奪う妖精

汐海有真(白木犀)

奪う妖精

 ――――星の綺麗な夜には、気を付けた方がいい

     妖精が、貴方から大きなものを奪うから――――




 清花さやかの黒い瞳には、美しい星々が散りばめられるかのように映り込んでいた。

 ベランダに設けられた鉄製の柵の前に年季の入った椅子を置いて、彼女はその上に立ち尽くしている。

 後少し頑張れば、清花は柵を乗り越えることができるだろう。

 そうすれば彼女はきっと死ぬ。何せここは、マンションの十階という高さなのだから。

 清花は長い間そこに立っていた。椅子から降りることも、ベランダから飛び降りることもせず。


「…………何をしているの?」


 清花ははっと目を見開いた。

 彼女の視界の先には、不思議な少女がいた。

 金色の長髪に、濃い紫色のワンピース。まるで星空のような色合いをした彼女は、清花の片手ほどの大きさしかなくて、きらきらと光を散らしながら羽ばたいている。


「何者、ですか」


 清花の問いに、くすくすという笑い声が返ってくる。


「わたし? わたしは、妖精」

「もしかして……『奪う妖精』ですか」

「あら、ご存知なんだ」


 妖精はまた、くすくすと笑った。

 清花は呆然と妖精を見ていた。

 クラスの女子が話している噂話を耳にしたときは、馬鹿じゃないのかと思ったものだ。

 だって妖精なんて、御伽噺の中の存在だと信じて疑わなかったから。

 やがて清花は、自身の手のひらに爪を立てる。


「…………大きなものを、奪うって。本当なんですか」

「そうよ」


 妖精は微笑を湛えながら、頷いてみせる。

 清花は口角を歪めて、「……それなら、丁度よかったです」と言う。



「私から、命を奪ってくれませんか」



 震えた声で、清花は告げる。

 その言葉を聞いたときも、妖精は少しも驚いた様子もなく微笑っていた。


「やっぱり、あなた、死のうとしていたのね」

「…………はい」

「それは、どうして?」


 妖精の問いに、清花は俯いた。


「……うまくいかないことばかりで、苦しいからです。友達もいないし、家族ともうまくやれない。やりたいことも見つからないし、とにかく苦しいんですよ……」

「ふうん」


 妖精は目を細める。

 陰鬱とした自身の思考を全て見透かされているように思えて、清花にはそれが少し怖かった。


「……じゃあ、奪ってあげる」


 くすりと笑って、妖精が清花へと近付いてくる。

 ああ、ようやく死ねるのだ――そう思って、清花が深く安堵しようとしたとき。

 妖精は、清花の耳元で、ささやいた。



「――――わたしはね、わたしが奪いたいものしか、奪わないの」



 その言葉の意味を、清花が考えようとした頃には。

 彼女の意識は、星夜に溶けるように消えていった。




 清花は、ゆっくりとまぶたを開く。

 そこにあったのは倒れた椅子と、柵の向こうに広がる美しい朝焼けに包まれた街並み。

 清花はばっと自分の身体を見る。

 そこには確かに、普段と何一つ変わらない肉体があった。


「え…………」


 彼女はそんな声を漏らす。

 それから、妖精が最後に残した言葉を思い出した。


『奪いたいものしか、奪わないの』


 清花は自分の命が、妖精が奪いたかったものではなかったことを知る。

 それなのに、彼女の中に生まれた感情は、悲哀でも怒りでも辛さでもなく。

 ただ、「よかった」という安心感で。

 ようやく、清花は気付いた。

 ――自分の中に巣食っていた希死念慮が、綺麗さっぱり消え去っていることに。


「…………奪われたもの、って」


 清花は、心臓の辺りに手を当てながら呟いた。

 彼女の目に段々と、涙が滲んでいく。


「そうだった……私、まだ、やり残したことばかりなのに、何で今まで、あんなにも……」



 …………死にたかったのだろう?



 朝焼けの映る瞳から、ぼたぼたと涙が落ちていく。


「あり、がとう」


 清花は両手で顔を覆う。

 くすりという笑い声が、ほんの少しだけ聞こえたような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

奪う妖精 汐海有真(白木犀) @tea_olive

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ