アジサイじゃない


 高校二年の六月、「梅雨入りです」というニュースキャスターの声を聞き流しながら母の作った朝食を口に運ぶ。


「真由、この前の模試だけど……このままいけば志望校も問題なさそうね。父さんも喜んでたわ」


「……そっか、よかった」


 親の言うままに入った私立の進学校では二年生のうちからそこそこの頻度で模試が行われる。とりあえずで書いた第一志望も商社勤めの父が通っていた大学で、ことあるごとに勧めてくるから書いただけなのだが、両親はそれが本当に私の意志だと信じて疑っていない。


(そんなこと言えるわけないけど)


 「反抗期なんて全然なくて——」とご近所のおばさんたちに自慢げに話していた母の表情がチラつく。喉元まで登ってきそうになったナニカを牛乳で流し込み、食器をまとめて立ち上がった。


「いってきます」


 後ろから聞こえる甲高い母の声を引き離すように玄関から出た。空は重い雲に覆われていたが、家の中よりは幾分かマシだ。




 *




「——つまり酸性とアルカリ性を判別するにはみんなが知ってるリトマス試験紙のほかにもBTB溶液なんかを使うこともあるんだ。ちなみに自然界にもそれを判別できる植物があるんだけど……知ってる人はいるかな?」


 化学の授業を担当する木村先生は真面目な話の合間に生徒たちが飽きないようにと軽い雑談を始める。授業もわかりやすいし、柔らかい物腰も含めて彼が生徒たちに人気なのは分からないでもない。

 でも私はこの人が苦手だ。いつでも余裕があって、気楽に生きているのが滲み出ているあの顔が、軽々しくて嘘くさい言葉が、彼の醸し出す空気すべてが気に食わない。


 授業内容はいいのだから雑談なんてせずにずっと黒板に向かっていてくれ、こちらに顔を向けないでくれと願っているのはこの教室で私しかいないようで、みな雑談が始まる気配を察知して眠そうに船を漕いでいた生徒まで嬉しそうに顔を上げる。


「ちょうどこの時期に花を咲かせるんだけど……お、佐々木!」


 木村の質問に一番早く手を挙げたのはこの特進クラスの中でもトップクラスに頭がいい佐々木君。他の授業では手を挙げるタイプではないのだが、彼もまた木村の毒牙に絆されているらしい。


「紫陽花です。土の酸度が酸性寄りなら青っぽく、アルカリ性寄りならピンクっぽくなります」


 クイッと眼鏡をあげて、聞かれていないことまで答えて得意げになっている彼の顔を見ていると、なんだかこちらが恥ずかしくなって顔を覆ってしまいたくなってくる。自分の持っているものを披露することが恥ずかしいと考えるようになったのはいつからだっただろうか。


「そう! 完璧だな! 完璧すぎてもう俺が話すことなくなっちゃったよ」


 木村の言葉にクラスメイトたちは心底楽しそうに笑う。「じゃあ今日の授業もう終わりー?」なんてヤジを飛ばす奴まで現れる始末。しかし、そんなことで木村が怒らないことはこの数か月で全員が知っている。


 きっかけは何だったかもう覚えていないが、ある時を境に彼の授業ではヤジが頻繁に飛ぶようになった。それは彼のちょっとしたミスを揶揄うものだったり、あるいは彼のプライベートを探るものであったり、種類は違えど下手すると彼の精神を逆撫でするようなものを多分に含んでいた。みんな彼がどの”ライン”まで自分たちが踏み込むことを許してくれるのか試しているのだ。


 きっと、一度でもそれを踏み間違えて木村がキレたら彼らは勝手に失望して、それまで築き上げてきたものを簡単に崩してしまうのだろう。終わりの見えている無益なチキンレース。教師と生徒という特殊な関係性をみな壊してみたいのだろうか。私は木村本人のこと以上にこの空気を嫌悪しているのかもしれない。


「でも生まれた場所で色決まっちゃうなんて、なんか可哀想じゃね」


 右耳から左耳へ直通で通り過ぎるヤジと笑い声に交じってそんな言葉が聞こえた。それは誰が言ったのかもわからないし、大きな声だったと言う訳ではなかったのに雑音の隙間を縫うようにして私の頭の中に居座った。木村の耳にもその言葉が届いたらしく「確かにな~」と新鮮な気付きを得た様子で頷いている。


「でも、何色でも綺麗だし案外紫陽花も満足してるのかもね」


 木村のその言葉が無性にムカついて、無意識にこぶしを強く握りこんでいた。


 そこで雑談が終わり授業に戻っていたが、私の意識がそちらに向くことはなかった。




 *




「最悪……!」


 ニュースキャスターが言った通りの空模様になった放課後、いつもなら騒がしく走り回っている運動部も屋内に引っ込み、正門には色とりどりの傘の群れが出来上がっている。


 そんな中で私は一人、雨に濡れながら校舎裏へ向かっている。こんなときに日直なんてツキがない。「今日は彼氏とデートだから」とかなんとか言って仕事を押し付けていったあいつにごみ捨てだけでもやらせれば良かったなんて後悔してももう遅すぎる。


 ようやっとゴミ捨て場まで辿り着き、早くこの雨から逃れたい一心でごみ袋を乱雑に投げ捨てる。最低限ゴミ捨て場の枠に収まっていることを確認し、踵を返そうとしたとき、視界の外から聞き覚えのある声が聞こえて反射的に足を止める。


「ちょいちょい、こっちおいで」


「うわっ……」


「『うわっ』って……確かに褒められたことじゃないけどさ……あー、ほらほら風邪ひくよ」


 教師しか使えない非常用扉の前、ちょっとした屋根の下でいつも通りのだらしない服装に申し訳程度に白衣を羽織った木村がこちらに手招きしていた。私は彼に出会ってしまったこと自体に不満の声を上げたのだが、彼は自分の手元にある“それ”に対しての声だと解釈したらしい。


「タバコ、吸うんですね。木村先生」


 一度足を止めてしまった手前、走り去るのも気が引けて彼に誘われるままに屋根の下に入る。頭に被っていたタオルを絞りながら、素直に思ったことを尋ねる。授業中の彼の姿を知っている人なら誰でも今のタバコを吸う姿が連想できないだろう。しかし実際にその姿を見てみると不思議とスッと胸に落ちるものがある。 


 私の質問に対して木村は歯切れ悪く答える。当たり前と言えば当たり前だが、その声は授業中のはきはきとしたものではなく、静かに落ち着いたものでまるで別人の声みたいだった。


「あ~、最近吸うようになってね。最初は家に残ってたやつ何となく吸ってみただけだったんだけど……いやー、見事にハマっちゃったよね。ハハハ」


 彼は胸ポケットに入れていたパッケージを出して見せて間抜けに笑う。ニコチン依存症になったことの何がそんなに面白いのか。一瞬別人のように感じた自分が馬鹿らしくなるくらいこの人はいつも通りだ。


 ふと、彼の持つパッケージに見覚えがあることに気づいた。確か従姉が吸っていたのと同じ銘柄だ。


「それ、女性に人気の銘柄ですよね」


「あー、らしいね。よく知って——はっ、もしかして……!」


「吸ってません」


 あからさまに歯切れも悪く、わかりやすく話題を逸らしてきた。先ほどの話と合わせて考えるとおそらく彼が吸っているのは——。いや、私には関係がないことだ。関係がない……はずなのになぜ私の胸は勝手に締め付けられるのか。なにもわからない。


「ハハハ、だよね。紫藤さん“真面目な優等生”だもんね」


「——っ!」


 ああ、何故だろう。子どものころから何度も何度も何度も言われてきた言葉なはずなのに、今はどうしようもなく癪に障る。「マジメ」「イイコ」「ユウトウセイ」……呪いのように私の体を縛る言葉たちがさっきの授業で目の前の男の言葉と一緒にリフレインする。


『案外紫陽花も満足してるのかもね』


 ああ、ほんとに腹が立つ。


「え、ちょっと!?」


 彼が吸おうとして持ち上げたタバコをその手から奪い取った。自分でも驚くほどスムーズに体は動いて、それを自分の口元に運ぶ。吸い方なんて知らない、とりあえず大きく息を吸ったら煙が一気に喉に侵入してくる異物感に大きく咳き込んだ。


 暫く内臓が吹っ飛ぶんじゃないかと思うくらい大きな咳をして、落ち着き始めたころ、あたふたと混乱しながらも私の身を案じる男の目を下からにらみつける。


「——私、マジメなイイコなんかじゃないですよ。ケホッ」


 私は、アジサイじゃない。

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