ある憂鬱の不適切な解法

増田朋美

ある憂鬱の不適切な解法

その日は比較的涼しくて、雨が降っているとこういう日もあるのだというくらいすごしやすい日であった。こういう日は長続きしないものであるが、こういうときこそ人間は間違ったことをしてしまうものである。

その日、浜島咲は、なんだか憂鬱な気分が抜けなくて、職場であるお琴教室からまっすぐ家に帰ろうという気にもなれず、製鉄所に立ち寄ることにした。製鉄所と言っても、鉄を作る場所ではない。居場所のない女性たちが、勉強や仕事などをするための、部屋を貸し出している福祉施設である。なぜ製鉄所という名前なのかは咲もよく知らないが、施設が創立されたときからそう呼ばれているようである。製鉄所に行けば必ず誰かしら利用者がいるし、水穂さんのように間借りをしている人もいるので、愚痴をこぼすにはちょうどよい場所であった。製鉄所にいる人たちは、みんな優しくて良い人たちであることを咲は知っていた。

「こんにちは。」

咲は、製鉄所の玄関の引き戸を開けた。製鉄所の玄関には、インターフォンが用意されていない。それは挨拶の大切さを感じるためだというが、それだけが狙いではないようなきがする。

「こんにちは。」

1回目に挨拶しても反応がなかったので、咲はもう一回言ってみた。それでやっと中の人たちは気がついてくれたようで、杉ちゃんのでかい声で、

「ああ、はまじさんいいよ。入れ。」

という声が聞こえてきた。咲はおじゃましますといって草履を脱ぎ、段差のない土間から、製鉄所の建物内にはいった。一番おくの四畳半に向かうと、ピアノの音が聞こえてきた。咲には聞いたことのない曲であった。

「こんにちは。右城くんちょっと聞いてよ。今日はこんなあめだから、化繊の着物でも良いと思ったのに苑子さんときたら、」

と言いながら咲は襖を開けると、水穂さんがピアノを弾いていて、その近くで有森五郎さんが水穂さんの机を借りて何か書いていていた。咲はこの五郎さんが苦手であった。

「こ、こ、こん、にち、は。は、はま、じ、ま、さん。」

五郎さんの喋り方はいつもこうだ。五郎さんは重度の吃音であった。だから、喋るのが不自由であり、発音も極めて悪い。ときには通訳をつけようと言われたこともある。

「ああどうも。」

咲は、嫌そうな顔をして、五郎さんに挨拶した。 それと同時に水穂さんもピアノを引く手を止めて、こんにちはと咲に挨拶した。

「いまのは何の曲だったんですか?」

咲はわざとらしく水穂さんに聞いた。本当は五郎さんから水穂さんに視点を移してもらいたかった。

「アルカンの鉄道です。」

水穂さんが答えると、

「鉄道ねえ、いいなあ。あたしも、できれば鉄道に乗って、どっかへ消えてしまいたい。」

と咲は思わず言ってしまった。

「と、い、う、こと、は、」

五郎さんが咲に返す。水穂さんは、五郎さんに介入せずに、ちゃんと話せるようにしているようであった。

「あ、あ、あの、ま、た、そ、のこ、せん、せに、し、か、られて?」

それがまた苑子先生に叱られたのか聞いているんだと理解するのに、咲は数秒かかった。全く五郎さんは親切心で言ってくれているのだから止めては行けないと言う水穂さんの思いもわかることはわかるのだが、どうも咲はイライラして仕方ない。

「あ、の、き、も、のの、こ、と、で、また、おこ、ら、れ、たんですか?ほ、ら、しゅ、る、いが、ち、がう、とか。ほ、もん、ぎ、と、つけ、さ、げの、ち、がい、とか。」

咲は、困った顔で水穂さんを見た。水穂さんは黙っている。五郎さんは一生懸命喋ってくれるけれど、その発音が悪いせいで咲には、なんと言っているのかよくわからないのだ。

「そ、れ、とも、そけんと、かせい、の、ち、がい、ですか?」

この文書ではそけんとかせいと言う単語だけ咲は聞き取れた。そして、それが正絹と化繊の違いのことを聞いているんだということを頭を捻って考えてやっと理解し、大きなため息をついて、

「そうよ。五郎さん。あたしが怒られたのはまさにそれ。正絹と化繊の違いよね。今日は、雨が降っているでしょ。だから化繊の着物でも大丈夫かなって思って、化繊の着物でお稽古に来た人がいたんだけど、苑子さんたら、正絹でなければだめだって、怒ったのよ。」

と言った。しかし、五郎さんは、何を言っているのかわからないと言う顔をしている。

「浜島さん、もうちょっとゆっくり喋ってあげてください。耳が遠いわけでは無いのですが、五郎さんは、理解するのに手間がかかります。」

水穂さんがそう言ったので、咲はもう一回いいなおさなければならないということに気がついた。面倒くさいなといいたかったが、それはやめておいて、

「だからあ、雨が降ってるから、化繊の着物でいいかなって思って、化繊の着物を着てきた人がいたの。それで怒られたのよ、苑子さんに。」

と言った。それでも五郎さんはどう反応したらいいのかわからないと言う顔をしている。咲が困って水穂さんを見ると、

「浜島さん、一度に全部言おうとしないで、一つ一つ切って話してあげてくれませんか。五郎さんは、僕らの様に一度で全部の内容を理解するのは難しいのです。」

と水穂さんは言った。

「は?それは何?何であたしがそんなことしなくちゃいけないのよ。大体ね。あたしは、誰かに聞いてもらいたくてこっちへ来たのに、何でこんな人に考慮して喋んなくちゃいけないわけ。ましてや、言葉が喋れないから、それなりに考慮しなくちゃだめで、一つ一つ分けて話せですって?何を言ってるの。どうせ、かえってくる答えだってろくなものじゃないでしょ。それなのに、どうしてあたしが五郎さんに考慮しなくちゃいけないのよ。呆れちゃうわね。あーあ、とんだ無駄骨おりになっちゃったわ。右城くんたちに聞いてもらって、スッキリしようと思って、来たつもりだったのに!」

水穂さんにそう言われて咲は思わず本音を漏らしてしまった。本当はそういうことを言ったら、人種差別になってしまうことは咲も知っているけれど、今日は、そういうわけにいかない。イライラが溜まっているのだから、そんなときに五郎さんにわかるように話を区切って話せなんてできるはずもない。それに五郎さんが、咲の話をちゃんと聞いてくれるとは思えない。それでは、全く意味がないじゃない!と咲は思ってしまったのであった。

「そうですね。確かにありふれた答えしか返ってこないかもしれないですけど、言いたいことを分散していったほうが、一気に言うよりも要点が見えてくると考えれば、それは悪いことではないと思いますが?」

「右城くんはそう言うけどねえ。でもさあ、普通の人は、一気に話をして、相手から回答を得ればそれでおしまいよ。それが当たり前じゃないの。世の中ってそういうふうにできてるんじゃないの?」

水穂さんがそう返すと咲は呆れていった。

「うーんそうですね。でも、普通の人って何なんでしょうね?だって、完璧に何でもできる人なんて、どこにもいないじゃないですか。ただ大小の違いがあるだけで、僕も、浜島さんも、五郎さんもなにかしら欠点があって完璧に何でもできるわけじゃないでしょう。それを考えると、普通の人がどうのという理論は間違いだと思いますけどね。」

水穂さんは咲の言葉にそう返すが、咲は、どうしてもそうとは思えなかった。もちろん、それは頭というか理論ではわかるのであるが、でも何でかわからないけれど感情では、そういう気持ちになることができない。まだ、一気に相手にぐちをこぼして、楽になりたいという気持ちが残っている。

「それに、五郎さんの答えをろくな答えじゃないと決めつけるのはいけないことだと思いますよ。少なくとも、五郎さんは僕らより不自由なところがあって、それなのに一生懸命聞こうとしてくれているわけですから、そこは評価しないと。」

「そうなのね右城くん!」

咲は思わず言ってしまった。

「間違ってるのは右城くんたちの方よ!ろくな答えしか出せない人に無理やり喋らせて、あたしに、喋れない人への配慮で言いたいことを分散させろですって!は、笑わせるんじゃないわよ。そんなの憂鬱への間違った解釈よ。憂鬱ってのは、一気に話して、それを聞いてもらうのが、一番正しい解決方法なのよ!それに、五郎さんに無理やり言わせて、できないことを、無理やりさせるのだって可哀想なことだと思うけど!わざわざできないことを、そうやってさせるって、それも人種差別に当たるんじゃないの!」

「そうですかね。」

水穂さんは静かに言った。

「できないからと言って、社会から離してしまうのが一番五郎さんに取って辛いんじゃないかと思うんですけどね。」

「い、え、は、ま、じま、さ、ん、の、いとうり、です。」

水穂さんに続いて五郎さんは言った。

「は?浜島さんのいとうりです?何よそれ。いとうりって、ヘチマじゃないわよね、まさか。」

咲は、イライラしているから、そういうふうに思ってしまった。

「は、ま、じま、さ、ん、の、いとうり、です。ま、ちがい、はあえ、ません。」

「ああもう!変なところで言葉を切らないでよ!五郎さんもちゃんと話して。あたしは、思うんだけど、もちろん誰でもできないことはあるわ。でもできないからってそれを変えるように努力をして、なるべくなら普通の人にあわせられるようにしていくことが大事なんじゃないかしら。余分な努力かもしれないけれど、この世の中は、五郎さんみたいな人はほんとうに少ないわけだし、そういう人に多くの人があわせるっていうのはどうかと思うのよね。それよりも、できる人、つまり多数派に、あわせていくのが大事なのではないかと思うのよね。」

苛立った咲は、五郎さんに早口に言った。でも五郎さんは多分彼女の怒りの原因を読み取ってはくれなかったのだろう。何がなんだかわからないという顔をして、水穂さんの方を向いてしまった。

「五郎さん、ちょっと聞くけど、あなた今の話をどこまで理解しているのかしら。わかるんだったら、あたしが今言ったことを復唱してよ。」

咲がそう言うと五郎さんは、

「い、え、ないも。」

としか言わなかった。

「は?何も理解していないってこと?だって五郎さん耳が遠いわけではないでしょう?ちゃんとあたしの話が聞こえてるでしょう?それもわからないの?」

咲はもう一度聞いてしまう。五郎さんは水穂さんのほうを見ると、

「五郎さんは、浜島さんの、話が、聞こえているのですか?」

水穂さんはゆっくり喋った。

「あい。」

五郎さんはそう答えた。

「じゃあ、浜島さんが、何を、喋ったのか、内容を、理解することは、できますか?」

水穂さんが聞くと、

「わ、かりま、せん。」

と五郎さんは言った。

「だって少なくとも目は見えているはずだし、耳が聞こえないわけでも無いのに、はあ全く変な人!」

咲はそう言ってしまったが、

「浜島さんの、口が、動くのは、見えますか?」

水穂さんは話を続けた。

「いえます。」

五郎さんは答えた。それが言えますではなくて、見えますであることを咲は考える必要があった。

「そうですか。じゃあ、浜島さんの、声が、聞こえますか?」

水穂さんが聞くと、

「きかえます。」

と五郎さんは、意味不明な言葉を発した。これは文字通りきかえますだと意味がわからないが、聞こえますと翻訳すれば通じるのだった。

「浜島さんの、声が、聞こえるんですね?」

水穂さんが再度確認すると、

「きかえます。」

とまた意味不明な単語が返ってくる。咲は、ちゃんと答えてと言おうとしたが、五郎さんは話を続けた。

「きかえま、す、が、ない、お、いって、いる、か、は。」

「ああわかりました、つまり口の動くのは見えるし声は聞こえるのは確かなのでしょうが、何を言っているのかはわからない。と言う答えなんですか?」

水穂さんが五郎さんの答えをまとめるようにいうと、五郎さんは、

「あい。そのたうりです。」

と答えるのだった。それがはいそのとおりですに該当すると言うことを導き出すのに咲は、頭を捻らなければならなかった。

「そうなのね。まあ口の動くのが見えるだけで、声が聞こえるだけでということなんでしょうけど、同じ日本人なんだし、日本語喋っているわけでしょう。それなのに、外国語を喋っているようにしか見えないっていうのは、ちょっとおかしいんじゃないの?それなら、ちゃんと専門家に見てもらって、声の訓練とか受けるべきだと思うけど?」

咲はそう言ってしまうが、

「いや、何でも、そういう人に任されていてはいけません。」

水穂さんがきっぱりと言った。

「ごえんなさい。」

五郎さんは咲に申し訳無さそうに言った。

「ごえん?何のことよ、ちゃんと喋ってよ。お金の五円のこと?それとも誤嚥性肺炎とかそういうもの?ああもう、困っちゃうわねえ。そういうところが。」

咲は大きなため息をついてしまうが、

「いやあ、脳梗塞で入院でもすれば、浜島さんも五郎さんのようになる可能性もありますよ。」

と、水穂さんに言われてまた黙ってしまった。

「ごえんなさい。」

五郎さんはもう一度言った。

「ぼ、く、は、た、だ、はまじ、ま、さん、の、おあなし、を、ききた、かった。それ、だけ、の、こと、で、す。ほんたうに、ごえんなさい。」

そういう五郎さんは、なんだか歩けないのに階段を登れと言われているのと同じような気持ちなんだろう。もしかしたら、慈善事業的なことをやってる人であれば、無理してごめんなさいなんて言わなくても良いと言うかもしれないが、咲は、なんだか彼を許せなかった。

「もういいじゃないですか。一度謝ればそれでいいにしてあげてください。五郎さんが喋れないのは、逆立ちしても治せないわけですから、ある意味では片方が諦めることも大事なんですよ。」

水穂さんはそういったのだが、咲は

「右城くんも、そういうことなの?違うでしょ。そういうふうに今の医学では努力次第でなんとかなるっていう世の中なのに、なんとかしようとしないで、相手を許してやれなんて、虫が良すぎるわ。」

と言ってしまった。

「右城くんだって、いつまでもここにいないで、ちゃんと身体を治してもとの生活に戻ったらどうなのよ。結核は昔ほど怖いもんじゃないって、もう散々わかってるのに、何でいつまでもここにいるのかなってあたしは不思議に思うわよ。」

「は、ま、じま、さんは、ほ、んと、う、に、さ、ざえ、さんの、あなざわ、さ、ん、みた、い、です、ね。」

いきなり五郎さんがそう言ったので咲は、は?となった。

「何よ、あたしが、なにか困ったことでもあるといいたいの?もうふたりとも事情があるのはわかるけど、でも、できるだけ普通の人に近づけたほうがいいってのは、あたしは間違ってないと思うけどな。」

思わずそう言ってしまうのであるが、

「僕も、ごめんなさいというべきなんですかね。浜島さんに。」

水穂さんはそう言ったのだが、少し疲れてしまったようで、ピアノの椅子に座ったまま、二三度咳き込んでしまったのだった。こうなると咲は、何で右城くんも五郎さんと大して変わりなくて、説得力が無いわねえとバカにしてやりたくなってしまったのであるが、水穂さんが咳き込むのは止まらなかった。五郎さんはすぐに、水穂さんの座っているピアノの椅子の方へ向かって、水穂さんの背中をさすったり叩いたりし始めた。五郎さんが、

「だ、い、そ、ぶ、です、か?」

と水穂さんに聞いているのがいじらしいというかなんだか呆れてしまうというか、文章では言い表せない変な気持ちを咲に湧き上がらせた。水穂さんの口元から赤い液体が漏れてきて、口に当てた手を汚すと、五郎さんは急いで近くにあったタオルでそれを拭き取った。そして、

「は、ま、じま、」

といいかけたが、咲は五郎さんが何を頼んでいるのかわかってしまって、すぐに枕元にあった吸飲みを、五郎さんに渡した。五郎さんが水穂さんにそれを渡すと、水穂さんはそれを受け取れる気力はあったらしい。咳き込みながらそれを受け取って、中身を飲み込んだ。吸飲みを五郎さんに返すと、咳き込むのは静かになり、口元から血液が漏れてくることもなくなった。

「も、う、ふ、とん、に、は、い、て、やすん、だは。うが、い、です。よ、こ、に、あっ、たほが。」

五郎さんがそう言うと、咲も同じ気持ちになった。

「右城くんもつかれたんなら、横になったほうが良いわ。もう、明治とか大正とかじゃないんだから、右城くんもちゃんと自己管理してよね。」

負け惜しみを忘れずに、咲は言った。五郎さんが水穂さんの肩を支えて一度立たせ、ピアノの前に敷いてある布団に横にならせて掛ふとんをかけてあげた。咲は、そこまで水穂さんにしてあげられるかなと思った。そんな優しいこと、自分にできるだろうか。五郎さんは平気でそういう事するけど私は、できるだろうか?なんだかそれをしてあげないと、悪いことをしていることになるだろうか?いや違う、こういうことは介護を仕事にしている人とか、看護師とか、そういう人がするものだから私は間違っていない。でも、五郎さんはそういうことができてしまうのはなぜ?そういう気持ちが湧いてきて、咲は理由のわからなくなってしまったのであるが、

「浜島さんどうもすみませんね。ご迷惑をおかけしました。お詫びですが、これ、受け取ってください。」

水穂さんがどこからか出したのかわからない茶封筒を咲に渡そうとしたが、

「いえ、それは結構よ。」

と、咲は受け取らなかった。うけとってしまったら、なんだか悪いことをしているような気持ちになってしまうからだ。それはどうしてもしたくなかった。もしそれをしなければならない世の中になったら、本当に五郎さんや水穂さんの立場はどうなるのだろう?そういえばそういうことを主張していた人もいたけれど、咲はそういう人間にはなりたくないなと思った。そんなことが当たり前にならないような、そんな世の中でいたいと咲は思ったのであった。

外は晴れてきた。長く厳しい夏が本格的に始まるのだった。

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ある憂鬱の不適切な解法 増田朋美 @masubuchi4996

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