天の羽衣

早川 沙希

天の羽衣

1966年、アポロ11号計画の3年前に実行された月面着陸計画が存在する。

それが「ピューマ計画」である。

この計画はアメリカの一般市民を含めた世界中の人々に知らされないまま、秘密裏に進められた。

当時のアメリカ政府が、計画が不成功だった場合のアメリカ国民の失望や諸外国の反応を懸念したためである。


この計画では、アルヴァ・クラークを船長とした月着陸船「ピューマ号」が打ち上げられた。

船にはクラークを入れて5人の船員が搭乗していた。

リーダーとして極めて優秀なクラークを含め、全員がお互いを尊重しあい、優れたチームワークを発揮していた。

ピューマ号は打ち上げから5日後に月に着陸した。


まず最初に船長であるクラークが月面に降り立った。

クラークが月面に立った瞬間、船員達は我が事のように喜び、誇らしさに満ち、船内で盛大な拍手をした。

計画は成功したのだから、彼らの功績は世界中に知らされることになるだろう。

先ほどピューマ号から地球へ「船が月面に接近した」というメッセージを発信した直後に、通信障害が起こり、月面上で復旧作業を行っている最中だったが、復旧すればすぐに月面着陸成功のメッセージを送るのだ。

クラークは感動と高揚感で胸をいっぱいにしながら、灰色の月面を見渡した。

クラークはしばらく一人で佇んだあと、ピューマ号の窓からそわそわと自分を見守っている船員達に、降りてくるように笑って合図しようとした。


しかし、クラークは上げかけた右手をぴたりと止め、息を呑んだ。

ピューマ号の向こうから、乳白色のシーツのようなものがふわりと姿を現したのだ。

それは水中を泳ぐエイのようにふわふわとクラークの方へ近づいてきた。

子供を完全に包み込んでしまえるほどの大きさのその生物は、クラークの目の前に来ると、ふわりと浮いたままその場に止まった。

子供がハロウィンに仮装するシーツおばけのようなシルエットだった。

その生物は頭部のような丸みを帯びた部分こそあるものの、顔のパーツは何もない。

しかし、クラークは「見つめられている」と確信していた。

宇宙空間での得体の知れない存在との接近は、それまでは常に冷静沈着だったクラークを恐怖で硬直させるには充分だった。


ピューマ号の中の船員達は、突如現れた謎の生物が船長に危害を加えるかもしれないと焦り、船の外に出るために慌ててエアロックの扉を開けようとした。

船員達は青ざめた。

エアロックの扉が開かないのだ。

船の外にいるクラークの方からは、その原因が見えていた。

布のような生物の後ろの部分から、いつの間にかミルク色の触手が尻尾のように伸び、その先には、船の扉とその周りの部分をすっぽりと覆う赤みがかった粘液がついていたのだ。

クラークは一人でこの生物と対峙しなければならないことを悟った。

クラークはなんとか気持ちを落ち着かせ、「船内に侵入されなかっただけまだマシだ」と思い直した。

この生物と少しでも距離を取ろうとゆっくりと後退りをするが、生物もそれに合わせてふわりとついてくるため、距離は変わらなかった。


生物はひらひらとした体の両端を伸ばし、クラークの両肩に乗せた。

その瞬間、宇宙服越しにもかかわらず、クラークはとても奇妙な感覚を感じた。

袋に入った水を肩に乗せられたような、うねりを伴う独特の圧迫感。

電気治療を受けているときと似た感覚。

電流だろうか、とクラークはぼんやりと思った。

圧迫感は肩から首、顎、頭の両脇を伝い、脳にまとわりつき始める。

奇妙なことに、この生物に触れられてからクラークの恐怖心は一瞬で消えてしまっていた。

まるでこの生物が、愛しい誰かのように思えてきたのだ。

生き別れた大切な誰かと、苦難の末にようやく再会できたような感情。

小さな子供の頃以来感じたことのない、甘えて抱きつきたいような温かく切ない感情。

そういった感情がはちきれんばかりにクラークの胸を満たした。

そのかわりに、地球で自分の帰りを待つ人々の存在や、計画の成功や、船長としての責任や、人類初の月面着陸の名誉など、そういったものは全て道路に吐き捨てられた唾のようにどうでもいいものになってしまった。


ふと気がつくと、あの生物が後ろからクラークの肩に覆い被さっていた。

クラークからすれば“愛しいひと”に後ろから抱きしめられているような感覚だったが、船の中の乗組員からは奇妙なショールを羽織っているように見えた。


クラークは肩の上の愛しいひとに、キスの一つでもしてあげたかった。

宇宙服のヘルメットがそれを許さないことに気づくと、クラークは何の迷いもなくヘルメットを外しにかかった。

しかし、宇宙空間で一人で宇宙服のヘルメットを外すことは物理的に不可能だった。

クラークにとっては非常に腹立だしいことだったが、他の船員達にとっては非常にありがたいことだった。


クラークは船の中に戻ってから宇宙服を脱ぎ、愛しいひととゆっくり過ごそうと考え直した。

ピューマ号の窓に歩み寄り、船員達に今すぐ扉を開けて自分達を中に入れるよう命令した。

しかし、船員達は顔をこわばらせたまま一向にドアを開けようとしない。

船員達はクラークの肩の生物を指差し、「それを取れ」とジェスチャーで必死に訴えかけた。

クラークは顔を顰めた。

私の愛しいひとに向かってなんという態度を取るのだと、また腹を立てた。


その時、生物がクラークの肩から飛び上がった。

そして、ピューマ号の真上で浮かびあがると、大きく体を広げ伸ばし、窓の前に立つクラークごと船体にふわりと覆い被さった。

生物の体に船体ごと包み込まれた4人の船員達とクラークは、袋に入った水を肩に乗せられたような、うねりを伴う独特の圧迫感を感じた。

クラークと同じように、4人の船員達の心からも恐怖が消え去り、今までに感じたことがないほどの愛おしさで満ち、それまでは大切だった様々なものがどうでもいいものになっていった。


薄れゆく意識の中、クラークは「船員達はひどい態度をとったものだ」と思っていた。

「あんな態度を取るとは!いくらあのひとでも、耐えきれなかったんだ。あとであの人に謝らなければ。あのひとは優しい。全員で謝ればきっと許してくれるだろう……」


生物は、ピューマ号と5人の船員達を体にすっぽりと包み込み、月面からゆっくりと浮かび上がった。

まるで巨大な白いバルーンのようになったそれは、月から遠く離れどこかへ行ってしまった。


地球とピューマ号との通信は途絶え、月面上にも月の周辺にもピューマ号の姿はなく、行方が全く分からなくなった。

そして、「船が月面に接近した」というピューマ号からのメッセージを受信した直後に、メッセージの受送信ができなくなっていたため、地球上の人々は船員達が月面に着陸できたのかどうかも分からなかった。

結局、着陸計画は成功したのか失敗したのか不明のまま、1966年のピューマ計画の存在は公表されず、歴史の闇に葬られたのだった。






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