あいろこいろ
栞子
あいろこいろ
カンカンカンカン……。
踏切が高らかに無風の夏の夜空に響き渡るが、どうにもおかしい。周辺の住宅はおろか、駅のホームまで明かりは落とされ、終電もとっくに走り終えた営業時間外なのは闇の深さから明らかだ。しかし、ダイヤに従った運行と変わらず電車はホームに滑りこんでくる。表示された行き先は――――「かゆきかくゆき」。どこ行きだというのか。
そもそも俺は、どうして自分が知らない駅にいるのかも分からない。しかし、制服で待ち合いイスに腰かけ、まるでこの電車を待っていたようだった。
窓の形に煌々と漏れる車内灯は、密度の濃い暗闇のせいで昼間見るよりよっぽど眩しい。段々と速度を落とし目の前を横切る車窓から人影はうかがえない。
やがて停車し、ドアが開く。すると、スライドしたドアの向こうには見たこともない光景が広がっていた。
目を奪うのはあたり一面の紫。一瞬紫雲が立ち込めたかと錯覚するが、よく見ると藤の花が天井からぶら下がっている。植物には疎いが、七月が藤の花の季節でないことは感覚で知っている。しかし、目前の一両にかぎってはまるでホームになだれ落ちてきそうなほど淡いパープルの花であふれ返っていた。
においたつ花房が揺れる。青みがかった影の奥に人が潜んでいたらしい。俺は固唾をのんで、その登場を待った。
最後の一房をかき分け姿を見せたのは、少女だった。多分、年は高校生の俺と同じくらいだろう。
癖がなく、ストンと真っ直ぐ胸まで流れ落ちた黒髪は光に照らされつやつや輝く。目はぱっちりと大きく、黒目がちだ。今じゃ祭り会場でしか見かけない浴衣をきちんと着込んでいる。藍色の布地に大ぶりの白い百合の模様があしらわれ、花が水に浮かんでいるような涼しげな柄だ。襟や裾からのぞく肌は白く、華奢な首や手首をよりはかなげに見せている。美少女と言って申し分ない出で立ちだ。もっと正直に言えば、タイプである。思わず誘われるように立ち上がり歩みかけたところで、少女が袖口を押さえもせず腕を持ち上げた。色白の肌が露わになる。首を横に振りながら腕は一直線に伸ばされ、人差し指が俺に突き付けられた。接近を拒否されたじろいで足を止めた俺を見据えたった一言少女は呟く。
「カナタ――――」
俺の名前を。
***
目覚ましのアラームの音で目が覚めた。夏の朝は早い。この時期特有の、じりじりと肌にまとわりつくうっとうしい日光がカーテンの隙間からベッドに横たわる俺を焦がしにかかる。朝日を浴びればすっきり目覚められるというがどうにも実感に乏しく、殊更不快な光にさらされ夏の寝起きは忌々しさがついてくる。
アラームを止めて起床。部屋から出て階下に降り、洗面所に向かう。冷たい水と、さわやかなミントのにおいの洗顔フォームで顔を洗えば、最低値の気分もさっぱり。タオルで顔をぬぐったところで頭も回転し始め、夢を見たことを思い出した。
夢はそんなに見る性質ではないし、内容の覚えも悪い。しかし、「また見たな」と感想を持つくらいには電車の夢の回数は多かった。その都度断片的だった記憶がひとつなぎになる。
「カナタ」と口にしていた。それはつまり、「奏多」という名の俺のことだ。見知らぬ美少女に名前を呼ばれ、得をした気持ちになる。名前を知られているのは俺の脳内が作り上げた世界だから当然なんだろうが。今度夢で会えれば、俺が少女の名を呼んだりするのだろうか。
***
「――――ナタ」
ばちっと目を開ける。カーテンの向こう側は少し明るい。四時くらいだろうか。寝汚い自分とは思えないほど、意識がはっきりしていた。耳の奥深くに残る声がある。
またあの夢だ。真夜中、無人の駅で待つ俺、やって来る藤の花に満ちた電車、浴衣姿の少女。これ以上の続きはなく、いつも首を振られて名前を呼ばれて終わり。
年頃に似合わない、深みのある声だ。かといって少女本人に不釣り合いなのかと問われれば、否と答える。呼び声をリフレインすると、青色に明るい水底に沈むイメージが湧く。睡眠導入効果のある音楽を聞いてる感覚で、不思議と落ち着く。最近この夢の頻度が上がってきたが、悪くないと思える理由だ。記憶が鮮明なうちに脳内であの声を繰り返す。よく眠れそうだ。
二度寝ののちいつもの起床時間に今度は目覚ましに叩き起こされた。睡眠は途切れたが、特に寝不足は感じない。普段どおり朝のルーティンをこなし何事もなく登校し、授業を受ければあっと言う間に昼休みだ。高校生活三年目も晴れて同じクラスとなった雄太と昼食を共にする。
俺は母親が作ってくれた弁当を、雄太はこの日は購買で買った焼きそばパンとメロンパンをつまんでいた。雄太は昨日見たドラマがよっぽど面白かったらしく、あらすじを六十分間分延々と語り継ぐ。来週初めて視聴しても困らなそうだ。と、よく食べよくしゃべる口が一瞬だけ大人しくなり、あくびをかました。
「うー、ねみぃ」
「何? 寝てねえの?」
「動画見漁っちゃって。あー、次の古典マジで寝そう」
もう一つ盛大にあくびをした雄太に、睡眠の話になったので気になることを尋ねてみた。
「雄太ってさ、夢ってよく見るか?」
「夢ぇ? 人並みか、それ以下じゃねえの。他の人がどんくらい見るか、知らねえもん」
「じゃあさ、同じ夢を何度も見たりは?」
「全く同じ夢を見たことはないと思う。歯が抜けるっていうのは、なんでかいろんなシチュエーションで体験するけど。何、夢占い?」
「いや、俺の夢の話でさ。知らない人が何度も夢に出てくるって、なんでだと思う?」
一番気になってたことだ。
「テレビで言ってただけだから、本当かどうかわかん分かんないけど」
と、前置きしてから雄太は聞きかじりの知識を披露した。
「人間って、自分の知っている範囲でしか夢を見ないんだって」
「つまり?」
「知らない人だと思っても、実は知人の顔のパーツを組み合わせて、架空の人物を作り上げたりするらしいぜ。モンタージュみたいに」
「マジで?」
食いつく俺に、雄太はこうも付け加えた。
「テレビで専門家でもない人が言ってただけだから半信半疑くらいがちょうどいいんだけど、知らないかと思いきやその人とは実はどこかで出会ってる可能性もあるんだとか。自分に覚えはなくても、脳が覚えてるってことらしい」
五限目の古典で予言どおり雄太は眠りこけていた。最前列にも関わらず首が九十度に垂れ下がっている。とはいえ正直なところ、真面目に授業を受けようとしたら俺も寝てしまいそうだった。
しょうがないので、昼休みの雄太の話を思い出す。
自身が知り得たものしか夢には出てこない、というのは十分有り得る気がした。どんなにクリエイティブに生きていても限界は己の知識の範囲と一致している。「創造」というのはえてしてそういうものなのだと思う。
なら、俺はいつ、あの少女と出会ったのだろう。同級生ではないのは確実だ。後輩の筋を考えるが、あの美少女ぶりならたとえ学年が違っても話題になってよさそうだ。同じ格好でなくとも見かけたら釘付けになって忘れそうもない。なら、印象に残らない程度の出会いだったのか。街中ですれ違って……なくはなさそうだ。
「はい、じゃあ次の歌、遠藤さん訳して」
「はい」
今日の授業は和歌について。指名された遠藤さんが、予習を兼ねた課題の現代語訳を発表する。
――――あなたを思って眠ったら、夢にあなたが出てきました。これが夢だと分かっていれば、私は目を覚まさなかったのに。
「はい、いいですよー。だいだいそのとおりです」
遠藤さんが読み上げた訳はおおむね合ってたらしい。そのまま品詞分解に入り助動詞の活用の説明を始めた。俺の苦手とするところであり、頭が一気に飽和状態でぼんやりしてしまう。
助動詞「まし」の意味や接続まで終わったところで、先生は「この歌のおもしろいところは」と切り出した。
「この歌のおもしろいところは、作者が好きな人を夢に見ている点です」
少し好奇心をつつくかれる出だしだ。眠気がパチンとはじけ、温かい空気がこもっていたような脳が冴え冴えとする。先生の顔を注視した。
「今のみなさんには〝自分の好きな人を夢に見る〟という考えが主流かもしれませんが、昔の人は〝自分を好きな人が夢で会いにくる〟と考えていました。だから現実で作者に会いに来もしない彼女の思い人は、当時なら本来夢にも出てこないはずなんです」
だからここで詠まれた〝あなた〟にはまだ望みがあるのかもしれないし、作者の思いが強すぎて新しい捉え方が生まれたのかもしれない、そういう解釈が多彩な歌なのだ――――との話だった。
自分を好きな人、か。俺が少女に会いたいより、少女が俺に会いたいの方が断然話の仕上がりはロマンチックになる。突拍子すぎるのは否定できないが。
俺は一体、どこで少女を知り得たのだろう。そればかりが気になって、あのきれいな面影ばかりが心を占めている。
***
甲高い踏み切りの音がうるさい。ああ、まただ……。夢の中にして夢だと悟る。慣れてきたものだ。
電車のライトが迫ってくる。やがて空気の抜ける音をさせドアは開き、一面紫色の幻想的な世界が広がる。乗っているのは、相変わらず浴衣姿の美少女だけ――――。
日を空けていた夜の邂逅が連日となるにつれ、俺は日に日に、彼女への思いが膨れ上がっていた。知りたい、近づきたい、名前を呼んで――――。思いのまま立ち上がれば、それを制すかのように彼女が腕を伸ばすのも知っているが、毎度のごとく今回も距離を詰めるべくイスから立ち上がった。やはり彼女は俺を指し――――名前を呟かなかった。それどころか、一歩後ずさって乗車口付近にスペースを空けた。今までと流れが異なる。しかし、これは誘われているのだと直感し、逸る心のまま今宵初めて車体に乗った。俺を待っていたかのごとくドアが閉まり、電車は出発する。行き先はどこだったか。そうだ、確か「かゆきかくゆき」とかいう、よく分からないところだ。
藤の天蓋の下で、俺と彼女は見つめ合う。すると彼女は、ひしと俺にしがみついてきた。鼻先をかすめた甘いにおいが、花のものか本人のものか判然としない。背中に腕をまわしたもんかと悩んでいれば、胸に額を寄せた彼女はこちらを見上げ、大きな目を少し細める。可憐な薄桃色の唇があのしっとりとやわらかな声を紡ぐ。
「これでようやく、彼方から此方になった――――」
***
「昨晩、このクラスの相良奏多が自宅で亡くなった。通夜は明日の十七時からとご家族から連絡があったので、何か特別の用事がない者は制服着用のうえ……」
あいろこいろ 栞子 @sizuka0716
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