私の師匠(前)
「っ……! 待て!」
伸ばした手は空を切った。気付けば、私は師匠といつも稽古をする場所に居た。空間を移動する技術なんて聞いたことが無い。あの吸血鬼は、私が考えていた以上に底が知れなかった。
「……まだ、足りないんだ」
腰に差した刀を強く握る。これは師匠が15の誕生日に送ってくれたもので、私の国に由来する珍しい刀剣らしい。この刀を受け取った時のことは、今でも脳裏に刻まれている。
『これからも頼んだぞ。カエデになら、後ろを任せられる』
師匠。私だけの、師匠。貴方が居たから、今の私は生きている。貴方が居るから、私は今日も生きている。貴方が居ないのなら、これからの人生に意味は無い。
だから、私はもっと強くならなくちゃいけない。この世は不条理で、不公平で、不平等なのだから。誰からも師匠を守れるように、もっと強くならなきゃ。
「もっと……! もっと先へ……!!!」
行き場のない怒りと焦燥感を断ち切るため、素振りをする。何千回、何万回と繰り返した動き。師匠の我流を真似したものだから、お世辞にも完成されてなどいない。でも、師匠は私の剣を褒めてくれた。
『カエデの振りは音がしないよな。滑らかで、それでいて綺麗だ』
師匠の言葉を思い出せば、痛みも疲れも耐えられる。師匠に褒められるだけで、私は今日も剣を振るえる。師匠のためなら、私は何だって出来る。
私は誓った。師匠と出会った、あの日から。今も、師匠との毎日は焼き付いて私の頭からは離れようとはしない。
あれは、私が孤児の集団に襲われた後のことだった。必死に集めた食料は奪われ、何も出来ない私は殴られ、蹴られ、そしてゴミの様に捨てられた。気付けば掃き溜めに居て、誰も頼れない私にとっては、いつもの日常だった。
「そこのお前。なんで抵抗しなかった」
「…………」
そんな私の霞んだ視界に、ギラついた眼をした大男が立っていた。180cmくらいの身長に、凝縮されたみたいにゴツゴツとした筋肉。短髪のくすんだ金髪は、彼の荒々しさを体現しているみたいだった。
「……逆らったら、もっと酷いことをされるだけだから」
「ハッ! なら、今から俺に何されようと、文句はねぇな?」
口の端を歪めたその男の手が、私に迫っていた。その言葉の意味は、何となく分かった。これから私は、この男に汚されるのだと思った。場合によっては、そのまま殺されてしまうのだと分かった。
そういう人は今まで何人も見てきた。ゴミを漁れば嫌でも死体は見つかるし、そういう仕事をしている人が殺されたという話も、聞いたことがある。その一つに、私もなるのだと悟った。
男の手が、私の肩に置かれた。その瞬間、心臓がドクッと脈動した。私は、恐怖していたのだ。
歯がガチガチと震えた。寒くて、怖くて、息が乱れた。怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い。怖くて仕方が無い。今すぐこの手を振り払って、走って逃げ出したかった。
そんな感情に弾かれるように、私は隠し持っていたナイフを突き出した。無我夢中で、ただ恐怖を誤魔化したくてそうした。
ズブリと、ナイフは彼の肩に突き刺さった。でも、浅く刺さっただけだ。彼の身体からは、ほんの少し血が垂れる程度の傷しか出来ていなかった。
「あっ……ちがっ、私は……!」
「おまえ……」
男は私の肩から手を離すと、ナイフを持った私の腕を掴んだ。その手は力強く、とても振り払えるものでは無かった。
「なんで、あの集団にはこうやって歯向かわなかった?」
「え……?」
「お前から食料を盗んだ三人組は、この辺りじゃ馬鹿にされてる連中だ。群れないと何も出来ない、お前のようなガキからしか奪えない。そういう奴らなんだよ」
「だ、だって……私には、何も無いから……」
「なら、なんで俺にはナイフを抜いた」
「そ、それは……」
「あいつらが、お前に欲情する変態だったらどうするつもりだ? あのゴミ共は、弱い奴らには何処までも残酷になれる。襲われそうになった直前でナイフを抜いても、今のお前じゃ組み伏せられるだけだぞ」
それは考える限り最悪の出来事だった。今の様にナイフを出して、一人くらいなら何とか出来るかもしれない。でも、後の二人はどうやっても無理だ。押さえつけられ、怒りのまま暴力と欲望をぶちまけられる。きっと、私は死ぬだろう。
「何もしなかったら、また次も同じことになる。いつかは、あいつらにもそういう発想が湧くかもしれない。お前は、それで良いのか?」
「っ……!」
そんなのは嫌だ。嫌に決まっている。こんな怖い思いは、もう絶対にしたくない。
「嫌だよな? なら、戦え。お前はただ奪われるだけじゃないと、あいつらに思い知らせてやれ」
「で、出来るならとっくにしてる!」
「いや、違うな。お前は諦めただけだ。自分は子供だから、誰の力も借りられないから仕方ないと勝負を降りたんだ。だから、立ち向かうことなく受け入れた」
「っ……! お前に、何が……!」
突き立てたナイフに力が籠もる。少しずつめり込んでいく刃からは、男の血が滴ってきていた。それを見た男は、満足げに笑った。
「やりゃあ出来んじゃねぇか。そうだ、それで良い。嫌なら怒れ、抵抗しろ、最後まで諦めんな。お前の命を、お前が見捨てるな」
「うる……さい! この変態!」
「痛ッ……! おま、そういうことを大声で言うな! 誤解されんだろ!」
恥ずかしそうに顔を赤くするその顔を見て、私は分かった。というか、最初から気付くべきだった。彼に、私を害する気など微塵も無かったのだと。
そもそも、私に強引に迫るのなら声を掛けたりはしない。黙って襲って、暗がりにつれて行けば良いだけだ。わざわざ問いかけたりなんて、する意味が無い。
「マジで痛ぇ……これじゃあ、またケイトに怒られちまう」
彼は肩に刺さったナイフを抜くと、私を手招きした。正直、まだ怖かった。
「はぁ……いいから、ちょっと来い」
「い、いやだ……」
「分かった分かった。なら、そこで見てろ」
男はそう言うと、近くに落ちていた石を拾い上げた。それを握りしめ、大きく振りかぶって石を投げる。その石は近くの壁に当たると、ドゴッという音と共にそこへめり込んでしまった。
「ここまでは出来なくても、頭に上手く当てれば一人は落とせる。たかだが石一つでな」
「……そんな上手くはいかない」
「だろうな。だから、上手くいくように色んなモンを積み上げんだよ。それは当てる努力でも、当たりやすくする努力も一緒だ」
「…………」
その声色は厳しかったが、同時に優しくもあった。私にはこれまで、そんなことを言ってくれる人は居なかった。
「おい、お前」
「お前じゃない……カエデ」
「ならカエデ。あいつらに、一泡吹かせてやりたくないか?」
「……私に、出来るの?」
「それはカエデ次第だ。それで、やるのか?」
手が差し出される。今まで、誰もそんなことはしてくれなかった。それが当たり前で、それが悲しくて、それを受け入れた自分が嫌だった。
こんなチャンスは、もう無いだろう。ここが私の分岐点だと思った。粗暴そうで、口も悪い彼の似合わない優しさは、これから訪れることはないのかもしれない。
「やる……やってやる」
「なら、着いてこい。今から、必殺技を教えてやる」
これが、私と師匠との出会い。脳筋で、頑固で、でも人一倍優しい彼との、大切な思い出の一つだった。
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