二兎追う者は
ハナビシトモエ
疾風、参れ
国語の
凛とした表情、たまに見せる笑顔。
水が減った
僕は陸上部のエースで、スクールカーストも上の方で、カースト上位あるあるで彼女もいる。可愛い女の子だ。手を繋いだのも抱きしめたのもキスをするのも、きっと彼女だ。
仁藤先生は年上で大人で先生だから望みは薄い。だから彼女はあくまで
夏休み、最後の大会はお盆が終わった頃にある地域合同記録大会だ。元々、陸上にあまり力をいれていない中学校なので、記録会が引退になる。このまま記録会が終わって、グランドから職員室を望むことは出来なくなって、僕は高校受験の勉強をして、仁藤先生と当然何の進展も無く時間が来たら卒業する。
これが僕の中学での物語の筋書きだ。これはもう決まっていることだ。
「
それくらい大人として責任を果たせよ。エースに任せるなよ。僕はそんなに期待をされていないのかと少し落胆した。僕は保健室の先生に池井戸を預け、わざと遠回りをして、校舎を歩いた。もしかしたら会えるかもしれないな。
そんな期待を僕はしていた。頑張ったご褒美か中庭に仁藤先生を見つけた。
「多分、それあんまり美味しくないですよ」
中旬にして庭の果物に手を出そうとするなんてどんな金の使い方をしているのだろうか。凛とした姿は台無しだけど、先生の秘密をちゃんと知ったことが一つの自信になった。
「猫の餌に」
「果物ですか?」
「お金を使ってしまって」
「まだ中旬ですよ。もうこんなみっともない事をしないでください。他の生徒に見られてしまったらどうするんですか」
秘密の共有を自然にしたという裏の意味に気づいて欲しい様な、いやこのその他大勢としてはそのままの意味でも十分だ。そろそろ帰らないと行けない。ここで話せてラッキーだった。もうこんな機会は無いかもしれない。僕は「では」と言って去ろうとした。
「
その他大勢が陸上部の川辺俊介君に変わった。もしかして他の生徒の名前を覚えているかもしれない。
「ありがとうございます」
僕のありがとうございますはつっかえて、どう言えばいいのか分からなかった。後ろを向いて、速足でグラウンドに向かった。ちゃんと出来たかな。ちゃんと普通の顔だったかな。ちゃんと話したけど伝わったかな。
川辺俊介君。陸上部の。
もしかしたら、練習を見てくれていて。
もしかしたら、先生から見て目があったかもしれなくて。
もしかしたら、エースかっこいいねとか思っていてくれていたかもしれなくて。
たくさんのもしかしたらが不安と期待と嬉しさとやっぱり不安でいっぱいになった。今日はこれから走りこんで、水分補給して、また走る。その姿を仁藤先生は見てくれますか。僕だけを見て欲しい。僕だけを視界に入れて欲しい。
「俊ちゃん、どうしたの? 熱中症?」
「そうかも」
「あんまり陸上ばかりじゃなくて、彼女も大事にして欲しいなー」
「マクド? スタバ?」
「お小遣いは?」
「出来ればマクド」
「仕方ないな。香里様は広い心で許してしんぜよう」
自分を無理に出さない控えめなところに好感が持てる。心配してくれるのはすごく嬉しくて、一緒にいて楽しい。ハグもキスもしたいのは香里だけだ。
でも、もし仁藤先生にキスするチャンスがあって、その時に香里と約束があったら僕は仁藤先生を優先するだろう。
マクドで僕は間違えて飲めないブラックコーヒーを頼んでしまった。香里に馬鹿だね。替えてもらう? と、聞かれたが僕は平気な顔で一気に飲みほした。そしてその後かなり不快な顔をして香里に笑われた。口直しに私のコーラ上げるって言われて僕は香里と間接キスをした。
気づいたのは同時で、二人とも相手の顔を見ることが出来なかった。これだけで恥ずかしいのにこれから先はどうなるのか。香里との間接キスが恥ずかしくて、仁藤先生とキスが出来るのだろうか。
いや、ここは程度を下げて手を繋ごう。
「帰ろ」
コーラは氷に変わって、コーヒーは空になった。
気まずくて、香里を見たら顔を伏せて下を向いて歩いていた。
手がもう少しで触れそうで、そのまま握っていいか分からない。僕の小指は香里に触れたかもしれないし、触れなかったのかもしれない。二人の距離はこんなに近いのになぜかとても遠い気がする。
僕はここで香里の手を取るのか迷っている。仁藤先生の手に触りたい。
分かれ道になり、香里は隣を離れた。形だけの「楽しかった。またね」を言って、そのまま何か始まることも無く別れた。明日から確かに何かが変わるターニングポイントだったのに、それを逃したのだ。
僕はただ香里の手を取ることをしなかった。
盆終わりの記録会は雨で順延となった。その雨の日に香里に別れを告げられた。
お互い受験で忙しくなるし、受験が終わったらまた付き合おうという戦力外通告だった。ずっと気づかれていたのかもしれない。自分の彼氏が他の女性を好きであること。そしてあの間接キスをした日に手を取らなかった瞬間も検討材料になったかもしれない。
順延された記録会も終わり、一年が片づけをしている間。僕は中庭に向かった。
やっぱりいた。
「それそんなに美味しくないと思いますよ」
「猫の餌に」
「どんな高級な餌あげているんですか」
「熟成マグロと国産牛のしぐれ煮。最初に上げたら戻れなくなって」
「それでもそんなに美味しくないでしょう。無いんですか? 貯金」
「あるけど。貯蓄は使いたくない」
「それでミカンもどきですか。酸っぱいと思いますよ。毒があるかも」
「川辺君はお母さんみたいだね」
「うちのお母さんは部長の
「あなたが部長じゃないの?」
部長だと思ったから覚えていてくれたのか。それでも嬉しかった。さっき女の子に振られたばかりなのにほんの少しの落胆と少しの甘い感覚がアンバランスに組み合って酔ってしまいそうだった。
「永作くんね。覚えた。おぼーえーたーよー」
「先生はみんなの名前覚えていないんですか?」
「私は記憶力が格段に悪い」
格段に悪いのに僕の名前を覚えていた。嬉しい。何をどこを見て僕に目をかけてくれたのだろうか。それが気になった。女の子に振られたことなんてすっかり忘れてしまった。
「彼氏が川辺君って人なの。会社で係長やってるの。もうそろそろプロポーズしてくれないと猫の餌で破産しちゃうよ」
貴重、一夏で二度失恋した。
ショックで立ち直れないよりかはなんだかスッキリしたところが大きくて、すぐに言葉が出たと思いたい。
「早く結婚してください。毎回、まずそうな果物を見てる先生なんて見たくありません」
「結婚するなら甘やかしてくれる彼より、俊介君みたいなお母さんみたいな人がいいのかもしれないね。雨濡れちゃうよ。傘使う?」
中庭にはしんしんと小雨が降っている。なぜ僕が傘を差していないことを二人とも分からなかったのだろうか。それは二人にとって大切で一生残る言葉の交わし合いであったと思う。僕は一礼して、中庭から校舎に入った。
昇降口から一年が走って来て、先生が全員集めてあとは僕だけと言った。僕はやっぱりエースとして期待されていないようだ。
帰り道、マクドに行くか。スタバに行くか。
迷った。
僕はなけなしの昼食代千円を握りしめてスタバに入った。当然か、ジャージの客は僕くらいで他は制服を着た女の子がフラペチーノを食べていて、あとは大人ばかり本を読み、仕事をしている。
「お決まりですか?」
「ドリップコーヒーのトールで」
親がスタバに行くときに言うのがそれだった。
すぐに出来たドリップコーヒーと料金を交換して、空席へ持って行った。飲み口からグイッとコーヒーをあおった。
「やっぱ、苦いや」
雨はザーザーと降っている。
この店にはたくさんの人がいるのに、僕はたった一人で雨を浴びている気がした。僕の涙の代わりに雨は降っていて、同時に僕は非難されている。そんな理屈の通らないことをふと考えた。
コーヒーを何度飲んでも、その度に思い出す苦さは香里で仁藤先生では無い。
いつか二人の顔を忘れる日が来るのか。僕は香里を粗末にした罪と共に忘れることは無いだろう。
二兎追う者は ハナビシトモエ @sikasann
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