第3話 花影に潜むは泡沫人か
中に入った咲花は、視覚と嗅覚を同時に奪われた。カウンターといくつかのテーブル席、そこに座る数人の主婦らしき中年の女性たち、の、周りを本がぎっしり詰まった棚が、ぐるりと囲んでいる。奥にはもっと多くの本棚があり、中は思っていたよりも広いらしいことが、咲花には分かった。
コーヒーの匂いがふわりと漂っており、重そうな看板とは対照的にこの建築物自体は比較的新しいことから、どうやらここは最近できたカフェらしいことは分かったのだが、どう見ても洋風な今どきの内装とは対照的に、本棚に並べられた本は、古くてしみだらけで、難しそうな漢字が並んだ分厚いハードカバーが多かった。
「はいいらっしゃい。おお、今日は連れがおるんでや」
店主らしき初老の男がにっこり笑ってカウンターから出てきた。グレーのポロシャツに薄茶のチノパンツというラフな格好だが、決して生地は悪くないことが一目で分かる。
「ブラックでよかとや」
「……あ、はい」
老人の視線が少年から自分に移ったのに咲花は気づいた。コテコテの方言が少々気になりつつも、ニュアンスで注文を聞かれているのだと察する。つい流れで答えてしまった後で、自分がブラックコーヒーが飲めないことを思い出した。
咲花を空いているテーブル席に座らせると、少年は奥の本棚の方へ行ってしまった。少しして、本を2冊取って戻ってくる。両方とも比較的新しく、一方はハードカバーで、もう一方は文庫本だった。ちょうど同時に、老人がブラックコーヒーを2つ持ってやって来る。
「はい、お待ちどぉさん」
「ありがとうございます」
ミルクピッチャーも砂糖もついていない。スティックシュガーが置いてありそうなところも見当たらない。ガチのブラックかよ……と心の中でぼやきながら、咲花はコーヒーを一口啜った。
「……あれ」
「美味しいでしょ。
「本当だ……めっちゃ美味しい」
「でしょ。ここ、2階は實雄さんが趣味で開いてる民間図書館なんだけど、出てくるもの全部美味しくてカフェとしても人気なんだ」
「ああ、それでこんなに沢山本が……」
高校受験期で毎晩カフェインを摂っていた頃は、牛乳と砂糖を大量に入れなければコーヒーなんて飲めなかった。部活に追われて何もできていなかった間に、体は――少なくとも舌に関しては、一足先に大人になっていたようだ。
「梅野さんだよね」
少年に苗字を呼ばれ、咲花の肩がびくっと跳ねた。少年の顔には見覚えがあった。同じ高校の同級生であることは知っているが、それ以上の情報が分からない。
「あ、うん。そうです。えっと」
「
「あっ、ごめん。吾嬬くん。覚えるね」
少々慌てている咲花とは対照的に、吾嬬はすん、と何かを見通そうとするかのように目を細めている。気まずそうにコーヒーに口を付けた咲花に、吾嬬は問うた。
「今日、部活は?」
「ああ、うん、辞めたの」
「そう。……何か他にやりたいことでもできたの?」
「んや、そういうわけじゃないんだ、けど」
ふい、と咲花は目を逸らした。特に志もなく入部した部活についていけなくて、退部した直後失恋しました、よってこれから何をしようとか考えていませんなんて、あまりに情けない。
俯いている咲花を暫く見つめた後、吾嬬は先程取ってきた文庫本を手に取った。『伊勢物語』というタイトルは、聞いたことがあった。「
「われならで
「……ん?」
唐突に、五・七・五・七・七のリズムでよくわからないことを言い出した吾嬬に、咲花は困惑の声をあげた。
「『伊勢物語』第三十七段で引かれている歌だよ。……まあ、朝顔はすぐにしぼんでしまうって意味かな」
どこか含みのある説明に、咲花は「はあ」と曖昧に返す。
「おんなじ朝顔の歌でさ、こんなのもあるんだ」
『伊勢物語』をテーブルに下ろし、今度はハードカバーの本を手に取ってぱらぱらし始める。『和漢朗詠集』というタイトルは、先程とは違い、ぴんと来なかった。
「わかんろうえいしゅう?」
「
「ふーん」
「お、あったあった」
吾嬬は開いているページを咲花に向けて、当該の歌を指さした。
「あさがほを なにはかなしと 思ひけむ 人をも花は いかが見るらむ」
咲花は、先程の吾嬬を真似て、読み上げてみた。
「そう、そうだね。さっきの歌は、朝顔を儚いものとして詠んだものだったね?対して、こっちは、朝顔がなんだ、花からすれば人間の方がよっぽど弱い生き物に見えているだろうよって意味なんだ」
「……」
絶妙に今の咲花の心を刺してくる歌のチョイスに少しだけ眉根を寄せると、何が面白いのか、吾嬬はふっと微笑んだ。
「視点を変えれば、別の景色が見えてくるってことだよ」
そして彼は徐に立ち上がり、雑誌や新聞などが置かれているラックから、チラシを1枚取ってきて咲花に手渡した。1番上に書かれた文字を見て、咲花は怪訝そうに吾嬬に目線を移した。
「学生和歌研究会?」
「そう。毎週土曜日、ここに集まって、高校生を中心に、和歌の研究をするんだ。半年ごとに互いに発表しあってるんだよ。ここにある本は、殆どが日本文学に関係するものなんだ」
「土曜日」
「興味があるなら、明日またここにおいで。さっきの和歌、解説ついてるから気になるなら本も借りていって家で見てみればいい」
カバンから取り出した付箋を、二冊の本の該当箇所に貼って、吾嬬は咲花に手渡した。ついでに出した財布から千円札を1枚出して、
「じゃあまた、機会があれば。ご馳走様でした」
そう言い残して帰っていった。
【参考】
・『新版 伊勢物語』石田穣二 昭和54年11月30日
・『新潮日本古典集成 新装版 和漢朗詠集』大曽根章介ほか 平成30年9月30日
可惜夜の舞姫 稲見春晴 @InamiShunzei
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