可惜夜の舞姫

稲見春晴

第1話 プロローグ

 7月の19時なんて、夕方のようなものだ。空のオレンジと海の群青が遠くで交わり溶け合っている姿は、今日という日にはまるで逢瀬のようにも見える。


「晴れてよかった」

ぽつりと呟くと、少年がちらりとこちらを見た気配がした。


 サイダーの入ったペットボトルに少しだけ口を付けて、少女は水平線より上、金星が輝く空に目を向けた。


「今頃皆、明日に備えてコーチの奢りで美味しいもの食べてんのかなあ」

 遠くの地を想う少女のボブカットが、風に揺れる。ほんの一瞬、1か月半前よりも随分短くなったその髪が、彼女の横顔を隠した。


 このまま暗くなるのを待ったところで、日本の平地の薄汚れた空気に邪魔されて、天の川が見えないことは分かりきっていた。彼女は、織姫にはなれなかった。どこにでもいる高校2年生に過ぎないこの少女には、地球の遥か向こう側、星々が流れる河を渡って彦星が本当の妻に逢いに行く姿を、近くで見守ることすら許されない。


 風が止んだ。数える程の一等星と赤く点滅する飛行機の光しか映っていない彼女の瞳は、それでもどこかすっきりしたように見えて、サイダーで濡れた口元は、微笑みすら湛えていた。


「天の川 梶の音聞こゆ 彦星と 織姫たなばたつめと 今夜こよひ逢ふらしも」


 唐突に、少年が口を開いた。自分の知らない歌を聞くのも、もはや少女は慣れっこだった。


「それ、「今日の歌」?」


目線を少年に向け、少女が問う。


「そうだね。――今の君には、ちょっと嫌な歌かも」


いたずらっぽく笑う少年の目は、どことなく焦れているように、少女には映った。


 ふは、と笑い声が漏れた。クスクス笑いながら、少女は少年に向き直った。


「今の歌は結構分かりやすいし、あたしにも分かるよ。何となく、だけど」


ニッと歯を見せて笑って見せ、少女は続ける。


「でもやっぱり、解説は欲しいかな。……あなたの解釈を聞かせて」




【参考】

佐竹昭広ほか『萬葉集訳文篇』塙書房・昭和47年3月30日

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