はい様
あづま乳業
置き配には死体が入っている
こんな都市伝説がある。
「はい様」と宛名の書かれた「置き配」を見つけたら、絶対近寄ってはいけない。
そこには死体が入っているからだ。
はい様の正体も、なぜそんな現象があるのかも、何もわかっていない。
○
玄関の前、雛が干からびていた。
まだ細い足と、針のように乾いた羽毛と。
天空を見上げれば積乱雲が広がっていた。
この干からびた脳にも大宇宙(おおぞら)は映っていたに違いない。数日前までは。
奏多(かなた)は東京の大学へ通うため、今年から横浜のアパート101号室で一人暮らししていた。
日吉駅から住宅街へと傾れる長い長い坂。
少しは登り慣れた七月、初めての酷暑が訪れた。
奏多は朽ちた雛を見ないようアパートの駐車場を進んだ。
102号室の前を通り過ぎる時、
置き配があるのを見つけた。
子どもの背丈ほどのダンボール、炎天下に晒されていた。
腐臭がした。
……何を注文したんだろう。
カレーの材料程度の肉で、ここまで酷い臭いは発しないだろう。
だいぶ、大きな肉。
ナマモノを腐らせる隣人がいるのは、小さな脅威だと思った。
失礼ながら、宛名を覗くことにした。
「はい様……?」
なんだそれは。
置き配にはその奇妙な名を除き、住所すら書いていなかった。
郵便を介さず、直接置かれたものだった。
まさか死体じゃないだろうな。
奏多は102号室の扉を一瞥した。
○
東京の国立博物館に寄り、横浜へ戻る頃、日吉商店街はもう茜色の日差しに充たされていた。
奏多はコンビニ袋をぶら下げ、長い長い坂を降り、アパートへ戻った。
今朝の置き配は、回収されていた。
はい様というのが、確かに102号室にいるのだ、そう思った。
○
その夜、奏多はいつまでも、枕元のノートPCを閉じられずにいた。
「はい様」とは何者か、少し気になっていたのだ。
ハンドルネームだろうか。ならどの字を当てるのか。
廃、這い、敗、灰、配、拝……思いのほか「はい」とは仄暗いイメージを持っていると知る。
あるいは記号かも知れない。φ、π……。
だが「はい」と聞いて、一番先に思いつくのは、これ抜きにしてない。
YES。
「神に誓って」
そう。肯定とは紀元前、誓いや祈りだった。
では日本の「はい」はというと。
なんと語源がわからない。
さまざまな仮説は立っているけれど、どれも決定的な証拠がない。
誰も由来を知らないまま、誰しもが唱えている奇妙な呪文が「はい」だった。
日本で「神」という概念が発生したのは、縄文時代あたりからだろう。
そのあたりから、人々は死者を供養し始めた。……祈る対象が発生したのだ。
縄文時代「肯定」は何かしらの神へ誠実を誓うものだったかも知れない。
そして時が流れ……誰に、何を誓っていたのかも忘れ去り、今も唱え続けている。
はい様とは、何者か。
聖(ひじり)か邪悪かさえ定かでなかった。
○
それから数日した頃だった。
102号室の住人を見る機会が訪れた。
母娘(おやこ)だった。
駐車場で、人の好さそうな30代くらいの母親と、小学生の女の子が軽トラックから家具を下ろしていた。
奏多は間の抜けた顔をしていた。
肉を腐らせる人物像から、母娘は真っ先に外していたからだ。
母親は微笑んで軽く会釈をした。
「こんにちは」
奏多ははっとして頭を下げた。
「……こんにちは。初めまして」
置き配を腐らせるような人には見えなかった。そして母親は。
「今日、引っ越してきたばかりなんです。よろしくお願いします」
そう言った。
「……?」
奏多は耳を疑った。
今日、引っ越してきたばかり?
なら昨日まで102号室は、空き部屋だったってことか?
じゃあ昨日の置き配。
誰が回収したんだ。
気味が悪い。
奏多はこれ以上考えないようにした。
「……こちらこそよろしくお願いします」
小学生の娘さんは見るからに内気そうだった。
奏多を前に身体をこわばらせている。
名を遙花(はるか)というらしかった。
奏多が挨拶をしようと近づくと、遙花はこぶしを握りカタカタと歯を鳴らして震えた。
奏多はこれが、ただの人見知りのようには思えなかった。
大人の男が怖いのだと思った。
何かしらの原因で。
厭な言葉で、傷つけられた事があるのだろうか。
それともお酒を飲んで暴れる姿を、見てしまったのだろうか。
奏多は両膝を地に着いて、遙花の目線の下に立った。
この子には絶対に、上から手を伸ばしてはいけないと思った。焼けたコンクリで膝が火傷しそうだった。でも遙花を怖がらせてしまうよりは、痛くはないと思った。
「よろしくね。遙花さん」
奏多はできる限り微笑んだ。
でも遙花はじっと奏多の膝を見詰めていた。
「……熱く、ないんですか?」
「熱い」
すると遙花はくすくすと笑った。
○
その夜のことだった。
102号室から、男たちの騒ぎ声が聞こえた。
引っ越しの打ち上げだろうか。
昼間見なかった者たちが集まっているようだ。
お酒をだいぶ飲んでいるようで、言葉遣いはとても乱暴で、会話の内容から、たぶん遙花の父親ではなかった。
それは深夜3時まで続いた。
それが週に3~4度繰り返されるようになり、打ち上げなどではなく、彼らにとって日常なのだと気づいた。
奏多は「困った隣人が訪れた」と思った。
○
雛の亡骸は影のようにぺちゃんこになりながら、まだ羽ばたくはずだった頃の面影を遺している。
遙花が102号室に入れず、ランドセルを抱え玄関の前で座り込んでいたのは、ある日の夕方だった。
奏多は、夏野菜の入った鞄を地面に置き、両膝をついて跪いた。
「どうしたの? 熱中症になるよ。涼しいところに入らなきゃだめだ」
遙花は涙をためていた。
「中に入っちゃいけないって。私、逆らったから」
夕は肌を焼くように暑かった。
万が一には死ぬかも知れない。
奏多はもしかしたら、遙花は愛されていないのではないかと思った。
そういえば遙花と初めて出会った時、カタカタと歯を鳴らしていたのを思い出した。
酷いことをされているのかも知れない。
○
住宅街の一角にある小さな公園は、葡萄色の陽が傾れ、遊具の影がいくつも連なっていた。
薄暗い木々に、蜩が響いている。
「ふぅ」
遙花は奏多に買って貰ったメロンソーダを、一息で半分飲んでしまった。
奏多はベンチの隣に腰掛け、それを見守っていた。
遙花は関わってはいけない子かも知れない。
それは遙花の周囲の大人たちが、奏多が今まで出会ってきた大人たちよりずっと「邪悪な人間」かも知れないからだ。
奏多は大学生だ。静かなところへ引っ越して、学業に専念するのが本望である。
ならば面倒な隣人に割く時間は1秒もない。
だから奏多は、今日を最後に遙花とは関わらないつもりだった。
奏多はとぼけて微笑んだ。
「遙花ちゃんは何が好き? 女の子の好きなものってなんだろ。……シナモロ……」
すると、遙花はパッと笑顔を咲かせた。
「宇宙」
奏多は言葉を失った。
「宇宙の果てに……何があるのか知りたくて」
遙花がランドセルから出したタブレットには、数式や図が所狭し書かれていた。
遙花はギフテッド……人類1%未満の天才である。
遙花は夕空に潤み始めた星々を見上げて、にこにことしていた。
「時間って数式上は時速30万キロで未来へ進んでいるんです! でも最近の科学では、重力の解釈が変わるかも知れないんです。もしかしたら、この世界がなぜ存在するのか解き明かせるかも……」
奏多は物理学なんて、林檎が落ちるくらいしか知らない。
遙花は奏多をまっすぐに見詰めていた。
「私、学者になって多くの人を救う発明がしたいんです」
奏多はしばし沈黙していた。
遙花が、ちゃんと大人になれたなら、きっとたくさんの人を救うだろう。
でも、たぶん、そうならず枯れる。
周りの大人たちによって。
直接、悪いことをする人はもちろん。
奏多を含めた周りが……傍観という凶器で間接的にすり潰してしまうから。
奏多は星を見上げて言った。
「遙花ちゃん。人を救うには、まず自分を救わないといけない」
遙花はきょとんとして奏多を見ていた。
「自分を?」
「それは、ちゃんと助けを求めるということ。
1度や2度では見て見ぬ振りをされてしまう。
だから10回でも100回でも叫ぶんだ。見て見ぬ振りが、出来なくなるほどに。
将来、君が救う人たちを一緒に救うつもりで、自分を救うんだ」
何を言っているんだろう。
奏多は、遙花を救う気なんてないくせに。
その言葉には、覚悟が宿っていなかった。
でも遙花にはその言葉が、刺さってしまったようだった。
ぽろぽろと涙を零し、顔を覆い、塞ぎ込んでしまった。
奏多が慌てても、遙花は耳を赤くして啜り泣くばかりだった。
そして。
「お願いです。お巡りさんに言わないでください。
……お母さんも、逮捕されちゃう」
奏多は言葉を失った。
「やさしかったんです。お父さんが亡くなって、まだ二人きりだった頃は」
遙花は奏多が思っているより、限界なのかも知れない。
想像よりずっと、地獄のような世界を観ているのかも知れない。
○
翌朝。
置き配があった。
先日、退去していった103号室だった。
やはり「はい様」とだけ書かれていた。
このアパートには、もう一つおかしなことが起きていたと思い出した。
奏多はこの置き配を、危険物として警察署に届けることにした。
○
置き配を開封すると、かぶと虫の死骸が詰まっていた。
饐えた臭いがむっと臭う。
若い警察官は溜息を吐いた。
「酷いイタズラ。元の住人が嫌がらせを受けていたのかも知れませんね。もう引っ越したと気づいてないんでしょう」
「こんなことする人、いるんですか?」
「居ます、居ます。郵便受けに猫の死体いれる人とか」
人間って壊れてるなと思った。
警察官はガラガラとかぶと虫の箱を揺らした。
「まだ、なんか入ってますよ」
かぶと虫に紛れて手紙が入っていた。
《はい様、生き返らせてください。中身は何でも構いませんから》
奏多は眉を顰めた。
呪いの類いである。
警察官はデスクのモニターと睨めっこしていた。
「アパートの住所、ネットに晒されてますよ」
「はい様 住所」でAND検索したらヒットしたそうだ。
勝手に、心霊スポットにされていた。
「はい様、生き返らせてください。中身は何でも構いませんから」と手紙を同封して、晒された住所へ死体を送りつけると、生き返らせてくれるという都市伝説が、SNSで広まっていたのだ。
標的となる住所は不定期で変わるようで、奏多のアパートが選ばれたのはたまたまらしかった。
荷物を送る方も送る方だ。こんなもん信じて。
けれど藁にもすがる想いなのだろう。
かぶと虫。
子どもが真に受けて送ったのだとすれば、可哀想だった。
やはりもう、あのアパートには住みたくない。
生家でもない。引っ越さない理由がどこにあろうか。
心残りがあるとすれば、遙花のことだった。
奏多は拳を握り、警察官に打ち明けた。
「あの、それから、102号室の騒音が酷くて」
警察官は笑った。
よくあるご近所トラブルへ話題が移ったと思ったようだった。
奏多は客観的事実を述べてから「ここからは憶測ですが」と、102号室で罪が起きているかも知れないと打ち明けた。
警察官は神妙になったが。
「今回は、ご報告があったと書き留めておきます」
そう返すに留まった。
証拠なく、SOSもなく、介入することはできない。
遙花自身の叫びが必要だった。
○
翌朝は日差しが強かった。
駐車場が照り返しで白く見える。
その日、
かぶと虫が妙に多かった。扉のそばにも排水口にも這っていた。
樹液もなしにこれほど寄るものだろうか。
疲れ切った脳でふと「はい様」は実在しているのでは、と思った。
あの置き配の死骸を、何匹か生き返らせたのでは、と。
……ははは、まさか。
そんなものが実在するなら、奏多たちは「はい」という度に、今も祈り続けていることになる。
もう何者かも忘れてしまった存在に。
何を祈っているかも自覚せずに。
遙花の母親が、ミニトマトの植木鉢に水をやっていた。
腕に何筋も、自傷の跡があった。
奏多は言った。
「綺麗ですね。トマト」
遙花の母親は、息を吸い、微笑んだ。
「ええ、緑と赤で。なんでこんな疑いもせず伸びていくんでしょうね」
母親の目は虚ろだった。
じょうろが空になると、ばさばさの髪の背中は、102号室へと戻っていった。
所詮同じアパートでたまたま隣だった者に過ぎない。
引っ越して数ヶ月もすれば、きっと忘れる。
そう、去って行く時、ちょっとだけ後味が悪いだけ。
母親が部屋に戻って、数分しないうちだった。
「助けて!」
102号室から声が聞こえた。
「お願い、助けて! もういや!!」
遙花の声だった。
何度も、何度も、空耳などとはぐらかせないほど、はっきりと。
遙花は助けを求めていた。
奏多は。
駆けだしていた。
全力で走り出してしまっていた。
走り出しながら、後悔していた。
どうして、関わってしまったんだ。
こんなことをするために、生きているんじゃない。
……でも。
もう、うんざりなんだ。
やさしさが一つもない世界なんて。
○
奏多は掃き出し窓を破り、102号室へと入った。
火が放たれていた。
遙花が放ったのだ。邪悪な男から身を守るために。
しかしその炎は、遙花自身を追い詰めるように広がっていた。
遙花は奏多が現れると縋り付き、力の限り泣き出した。
「ごめんなさい……私!」
奏多は跪き、その両肩を握った。
「もう君は独りじゃない。声は届いた」
目も肌も灼けるようだった。人生でこれほど火に囲まれた経験はなかった。
奏多は遙花を両腕に取り、抱き上げた。
○
男がひとり。玄関へと逃げていた。
奏多は、あれが遙花を傷つけていた男かと思った。
立派な身体をしているが、逃げることに夢中で、ずいぶん情けなく見えた。
遙花の母親は、ちょうど奏多たちと男との間で、どちらへ進むべきか、まごまごしていた。
奏多は「こちらへ来て」と叫べなかった。
こちらは奥の部屋で火の手に阻まれてしまい、助かる見込みが薄かった。
だから袋小路に追い詰められてまで遙花を助けに来い、とは言えなかった。
母親は、遙花ではなく玄関を選ぶだろう。
○
ふと。
気づけば。
奏多の足に、かぶと虫が這っていた。
よく見ると一匹ではない、何匹も部屋の中に這っている。
奏多は遙花を強く抱き、身構えた。
居る。
「はい様」が、この部屋に居る。
見ている。
観察している。虫かごを覗くように。
姿は見えなくても。
どんなつもりだ。
人が焼け死ぬのが見たいのか? 自分たちの死体が欲しいのか? 死体収集癖者だもんな。
一方、男の焦りは尋常でなかった。
玄関の扉が熱で歪み開かないようだった。扉が開かなければ、そこは出口でなく袋小路である。
男は苛立ちに任せ、かぶと虫を踏みつけた。
すると。
換気扇がひとりでに回り始めた。
そして黒煙は動線に乗って、男のいる部屋へと吸い寄せられ始めた。
奏多は、何が起こったのか分からなかった。けれどあれほど煙に巻かれてしまっては、男はもう助からないだろうと思った。
奏多たちの部屋は、あらかた燃え尽き、下火になっていった。
不自然な燃え方をしている。
正体不明の存在が、明らかにこの部屋に実在している。
遙花はかたかたと震え、奏多の腕にしがみついた。
しかし天井、冷蔵庫、クロゼット、次々に燃え、次々に倒壊している。
考えている時間はない。今この奇妙な時間のうちに窓へ走り出さなければ、次はない。
奏多が踵を返した時。
「……お母さん」
遙花は涙を流していた。
背後には。
遙花の母親は。
もう、亡かった。
家具に押しつぶされ、火の手に飲まれつつあった。
奏多は気づいた。母親が男のいる玄関でなく。
こちらの方を振り返って事切れているのを。
遙花を選んでから、死んだのだ。
奏多は母親の亡骸へ走った。
○
アパートが半焼してしまってから、奏多たちは代わりに用意された埼玉県大宮のアパートへ入っていた。
あの火災のあと、たいへん不思議だけど、誰の死体も見つからなかったという。
火元も警察の発表によれば、別の部屋だったという。
あれから、遙花の母親は、別人になったように逞しくなった。
「ほら遙花。ランドセル」
母親は遙花にパステルのランドセルを背負わせると、幸せそうに微笑んだ。
悪い縁を絶ち、笑顔朗らかで周囲に人が集まり、暮らしはみるみる真っ当になった。
もしかしたら、本当に別人なのかも知れない。
実は。
奏多は火災の時、母親の身体の一部を持ち帰っていた。
そして「はい様」に「生き返らせてくれ。中身はなんでもいいから」と手紙を同封した。
右目は、元のお母さんのままだろう。
元の彼女は、もう我が子を抱くことも、触れることも出来ないが、
涙を流すことはできるだろう。
遙花は目の周りを腫らし、奏多を見上げていた。
「あの……遠くへ行ってしまうんですか?」
奏多はもう少ししたら、大学へ近いアパートへ越すつもりだった。
大宮は東京から遠すぎるのである。
奏多が跪こうとすると、遙花は首を横に振った。
「もう、大丈夫です。座っていただかなくても」
奏多は何も言わず立ち上がった。
所詮、アパートの隣人。
部屋がなくなれば、星のように、どこまでだって遠くへ去ってゆくだろう。
いつか、また会える。なんてありもしないことは、告げずに去ろう。
「うん、次の部屋を探さないといけないからね」
了
はい様 あづま乳業 @AzumaNyugyo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます