黒い羽
あれから一週間が経った。あれからプラムは来ていない。さらに鋭く尖ってきた犬歯とおかしくなっていく味覚にさえ目を瞑れば、卓也はいつも通りの生活ができていた。
一見普通の生活に、卓也は安心しながらもどこか焦りがあった。「また来る」というプラムの言葉、あれが嘘とは思えない。プラムが訪れることを半ば確信しているのに対策もできない自分が情けなかった。
今日も夜が来る。あまり美味しいと感じない夕食を食べ風呂に入り、自室に戻った。
卓也はベッドにうつ伏せに寝転ぶ。枕に顔をうずめると、はやる気持ちが少し落ち着いた。ゆっくり息を吐いてリラックスした瞬間、背中にぴりりと痛みが走る。慌てて部屋の鏡で自分の姿を確認すると、卓也の背中には真っ黒な羽が生えていた。
「ひっ......」
どんな仕組みなのか服を突き抜けて生えているそれに、思わず恐怖の声が出る。これはなんだ、と意味のない自問をするが、答えは決まっていた。これはヴァンパイアの羽だろう。一週間前の夜、去り際のプラムを思い出せばすぐわかった。確か同じような羽を生やしていたはずだ。
烏のような黒さだと思ったが、触ってみるとつるつるしている。烏の羽毛にはほど遠い。鳥類とは全く仕組みが違うのだろう。
しばらく羽を触ったり引っ張ったりしてみたが、特に変わったことが起きるわけでもなくすぐ飽きた。好奇心の代わりに、どうして自分がこんな目にあうのか、理不尽だ、という思いが押し寄せる。
羽を誰かに見られてしまえば言い逃れはできない。この見た目は、どうしたって人間には見えない。卓也自身も自分が人間だとはもう思えなくなっていた。
「どうして俺がこんな目に」
あまりの理不尽に耐えきれず、そうぽつりと漏らす。誰も答える人はいない独り言だ。
「突然変異に理由などない。お前にできることはただ受け入れることだけだ」
だが、その独り言に答える人がいた。
「プラム……!?」
一週間全く現れなかったプラムがそこにいた。先週来たときと全く変わらぬ美しい銀髪をなびかせる彼女は、言葉を続けた。
「これでお前ももう人間とは言えぬだろう?私たちの里に来ないか」
ヴァンパイアの里。それが持つ不気味な響きに卓也は怖気がした。でも、自分ももうその仲間なのだ。受け入れ難いことだが、受け入れなければならない。
「まだ人間に未練があるのか?」
葛藤している様子の卓也を見て、プラムは呆れたようにそう呟く。卓也は他人事のような仕草に耐えきれず思わず叫んだ。
「未練がないわけないだろ……!十七年も人間として過ごしてきたんだぞ」
「でも、その羽を生やした状態で人間に溶け込めるわけないことくらいわかっているだろう」
その通りだ。いくら未練があろうとも、十七年間人間として過ごしてこようとも、今ヴァンパイアになってしまった事実は変わらない。卓也はうつむいて黙り込んだ。
「……はぁ、仕方がないな、ついてこい。羽のしまい方を教えてやる」
プラムのあまりに魅力的な提案に顔を上げる。
「ついてこい、って……?」
「里に行く。さすがにここでは教えられん。誰が聞いているか分からないからな」
閉め切られた卓也の部屋に入ってくる人はいないと思うが、そこは妖怪にしかわからない何かがあるのだろう。
頷きそうになるが、「里に行く」という言葉に縦に振りかけた首が止まる。それでは結局同じではないか。
「夜が明けたら返してやる。今夜だけだ」
そんな卓也の様子に気づいたのか、プラムがそう付け加える。今夜だけヴァンパイアの里に行けばこの忌々しい羽をしまえるというのなら、それは酷く魅力的な提案だ。
卓也は頷く。
プラムは満足気な顔をした。
「お前、飛べるか?」
「飛べるわけない……ですよ」
この羽も今さっき生えたばかりだ。飛び方なんてわかるはずもなかった。
プラムは唇を尖らせる卓也にため息をつく。その後、抵抗する暇も与えないくらいすぐに、卓也の腕を引っ張って窓の外に飛び出した。
「ちょっ......」
少女の体躯から出ているとは思えないとんでもない力の強さに卓也はされるがままになる。部屋に戻ろうとしても卓也の力でどうにかできるものではなかった。やはり少女の姿をしていてもヴァンパイア、妖怪なのだと思い知らされる。
窓の外、夜空の中に身ひとつで浮いているという事実に血の気が引いた。特に高所恐怖症と言うわけではないが、足場のない場所に浮いている感覚は恐ろしい。今にも浮遊力を失って地面に落ちてしまうのではないかとさえ思う。
恐怖の対象だったプラムの腕を強く掴み、すがりつく。今は何度か話したことのあるヴァンパイアの少女よりも眼下に広がる地面のほうが恐ろしかった。
「何をしている。離せ」
腕を掴んだ卓也を不快に感じたのか、プラムに腕を引きはがされる。以前一度だけ行ったことのある遊園地で味わった、臓器がふっと浮くようなあの気持ち悪い感覚が脳裏をよぎった。
「待って、俺......」
そこまで叫ぶように言って、浮遊感がないことに気づく。卓也の背中から生えた羽からはわずかにバサッ......と音が鳴っており、羽のおかげで落ちずに済んだことを悟った。
それにしても、なんて荒療治だ。飛べないといっている卓也に飛ぶことを教えるのではなく、無理やり空に連れ出すなんて。確かに飛べると言われたって恐怖でなかなか窓から外には出られなかっただろうが、それにしたっていきなり手を離されるのは恐ろしすぎた。じっとりとした目でプラムを見つめる。
「なんだ、飛べただろう。よかったではないか」
「死ぬかと思った……思いました」
何も問題はないという風によかったというプラムに、こいつには人の心がないのかと思う。いや、ないのだろう。人間ではないのだから。卓也の、人間としての感覚と違うのは当然といえば当然だ。
青い顔をして不満気な瞳でプラムをじっと見る卓也に何を思ったのか、プラムは卓也を見つめると、「敬語はいらない」と言った。
「そんな拙い敬語で話しかけられても痒いだけだ。そんな敬語ならばないほうがいい」
確かに卓也は敬語が下手だ。プラム相手だと恐ろしさを感じることも多く、咄嗟に出るのが慣れ親しんだタメ語なのも要因のひとつだろう。ここはその提案に大人しく甘えることにする。
「わかった……」
「それでよい。行くぞ」
プラムはタメ口になった卓也に何かを感じる様子もなく、振り返って卓也から目線を外す。若干急いでいるようにも見えたが、夜の時間にも限りがあることだし当然か。プラムはそのまま月の向こうを目指すように進み始める。この羽でどうやって前に進むのかと卓也は一瞬戸惑ったが、進みたい方向に少し体を向ければすいすいとそちらに向けて飛び始めた。便利なものだ。
街をいくつも越えて、山を越えて川を越える。普通に移動すれば数日はかかるだろう旅程だが、この羽はずいぶん性能がいいらしい。速い上に、抵抗も感じない。体感四十五分ほど飛んだところでプラムは羽を閉じ、地上に降り立った。
「ここだ」
プラムはそう言うが、卓也にはどうしてもここがヴァンパイアの里には見えなかった。
ヴァンパイアと聞いて思い浮かべるようなおどろおどろしい雰囲気はどこにもなく、ただただのどかな村という感じだ。しかもどこにもヴァンパイアはいない。あるのは緑が広がる風景の中、異様に存在感を放っている大きな石碑だけだった。
「ヴァンパイアの里が誰にでもわかるようになっているわけがなかろう」
プラムがまるで卓也の声を聞いたように、呆れた声で言う。プラムの言い分はもっともだと卓也も思い直した。卓也にはわからない方法で巧みに隠してあるのだろう。
プラムは石碑を指でそっとなぞる。書いてある文字をじっと目を凝らして見てみるが、そこにあるのは全く見たことの無い文字列だった。
プラムがその口でなにか言葉を紡いでいる。卓也にも余裕で聞こえる声量だったが、何を言っているのか全く分からない。もしかしたらこの石碑に書いてあることを読み上げているのかもしれない、と思った。読めない文字列は、聞き取りもできないだろうから。
紡がれる呪文のようなものを黙って聞いていると、しばらくしてプラムの口が閉じられた。終わるタイミングも全くわからなかった。抑揚のない言葉だ、と思う。
プラムが口を閉じてから数秒後、石碑に刻まれている言葉が紫に光り始めた。明らかに何かが起こる演出に、卓也の足がすくむ。命に関わるようなことはないと思いたいが、怪しげな色の光に否応なく体は震える。早く終わってくれという卓也の願いとは裏腹に、光は収まることを知らないようにふくらむ。紫の光はどんどん大きくなっていき、最後にはプラムと卓也まで飲み込んだ。
「おい、起きろ」
プラムに声を掛けられ、卓也は目を覚ます。どうやら気絶してしまっていたようだ。背中に土のでこぼことした感触を感じる。卓也は起き上がり、背中の土を払った。
「まったく、里に入るたびに気絶していたら身が持たんぞ」
「別にいいよ、もう入る機会もないだろうし」
なぜかえらそうに腕を組んで説教するように言ってくるプラムに、そう返す。卓也がここに来るのはこの一回だけだ。羽のしまい方を教えてもらうだけ。もうここに来ることはないだろう。気絶するのもこの一回だけなのだから、何の問題もない。
プラムは微妙な顔をする。甘いと思って食べたものがしょっぱかったような、そんな何とも言えない顔だ。なぜそんな顔をするのか問おうと口を開いたが、出しかけた言葉は阻まれた。卓也たちのもとに茶髪の男が現れたからだ。
「やあ、プラム。そこの男の子は誰?」
茶髪茶目で、着ている服は白のシャツに黒のスキニー。若干垂れている目と眉は親しみやすさを感じさせる。いかにも好青年という感じの風貌だ。街中にいても優しそうな人だな、で済ましてしまいそう。だが、ここにいる以上この男もヴァンパイアなのだろう。初めてプラムを見た時とは全く違う恐ろしさが卓也を襲った。この見た目だったら、いつの間にか人間にまぎれていても気づかない。
「いいところに来たな、ヒロト。こいつに羽のしまい方を教えてやってくれ」
「突然だね、わかったよ。......で、君の名前は?」
ヒロトと呼ばれた男は卓也にそう聞いてくる。黙っていてもしょうがないと、「卓也です」とおとなしく答えた。
「お前、タクヤっていうんだな」
プラムがそう口に出す。確かに名前は教えていなかった気がするが、今更過ぎないか。あまりにも自然にふるまうものだから、教えていないことすら気づけなかった。ここまで名前を聞かないのは、卓也に大して興味がないゆえだろう。ヴァンパイアであるからなのか、プラムの性格か。どちらかはわからない。だが、散々卓也を振り回しておいて興味はない、というのはあまり面白くはなかった。
「……卓也くん、ね。もしかして元人間?」
顎に手を当て考えるような仕草をしていたヒロトが、そう尋ねてくる。元人間。確かにそうなのだろうが、卓也は自分が“元”と評されることに違和感が拭えなかった。
「まあ、はい」
その気持ちが漏れ出たのか、卓也がしたのは濁した返事。
それでもヒロトにとっては満足のいくものだったのか、ほっとした顔になった。
「やっぱり。名前が日本人だったから、そうだと思ったよ。君も突然変異したんだろう?」
君“も”。言葉の裏を読み取るまでもなく、それが表す事実は一つだ。しかも“ヒロト”という名前は卓也が住む地では珍しくないものである。プラムなんていう、突飛な名前とは違って。
「あなたも、そうなんですか」
ほとんど分かりきっているが、確認のためにそう尋ねる。ヒロトは頷いた。
「そうだよ、僕も君と同じ。人間からヴァンパイアになった」
静かな声。ヒロトは自分がヴァンパイアであることを受け入れているように見えた。この里にいるという時点でそういうことなのだろう。自分は人間だと、そう思っている卓也とは正反対だった。どうしてヴァンパイアなんて忌み嫌われている存在になったことを受け入れられるのだろう。どうしても気になって、卓也は口を開いた。
「ヒロトさんは......どうして自分がヴァンパイアだって、受け入れられたんですか。俺にはとてもできない。今も自分は人間だと思ってます」
卓也の言葉を聞き、ヒロトは少し寂しそうな顔をした。その表情が持つ意味を理解できず、卓也は眉をひそめる。意図を探ろうとする間もなくヒロトの表情は元に戻ったが、先ほどまでの柔らかい笑顔とは全く違う表情は卓也の脳裏に焼き付いていた。
「うーん......そうだね。僕も最初は受け入れられなかったよ。でも、受け入れざるを得ない瞬間があった。卓也くんは、その瞬間を迎える前に受け入れたほうがいいよ」
曖昧なアドバイス。経験者からのアドバイスなのだから素直に受け取ったほうが良いのだろうが、卓也には無理な話だった。具体例もない曖昧な話、しかも出会って間もない人のものなのだからなおさらだ。自分に都合の悪いことを簡単に受け入れられるはずがなかった。
「そんなこと言われても、無理です。俺は人間だ」
「そうか、うん、それならそれでいいと思う。僕も君みたいな状態のとき言われても受け入れられなかっただろうし」
そう言って、ヒロトはまた寂しそうな顔をした。卓也とヒロトの長い世間話にしびれを切らしたプラムの「早く教えてやれ。夜が明ける」の声でまたすぐに優しい笑顔に戻ったけれど、やはりその表情は瞳の奥に残ったままだ。第六感が警鐘を鳴らしている。本当にヒロトの言うことを聞かなくていいのかと。
「ヒロトさん、羽のしまい方教えて下さい」
頭を振って、その考えを振り払う。気を取り直してヒロトに向き直れば、ヒロトも先ほどのことはなかったように笑った。
「そうだね、卓也くん。自分の羽が今どういう状態で生えてるかわかる?」
部屋で鏡を見たときのことを思い出す。なぜか服を突き抜けて生えており、真っ黒でつるつるしていた羽。しっかりと思い出せる。
「はい、わかります」
そう答えると、ヒロトはほっとした顔をした。
「そう、良かった。じゃあ、羽が生える前の自分の姿はわかる?」
もちろんだ。見慣れた自分の姿なのだから、わからないはずがない。卓也は頷いた。
「どっちもわかるなら良かった。羽の出し入れに大切なのはイメージだから」
ヒロトはそう言うと、卓也に背中を見せるように後ろを向いた。何も生えていない、白いシャツだけが見える後ろ姿。しかし卓也が一度瞬きをする間にその姿は変わり、一対の黒い羽が現れた。
ヒロトは卓也のほうに向き直ると、口を開いた。
「今、僕は自分の背中から羽が生えてくるところを思い浮かべた。やったことはそれだけだ。卓也くんも羽が消えるところを思い浮かべられればしまえるはずだよ」
思い浮かべるだけ。簡単そうに聞こえるが、それはつまりうまく想像ができなかったら羽は一生出たままだということだ。大きいリスクにハラハラしながらも、卓也は羽がなくなるところを思い浮かべる。ぱっと消えていくところは思い浮かべるのが難しかったから、しぼんでいく羽を考えた。真っ黒でつるつるの羽。それがだんだん小さく小さくなっていく。最後には見えないくらい小さくなって、ぱっと消える________
「お、できてるよ」
イメージに集中していると、ヒロトの声が聞こえた。そこで初めて、自分が集中するあまり目を閉じていたことに気づく。ゆっくりと目を開くと、さっきまでより気持ち口角が上がったヒロトがいた。背中に手をまわしてみると、部屋で感じたつるつるとした感覚はどこにもない。ただ空を切る感覚があるだけだった。
成功した。それを確信する。イメージなんて曖昧なもので羽を出し入れできるなんて、さすが妖怪といったところか。呪文のような確実なものではないことに驚いたが、できたのなら結果オーライだ。卓也はほっと息を吐く。
「一発で成功するなんてすごいね」
ヒロトに褒められた。嬉しくてお礼を言おうとするが、プラムに口を挟まれる。
「一発とは言ってもお前らが長々と話していたせいでもう夜は明けるぞ。お前の言う“人間”を維持するためには、そろそろ帰った方がいいんじゃないか」
厳しい口調だが、卓也にとってはありがたい言葉だ。この里には時計なんてもちろんない上、太陽では無いなにかのおかげで明るく時間感覚はつかめない。今が何時なのか、朝なのか夜なのかも不明瞭な空間で、時間を教えてくれる存在はありがたかった。
「ありがとう、プラム。ヒロトさんも、ありがとうございます。俺、家に帰ります」
卓也はヒロトに向かって頭を下げた。
「どうせ帰り方もわからないだろう。送っていってやる」
口を開きかけたヒロトを遮ってプラムが卓也の手を引く。時間が迫っているのだろうか。それにしても偉そうなプラムの言い方にムッとする。だが複雑な道程を一回来ただけで覚えられるはずもなく、有難くプラムの提案に乗っかることにした。今は変な意地を張るより一刻も早く家に帰ることが重要だ。卓也の手を引いて里の外に向かうプラムに大人しくついていく。
しばらく歩いたところで、プラムは立ち止まった。入ったときとは違い目印となるものが何も無い場所だ。だがプラムはそこに何かがあるというように空に向かって手を伸ばす。プラムが虚空に手をかざし何かを唱えると、里に入った時と同じような光が卓也たちを包んだ。
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