を立てながらやってきて、無理やり僕の腕を掴んで椅子から引き離す。なんとか振り払おうと必死にジタバタと体全体を動かして抵抗するも僕の貧弱な体ではどうにもできず、ズルズルと引きずられていく。リビングへと出て、窓際まで来た。母はガラガラと窓を開ける。僕は咄嗟にかまちにしがみついたが、脇腹をがっしり掴まられて、そのまま庭へと投げ飛ばされる。そのままバタンと閉められてしまい、クレメント錠もロックされてしまっていて、母の機嫌が収まるまでひたすら待つしかないと悟る。


 外は冷気に包まれていてそれが体をむしばんでいく。薄着なせいか余計寒く感じる。はあと息を吐くと白い霧が現れた。早く暖かい所に、家の中に戻りたい。布団に覆い被さりたい。温かいココアを飲みたい……ああ寒い。ポツリと白い小さな粉も降ってきて、それを掴もうとしたが手のひらに触れるとあっという間にジュワリと溶けしまった。僕は一生このまま野放しにされたままのだろうか。そのうちに存在すら忘れられて、やっと見つけられた頃にはもう凍死してるんじゃないか。そもそもなんで怒られたんだ?こんな仕打ちを受けるほど酷いことを自分はしたかのだろうか。そんなことを考えていると……。


 

 気がつけば目の前に木目の天井があって、それがこちらに迫ってきているような感覚に陥る。所々ある黒い斑点は人間を押し潰すことでできた血痕に思えてきた。恐ろしい。僕は思わずベッドから飛び降りた。するとあの錯覚からは離脱することができて、それでやっと、ここはどこだ?と視線を巡らせ始めた。部屋の広さは八畳ほどで、タンスにしまわずに放り投げられてできた服の山、棚から出してそのままの漫画や小説、ごちゃついたゲーム機のコード類、ホコリの被った電子キーボードなどが目につく。ああ、なんだ自分の部屋じゃないか。なに寝ぼけてるんだ。そういえば変な夢をみたな。中二の時の嫌な記憶、それを繊細に復元したような夢。母はあの時ほど厳しくなくなった。しかしそれはそれで怖い。またあの時のようになってしまうのではないかという不安感がジリジリと襲ってきて、胸焼けをする。ああ、もう起きてても嫌なことしか頭に浮かんでこない。もう一度眠ることにしよう。そう思って、僕はベッドに飛び込んだ。そして足元にある布団をグイッと引っ張り出して体にかけ、深くため息をして目を閉じた。一種の気持ちよさを感じながら微睡んでいると、気分をぶち壊すようにロックもなく誰かが部屋に入ってきた。上半身を起こしてみると、目の前に母が静かに立っていた。


「あんた学校行かないの?もう高二だよ。スクーリングなんてもう一年近く行ってないじゃない。レポートすらまともにやってないんでしょ?」


「行くよ」


「こないだもそう言って行かなかったじゃない。行かないならお金の無駄だし、退学したら?でも学校辞めたとしたらすぐ働いてもらうから。今みたいな生活を送るのは許さないからね」


「学校も辞めないよ」


「ならちゃんと行きな。それと部屋の掃除もしなさい。少しづつでもいいからさ。いらない服とか物とかを捨てるぐらいやりなさいよ」


 うんとだけ返して、母から顔を背けるように体を横に倒す。それからしばらくしてから後ろ手にバタンとドアが閉まる音が聞こえた。母がいなくなったことに安堵して再び眠り入ろうとするが……


『オマエガ疎マシクテショウガナインダ、オマエノハハオヤハ』


 誰だ、今僕に話しかけてきたのは……。き、気のせいだろうか。きっとそうだ。この部屋には僕しかいないはずだ。


『オ前ガ疎マシクテショウガナインダ、オ前ノ母親ハ』


 やっぱり僕に誰か話しかけてきている……。母が僕を疎ましく思っている…?そんなわけ──いや思われてるだろう。悲しいが事実だ。最近はしつこく家を出てけと言われているし……。


『ソウダ、オマエハ母親ニトッテ疎マシイソンザイ。シカシソレダケデハナイ。コロシタイトモ思ワレテイル。明確ナ殺意ガソコニアル。ダカラ──』


 だからなんだ?まさか大人しく殺されろというのか?それは無理だ。死にたくない。殺されるなんて嫌だ。それも相手が母なら尚更。


『コロサレタクナイナラ、オマエガデキルコトハヒトツシカナイ。殺ラレルマエニ殺ル、ソレダケダ』



 目をカッと開く。僕はまた石段に座り込んでいる。ふと思い出す、『殺ラレルマエニ殺ル』というあの悪魔のような囁き。本当に僕は母を殺してしまったのだろうか。確かに母は僕のことを目障りだとは思っていただろうが、さすがに腹痛めて産んだ実の子に殺意までは抱くほど野蛮ではないはずだ。だがあの時の僕はそんなに妄想に囚われるほど精神的に追い込まれていた。本当に母を手にかけてしまったのではないか、そんな不安に駆られる。


 とりあえず進まなくてはと思って、土から生えてくる草木のようにニョキニョキと立ち上がった。そして一段一段噛み締めるようにゆっくりと上っていく。するとまた絵画が出現する。描かれているのは寝室だろうか、暗闇の中にひっそりと真っ白なダブルベッドがある。それだけなのに酷く陰鬱な雰囲気が醸し出されていて、みているとなぜか悪寒が走ってくる。それと同時に額から汗が吹き出る。その水滴が下顎まで流れ落ち、しばらくそこでぶら下がるが、やがてポタリポタリと滴って石面に染みてゆく。


 視線を絵画へと一点に集中していると、また意識が朦朧もうろうとしてきて……。


 

 あれ、僕は何をしようとしてたんだけ?なんでこんな深夜に、それも廊下の真ん中で棒立ちしているんだ?それに右手には懐中電灯。別に尿意が催しているわけでもないし、食欲が湧いているわけでもない。じゃあなぜ?


『忘レタノカ。オ前ハ、母ヲ今夜殺スンダ。殺ラレル前ニ』


 そうだった、僕は母に命を狙わっているんだ。だから自己防衛のために、殺られる前に殺ろうという苦渋の決断をし、こうして今両親の部屋の前まで来たんじゃないか。なぜそんな大事なことを忘れてたんだろう?ここ最近睡眠もまともにとれてなくて脳に酸素が回ってないのかもしれない。なら尚更早く実行しなくては……ああ、大事な物を忘れていた。包丁がなくてはいけない。体を百八十度回転させ、キッチンの方へと足を運ぶ。するとガーンと小指をどこかぶつけてしまった。とてもつもない激痛に襲われ、思わず声をあげそうになるが口元をぎゅっと押さえることで事なきを得た。小指はまだジンジンと痛んだがそれを気にしてしている場合ではないと、進行を再開する。足元は一段と慎重に確認した。そうしてやっとシンクの前へとたどり着き、その下にある収納棚の扉を開く。すると扉の内側に包丁が数本ホルダーに差されており、一番左にあるのを一本すーっと取り出してまた扉を閉じる。そこから来た道を戻りつつ、ふと脳裏に浮かぶ。なぜ僕は母を手にかけようとしているのか?本当に母は僕を死に至らしめようとしているのか?考えれば考えるほど分からなくなってくる。いやそんな難しいことじゃないか……答えは簡単。目的は明瞭だ。殺られる前に殺る、ただそれだけだ。


 気がついたらまた両親の寝室の前まで来ていた。深く空気を吸い込んで肺に溜め込む。今度はパンパンに膨らんだ肺を完全に萎ませるようにはあーと吐き出し切る。ドアノブに手をかけて、そのままゆっくりと右へ回転させて引いて、素早く室内へと侵入した。しかし手元にあった懐中電灯の光で目が覚めてしまったのか二人がモゾモゾと動き始める。しまったと思いながらも今しかないと思い、勢いよくベッドへと飛び込んだ。まず狙ったのは父だ。きっと母の共犯者に違いないし、僕よりもはるかに大きい図体をしていて力もあるから、母より先に始末した方が良いと判断した。うつ伏せの状態から顔を上げようしていたところを襲撃。幾度も包丁を背中に突き刺し、血しぶきが赤い薔薇の花びらのように散って、僕の手や頬、着用しているシャツにまでべっとりと付着した。父は呻き声あげて電流が走ったように体を揺らしていたがだんだんと動きが弱くなっていき、やがてぱったりと止まった。あまりにも呆気なく、殺人を犯した感じがしない。いやそれもそうだ。本命はこいつじゃなかったんだから……。そういえばあいつはどこに行った?さっきまで横にいたはずなのに……。どこだ、どこに逃げた?足元に置きっぱなしの懐中電灯を取り出し、左右に振るように照らしていると、ガチャリという音が聞こえてきた。すかさずドア側へとライトを向けると、母が這い蹲りながらドアノブに手をかけていた。母が振り向き、顔が合う。するとヒッと酷く声を震わせて立ち上がり、ドアを潜って廊下へと逃げていく。僕は猛獣のように怒涛の勢いで追いかけ、あっという間に追いつき、取り押さえる。そして包丁の刃先を向ける。


「お願い殺さないで……何でもするから……達郎はこんなことする子じゃなかったでしょ……。優しい子だったでしょ……」母は諭すように慈悲を嘆願する。


「うるさい、黙れ。黙れ。黙れ。黙れ!!僕のことを裏切ったくせに今更そんなこと言うな!」   

 

 僕はさらに刃先を近づける。だが今更手が震えてきた、そのまま包丁を落としてしまいそうなほど。手首をぎゅっと掴むことでなんとか固定することができた。


「お母さんはあなたの味方よ。裏切るなんて絶対しないわ」


「嘘つき。嘘つき。嘘つき。嘘つき。嘘つき。嘘つき!!」


 すーっと母の頬を浅く切った。すると黒みがかった血が流れ出てくる。実の母親が血を流しながら命乞いをしてくる、そんなシチュエーションに僕はサディスティックな快感を得て、ついにはニンマリと口角を上げて、雄叫びすら上げてしまうほど興奮してしまった。それをみて母は困惑の表情を浮かべる。


 今度は左太ももをブスり。母が苦悶し喘ぐのをみて、さらに僕は吠える。脳汁がドバドバと溢れ出てくる。もっと痛めつけて、快楽に浸りたい。もっと刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して、流血を観察したい。もう反撃とか復讐とかそういうのではない。僕の変態的趣味、嗜好を満たすためにやるんだ。そう考えるとひどく気乗りした。


 そんな一種の幸福感に浸りながら、次は右腹部をグサリと刺した。皮膚を突き破り、肉、そして骨にまで到達する感覚は心地良かった。抜き取ろうとすると黒血が濁流のように漏れ出てきて、廊下にその液体と、鉄のような匂いが充満する。母は腹の傷口を必死に抑えながら穴が開くほどこちらを凝視してきて、それが腹ただしく感じ、僕は顔面を力いっぱいに蹴り上げた。その勢いで母は倒れ込む。僕は馬乗りになって、切っ先を胸元突きつけた。母は微かな声でやめてと言うが、もはやここまで来てやめるつもりなど微塵もない。じわじわと先端を内部へと食い込ませていく。奥へ奥へと行くごとに母は甲高い絶叫を響かせるが、やがてただの唸り声になっていき、そして……


 プツリとそこで場面は途絶え、またあの螺旋階段で目覚める。僕はビッショリと汗をかいていてシャツにも染み付いていた。


 さっきのことがワーッと頭の中を駆け巡る。殺ってしまった……。根拠の無い妄想に囚われ、実の両親を殺めてしまった。とんでもないことをした。重罪を犯した。どうしてこうなった?僕のことを気にかけてくれていた良い母をなぜ……悔やんでも悔やみきれない。あんな残虐な方法で……もはやあれはただの快楽殺人だった。己の欲求を満たしたかっただけに思える。忘れてしまいたいのにあの慈悲を嘆願し嗚咽する姿や猿のように興奮する自分、どんどんと広がっていく血溜まりなどを何度も反芻してしまう。父の処理方法も卑劣極まりなかった、背後から幾度も……あれは虐殺だ。本当に自分がしてしまったことなのか疑いたくなる。ただの夢だったんじゃないかと思ったが、にしてはあまりにも鮮明すぎた。じゃあ妄想だったのかとも考えたが、尚更有り得ないと結論付けた。


 後悔の念に苛まれている状態でもまた階段を上っていかなくてはと思い、気乗りしないが足を動かし始める。これ以上、何を掘り起こせばいいと言うんだ。もう全てを失ったではないか。きっと次に取り戻すのは警察に尋問をかけられている記憶に違いない。そんな記憶取り戻す必要はあるのか?そう思いながらもやはり止まることはしない。いやできない。もはやこれは自分の意思など関係なく、不思議な力で導かれているのだ。


 なんだか一段と時間の流れが長く感じて苦痛だ。早くここから出たい。いやそもそもここはどこなんだ?監獄か?夢か妄想か、はたまた彼岸か……だとしたらここは無間地獄だなと一人でぼやいていると……女が……丸裸の女が……席弾に座り込んでいた。その様子は優雅で気品がある。シュッとした顔立ちに誘惑するようなつり上がった目、薄い唇はほのかにピンクが彩られていて、正しく美人といった感じだ。それと呼吸する事に膨らんだり萎んだりする、豊満な乳房と程よく肉付きのある、むっちりとした太ももなどが目につくがなぜか性欲はそそられない。


 女と目が合った。その瞬間に思う、ああ僕はコイツが苦手だ。なんというか視線に重圧感がある。そのビー玉のように透き通った瞳の奥には自分以外の人間全員を従えたいという、支配欲にみなぎっているように思えた。


「なに?また来たかと思えば、ジロジロと見てきて、やめてくれる?はっきり言って気持ち悪いから」


「そ、そんなつもりはなかったんだけど……」


「まあいいわ。それで思い出したの?私のこと」

  僕は首を横に振る。それをみて女は深くため息をつく。


「通信制の高校に入学したはいいけど結局通い続けられなかったことは?ついには人間不信になって両親を手にかけたこととか、そんぐらいは思い出せたでしょ?」


「まあ、うん。なんであんなことしたんだろうって酷く後悔してる……」


「そうには見えないけど?むしろ内心ホッとしてるんじゃない、殺せて」


「そ、そんな──」


「そんなことない?笑わせないでよ。だってあんなに疎まれて、迫害されて、殺してもやり切れないでしょ?私、知ってるんだから」


「僕の何を知ってるというんだ!!」僕は声を荒らげる。


「あなたより知ってるつもりよ。あなた、自分の記憶が欠陥してるの忘れた?」


 なんだかムカムカとしてきた。憎たらしい言い回しと、僕にとって不都合な話ばかり切り出してくる。それが腹ただしい。ついにはコイツを始末したいという強い衝動に駆られ……。


 僕は両腕を前に突き出して、後頭部を席段に叩きつけるほど女の首をグッと掴み、ググッと締め付けていく。もはや二人も亡き者にしてしまったのだからそれが一人増えたところでと考えていた。殺人に魅了され、変態的趣味を開花させたどころか、自分で求められないほど欲求が高まっていた。

 女の顔はどんどんと赤く染まる。ゴホゴホとむせ返りながら女は微かに発した、「サイテー」と。その一言を聞いて……頭をガーンと棍棒で叩かれたような痛みに襲われる。あまりの苦痛さに頭を抱え、鈍く唸り声を上げた。それを女はキョトンとした様子で見ている。


 そんな状態でもまだ僕は絞首したい願望が強くあり、弱々しく左腕を上げ、女の首を撫でるように触るが……意識が……吸い込まれていく……。


「サイテー」


 そう柚々ゆゆは僕に首を絞められながら微かに、だが力強く発した。なんでそんなことを言われなくちゃならないのか不思議で仕方ない。お前はこんなことされるぐらいの所業をしてきたではないか。お前は生来の切れ者であり、何事に対しても一定の成果を出せるような多才でもあった。それに比べ、僕はこれと言った才能を持ち合わせておらず、それどころか何事に対しても劣っているような奴で、両親から可愛がられるのはいつもお前だった。お前は僕が得るべきだった愛まで奪った。そのくせ僕のことを見下してきて、酷い時は暴力までしてきた。学校の友達がうちに連れてきた時なんて、「○○ちゃんのお兄さんはあの○○大学似通ってるんでしょ?すごいね。それに比べてうちのお兄ちゃんは高校にすらまともに通えてなくて。ああ、○○ちゃんが羨ましいわ」と隣の部屋にいる僕に聞こえるほどの声量で言っていたし、たまに外へ出た時に近所のおばさんなどがこっちをチラチラみて、「柚々原さんのところの息子でしょ。学校にもまともに通わないで遊んでるんでしょ。たまに暴れて妹ちゃんを殴ったりするんだってさ」などというありもしない噂を口にしていたが、あれはお前が流したものではないか。そんな腹黒い奴になぜ「サイテー」などと言われなくてはならないんだ。


「最低なのはお前の方だ!どうせお前も母と共謀して僕を殺すつもりだったんだろ」


「な、な、に言ってんの?私が、アンタを殺す理由なんて──」 僕はさらに強く首を絞める。最後まで話す余地を与えたくなかった。こいつの言い訳を聞いてても何の得もない。

 

 みるみると柚々の白い顔が赤に変色していく。


「赤面する」という言葉があるが本当の用途はこういう時に使うのではないか。そんなこと考えるぐらいには興奮状態に入っていた。


 やがて僕の腕を掴んでいた手がするりと落ち、顔の表情も固まり、胸部が上げ下げする動作も止む。ああ、もう死んでしまった。味気なかった。あんなに威勢良かったくせに最後はあっさりしていたなと思いながら立ち上がる。柚々が着用していた寝間着はさっきまで白色であったが、濁流によって気づけば深紅に染まり上がっている。濁流の発生源は母だったモノ、それにつけられた複数の傷口。廊下の一番奥から玄関であるここまで流れ出てきたのか。土間にまでポタポタと垂れている。


 僕は幼子がはしゃいで水溜まりをバシャバシャと踏むように、軽やかに血の太糸を辿る。なんて心地が良いんだ。足裏で感じる血の生温かさやツーンとした匂いが鼻の穴を潜っていくことすら気持ちが良くてならない。一生この感覚を保持しつけたい。まだ殺し足りない、でも……。

 

 僕は母の右腹部に刺さりぱっなしの包丁を抜き取る、するとぶっしゃーと血がさらに溢れ出てきた。ケタケタと笑いながら今度は左腹部を刺してみる。ああ、本当に気持ちがいい。マスターベーションとか、したことないけどセックスなんかよりほど気持ち良いんじゃないかこれは。だから法律で禁止されているんだ。こんな快楽をあまりに摂取しすぎると脳の機能が破壊されるから皆しようとしないんだ。いや皆してないからこんなに良いんだ。なんだか初めて他人ができないことをできた気がして、優越感が込み上げてきた。これにずっと浸っていたいなーと思いながらまた包丁を抜き取る。血しぶきが頬にかかる。試しにそれを舐めてみたが砂鉄を口にしているみたいな気分になって、ぺっと吐き出した。血は摂取するものではないな。いや熟しすぎた体を巡っていたものだから不味いんだろう。もっと若い奴のだったら少し違うかもしれない。柚々ので試してみるかとも思ったがそんなに気にもならなかった。ああ、もう疲れた。もういいよね。終点は人生最大の幸福を噛み締めている今だ。


 僕は立ち上がり、右に収めている包丁を、その刃先を首筋に。すーっと息を吸い、吐き切る前に、指先に力を入れて、そのまま……。


「はあはあ」僕はひどく息を乱していた。また見慣れた白い空洞とそれをなぞるように続く螺旋階段、石段に座り込んでいる裸体の女、僕の妹の柚々が目に付いた。


 結局僕は死んだのか?それも自分で首を掻き切って……罪から逃げようしたから死後こんな所を彷徨らされ、嫌なことばかり回想させられているのか。どうすればいいんだ。どうすればここから抜け出せるんだ。


「教えてくれ!僕は死んだのか?ここはどこなんだ。お前は……お前は……お前はなぜ……怨んで……それで怨霊となって、こんな奇妙な幻想を見させているのか……全てお前の仕業なのか……。答えてくれ、頼む……」柚々のか弱い肩を揺する。


「知らないわよ、私は本当の私じゃないし。この幻想を生み出したのはあなたじゃないの、忘れた?」


「何を言ってるんだ。僕はこんなの望んでない。お願いだ。ここから抜け出させてくれ……」


 柚々はそっぽ向いて、それで壁の方向、そこにあるを見つめていてた。その目線の先には……また絵画が……それもこれまでのより遥かに大きいサイズのものであった。そこに描かれていたのは……生首だった…苦悶に満ちた死に顔、頚椎とその周りに引っ付いている肉の断面などが鮮明に描かれており、見ているだけで吐き気を催してくる。だがそんなことより……。


「この首の主を僕は……知っている……」


「ふふ、それはそうよ。だってあなたが一番知っている人だったのだから。忘れるはずがないでしょ?」


 そのはずなのだが……あと少しのところで引っかかっていてむず痒い。誰だ。僕が一番知っている奴?親友だったのだろうか。まさか親友を手にかけた?いや多分違う。それなら恋人か?それも違う。なら誰だ!欠陥だらけ頭を巡らせ、それで気づく。


「うあああ」


僕は塔全体に響き渡るほど発狂し、頭髪を鷲掴みにしてくしゃくしゃと乱れさせたり、血が出るほど額をゴツゴツと石段に叩きつけたりする。そんな狂人の様子をみて柚々は嘲笑し、「思い出したんだ、思い出したんだ」と口にする。


 僕は幼子が駄々こねるようにジタバタとさらに暴れて……するりと足が滑り、気づけば踏み場がなかった。そのままヒューと落下していく。柚々は顔を覗かせて何かゴニョゴニョと発していたが聞き取れない。二度目の死を経験するのか……それともまだ死ねないのか。一生この。もう何が何だか分からない。疲れた。このまま終わりたい。そう思いながら僕はそっと瞼を閉じて、重力にただ身を任せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Tower 三茶吾郎 @dazai1207

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ