第4話 画竜点睛3 うちは「貧乏」の暴力性

https://kakuyomu.jp/works/16818093074870825076/episodes/16818093077101825938

↑ 第23話 うちは「貧乏」だから

 以下、冒頭部の一部を引用。


 彼女の人物像を語る上で、この言葉は避けて通れないと思ったから。どこで話にするか悩んでいたが、やっとまとめてやれる状況が整ったので、話しますね。今思うに母親の言葉で問題視せざるを得ないのが、これ。


「うちは「貧乏」だから」

という言葉。


貧乏だから金がない。金がないからいろいろしてあげられない。

つまり、貧乏故にしてあげられることはあまりに限られている。

それでもできる限り「一生懸命」してあげている私に感謝して、

ってか?


 そういう公式が成立するようなお話でしょう。

 先ほどの言葉もね、裏を返すならそういうこと。

 金があるならいろいろやってあげられるのにという趣旨を言外に込めていることになり得るが、だとすれば、それはそれでやはり問題ではないかな。大体、そんなことを言う人間は金があったってまともなことなんかできやしないって。


・・・・・・・ ・・・・・ ・


森川一郎氏の弁

 うちは「貧乏」だからという言葉の暴力性を論じたいと米河氏は述べられておいでであるが、暴力性という言葉の是非はともあれ、それは確かに論ずべき論点であろうと思われます。

 氏の作品から読む限り、この言葉は確かに、子どもたちのおねだりを退けるための強力な武器となることは間違いない。それは認めましょう。

 さらに米河君はこれに続けて「一時的な方便」に過ぎないと述べておられるが、それも頷けます。確かに、その場限りの方便としては大いに有効ではある。

 しかしながらそれが子どもたちにとって長い目で見てよい結果を招かないということであるが、そうは申しても、そのような環境になじめる子らにとっては、さほど影響はないのかもしれません。

 もっとも、米河君のような自らの向上のためなら何でもしていく人物にとってみれば、そんな言葉は「クソの役にも立たない」どころか恐ろしいほどの害を孕んでいるという指摘にも、反論はできまい。

 そういったあたりに、彼の言うなら母性的な愛情不足、その反動としての社会性の恐ろしいほどの強さが伺えます。

 なるほど、近代以降の市民社会における個人主義者の原点はそのあたりにあるのかと思うと、納得できますね。


米河清治氏の弁

 その母親の弁を私自身もいくらか直接聞いていると同時にZ氏からも情報をいただいておりますが、まあ、あの母親なる人物の問題点は実にここにつきます。

 うちは「貧乏」などという言葉をへらつきながら述べるような人間は、いくら金があったとしてもろくなことができない。よつ葉園の職員にもそのような弁を立てる者がいくらかいたと聞いておりますが、ま、あの程度でしょうな。

 かの母親にしてもよつ葉園の職員にしても、貧乏なのは金の有無、要は財産の問題ではなく、テメエの精神の問題が一番大きかったわけですよ。

 その点につきまして、私はさらに論じていく所存です。

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