ヴァンパイア

あの日、里から出て家に帰ってから一週間。卓也は恐怖を感じていた。

確かにあれ以来、羽が自分の意思に反して出てくることはなかった。それ以外の_____例えば角とか尻尾とか、そういう類の誤魔化せないものが出てくることもない。プラムになかったものだから当然と言えば当然なのかもしれないが。


卓也が恐怖を感じていたのは、目に見える変化ではなく目に見えない変化だった。


まず、ご飯の味が前よりさらに感じられなくなった。違和感なんてものでは無い。美味しさを、味を、全く感じない。まるで砂を噛んでいるような気持ち悪さだけがある。味を感じられないだけだったらまだ救いはあるのだが、何かを食べたあとは決まって吐き気を催すようにもなってしまった。それが続くものだから、母にも心配されている。食事の後すぐトイレに駆け込んで吐く卓也を怒らずただ背中をさすってくれる母。だけど卓也はとんだ親不孝もので________そんな優しい母を、食べたいという本能が顔を出すようになった。

その腕に、足に、首に。かじりついて、骨まで余すことなく食べてしまいたい。これがヴァンパイアの本能であることは、もう誤魔化しようがなかった。


それに加えて、陽の光もだめになった。太陽を直接浴びると、まるで火傷したみたいに体が悲鳴をあげる。あつくていたい。こんな感覚は初めてだった。

日傘をさしていればなんとか外を歩けるのだが、やはり落ち着かない。しかも、冬に日傘をさしているような人はなかなかいないからかなり目立つ。卓也はその気まずさに耐えて日傘をさしている。ヴァンパイアは太陽に弱いという通説は本当だったのだと知った。


人間でなくなるのが怖い。とっくに自分の体が作り変えられていることを、認めたくなかった。でも認めざるを得ない。ヒロトが言っていたのはこういうことだったのかと察する。受け入れざるを得ない時が来ているのだと、はっきりわかった。


ああ、今プラムが来てくれれば大人しくついて行くのに。


大して出来の良くない卓也の頭では、往復したくらいでは里の場所を覚えることは出来ていなかった。第一、場所が分かってもあの聞き取れない呪文を唱えることは卓也にはできない。怯えながらプラムが来てくれるのを待つのが辛かった。


日付を回る頃まで眠らずに待ってみたが、今日もプラムが訪れる気配はない。不安をかき消すように、卓也は頭を振って瞳を閉じた。






おなかがすいた。おいしそうなにおいがする。


自室を出た卓也の足は、美味しそうな匂いの正体のほう、隣の部屋へと向かった。閉められたドアを開ければ、目の前で無防備に眠っている塊が見える。美味しそうな匂いの正体だ。

卓也は吸い寄せられるように塊の目の前に立つ。匂いを閉じ込めるように塊を覆っていた布をめくると、美味しそうな肉が露出した。

卓也は舌なめずりをする。飲み込みきれなかった唾液がぽたりと落ちたのがわかった。でもそんな些末なことに構っている暇はない。目の前の腕にしゃぶりつく。

もはや牙と化した犬歯を存分に使い、肉を食み、骨を砕き、血を啜る。初めて味わう生身の“人間”に、ぞくぞくとした快感が背中を走った。美味しい。美味しくて仕方がない。最近味のしないものしか食べていなかった反動もあり、その感動は大きかった。卓也はなにも残さない勢いで母だったものを食べ続ける。ああ、美味しくて仕方がない______


ぱちん。


指を鳴らす音。その音で卓也の頭を覆っていた靄のようなものが晴れる。黒くて煤けた靄。それが晴れた先にあったのは、強い強い絶望だった。これなら晴れない方が良かったと思うくらい。


「母さんっ……」


目の前にいたのは、ぼろぼろの下半身しか残されていない母だった。いた、という表現は正しくないかもしれない。だって母はもう生きてはいないのだから。ただそこにあるだけ。


「ようやくお前も人を食ったか」


先ほどの音の正体であるプラムは、冷静にそんなことを言う。その姿を見て口に出したいことはたくさんあったが、頭がぐちゃぐちゃでなにも言葉にできない。


わかるのは、自分はもう完全に人から外れてしまったということだけ。


ヒロトの言っていた受け入れざるを得ない瞬間が、今この瞬間を表していたことを悟る。吐き戻したなんて、日差しが痛いなんて、ぬるいものだ。人を食うことに比べたら。身内を自分の中に取り込むことに比べたら。


「なんでっ、今来たんだよ……っ」


語りきれないほどの絶望。自分では抱えきれないそれの矛先に選んだのは、よりによって手遅れのタイミングに来たプラムだった。プラムがあと十分早く来ていたら、自分を連れ去ってくれたら、母は今も生きていられたかもしれないのに。


「お前は今やっと自分がヴァンパイアであることを受け入れただろう。そういうことだ」


その言葉に、反論はできなかった。母を食べるまでは、プラムが来たら一緒に行くとは思っていたもののまだ葛藤があった。人間でいたい自分と人間であれない自分がせめぎ合っていた。でも、人を食ったことで一種の諦めがついた。自分はもう、人間ではあれないのだと。


それをわかっていてこのタイミングで来たなんて、なんて意地悪なのだろう。人でなしだ。人間ではないから全くダメージにもならないかもしれないけれど、その言葉が一番しっくりきた。


「里に行くぞ」


でも、いくらプラムを人でなしだと罵ろうとも、その存在も忌み嫌おうとも、卓也にその手を取らないという選択肢はなかった。このままここにいればたくさんの人を傷つけて、殺してしまうだろう。里は人間界からは隔離されているようだし、その意味では安全だった。そこに行かなければ自分の周りの人間は平穏に生きられない。それを知っていたから、卓也は迷わずプラムの手を取った。


「うん、連れて行って」

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ミューテーション 栗餅 @kujaku_ishi

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