第2話 薄玻璃越しの徒夢

 恋に落ちるきっかけなんて、どこに落ちているか分からない。梅野うめの咲花さきかの場合は、落としたハンカチを拾って貰ったことだった。


 入学式から3日目の昼休み、前後の席の女の子たちと購買へ行こうと廊下を歩いていた時だった。


「梅野さん」


 振り返ると、同じクラスの瀬戸口せとぐち達樹たつきが、咲花のハンカチを持って近づいてきていた。


「これ。……気を付けて」


 声変わりして幾ばくもないだろうハスキーな声に、その声が織りなした何でもない注意喚起に、ハンカチを受け取るときに少し触れた、自分のそれよりごつごつとした大きな手に、口元の微笑みに、咲花の魂は憧れあくがた。薄紅の布地の待雪草の刺繡が、やたらと目についた。


 それからは、何となく瀬戸口を目で追うようになった。だから、5月の上旬に、彼がサッカー部の顧問と話をしているのもすぐに分かった。咲花がマネージャーになることを決めた瞬間だった。


 サッカー部に入部してからは、忙しい日々が続いた。元々サッカーには力を入れていた高校だったので、部員は多かったが、「強豪校のマネージャー」というブランドに惹かれる女子生徒もそれなりにいたため、最初は仕事も分散できた。


 しかし、遅くまで行われる練習や、休日毎に開催されるライバル校との合同試合等、強豪故に自由の利かない生活に、軽い気持ちで入部したマネージャー諸君は一人、また一人と脱落していった。そういう意味では、「軽い気持ち」筆頭とも言える咲花はよく耐えた方である。夏休みの合宿が始まる頃には、5人いたマネージャーは、咲花含め2人に減っていた。


 もう一人のマネージャーである高尾たかお亜由乃あゆのは美人で友人も派手な子が多く、男子部員からも人気のあるのに対し、咲花はというと、はっきり言って「サッカー部のマネージャー」という柄とはいい難かった。伸びっぱなしの髪を、かろうじて部活中はひっつめてはいるものの、目元にかかる前髪が如何にも鬱陶しく、真ん中で分けて適当にヘアピンで留めた姿は最早「女を捨てた」としか言いようのないものだった。


 別に咲花も、そんな姿になりたくてなってしまったわけではない。嘗ては彼女も、年頃の少女らしく肩より少し長いくらいの髪を丁寧にアイロンで伸ばしていたし、前髪も眉に少しかかる程度を常に保っていた。


 何ならセーラー服のスカートだって、今のようにただ「履いただけ」と言わんばかりに膝下10センチで諦めてなどいなかった。毎朝膝より少し高いくらいの位置で折って、ベルトで留めて登校していた。咲花だって、十分に「今時の女子高生」を謳歌しようとしていたのである。


「よく今の生活でそんなに綺麗にしていられるよね……何時に寝てるの」


 放課後、いつものようにジャージに着替えながら、咲花はぼそりと尋ねた。この頃の咲花は、入学当初仲良くしていた女の子たちからも何となく避けられがちになっていたのに気づいていて、弁当も部室で一人で食べるようになっていた。自分は全くついていけていないが、今流行っているらしいアイドルのトレーディングカードを挟んだ高尾の透明プラスチック製のスマホケースがちらと目に入り、ますます惨めになった。


「んー、2時くらい?」


 住む世界が違うと思った。帰宅して超特急で宿題を済ませて11時に寝ても足りない自分とは、根本的な何かが違うんだ。自分は、本来ここにいるべき人間ではないのだと悟った。


 2年に上がり、マネージャー志望の1年生が入ってきた時点で、退部を決めた。5月も下旬になり、後輩に必要なことは全て教えたと判断したある放課後、咲花は顧問に退部届を出した。


 置いていた私物を取りに部室へ向かうと、中からあの瀬戸口が出てきた。最後に一言話したいなと思い近づこうとしたとき、もう一人部室から、マネージャーの後輩が出てきた。


(……距離感)


 二人が自分とは反対側へ向かっていったのを待って、咲花は部室へ入った。窓ガラスに映ったバサバサの髪を見て、溜息を吐いた。


 新しい部活に入りたいと思えない。やりたいことも、特にない。別にマネージャーとしての活動も、やり甲斐を感じていたわけではなかったが、いざ辞めてみると、急に自分が空っぽになってしまった気がする。否、元々空っぽだったのを、多忙で無理やり埋めていただけに過ぎなかったのだろうか。


 こんな日は、まっすぐ家に帰る気になれない。足を動かしていないと、なんだか自分が消えてしまう気がした。いつもと違って帰宅部の多い帰路。梅雨の始まりを告げる土砂降りの中、毎日右に曲がる角を、ぼんやりとした頭で少し迷って左に曲がった。


 普段歩くことのない通りに、こんな心境でも物珍しさを感じる。比較的新しい住宅街をあてもなく歩いていると、重厚な木でできた看板と、その下の扉を開ける、制服姿の少年が目に入った。


「イーグル……?」


 看板に書かれた英字を読んだのが、そのまま声に出た。その声に振り返った少年は、隣のクラスの男子だった。


 何となく離れがたくてその場に立ち止まっていると、少年は中に入れと促すように、扉を開けたまま首を傾げて見せた。咲花は少年に誘われるまま、扉の奥へと入っていった。

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