夏の戯れ

紫鳥コウ

夏の戯れ

 ぐずる翔太も友達の姿が見えると溌剌はつらつとして、今日はスイミングスクールがあるのだということを自慢しはじめた。しかしその実、厳しい特訓に泣きべそをかくことも多く、ラジオ体操よりも行きたくないらしかった。

 夏休みの小学生のラジオ体操は、村を二分する川の上に架かる橋の真ん中で開かれていた。ラジオを流したり、スタンプをしたり、そうした役目をするのは恵美えみさんという帰省中の大学生だった。文学部の三年生だと聞いていた。

 ラジオ体操をしている子供たちの後ろから、恵美さんを見ていると、何度も視線があった。汗ばんだシャツのえりをパタパタとさせた。川の音は途絶えていた。


 翔太は友達と一緒に帰ってしまった。恵美さんは後片付けを終えると、ひとり残っている僕を橋の下へと呼び出した。影のなかにあるその場所は、僕たちを全く別の何者かにしてしまった。恵美さんは薬指にめていた指輪をポケットの中にしまった。

 高校生であること。受験生であること。思春期を終えるか終えないかの微妙な時期にあったこと……そうしたことが、この危険な戯れに身を投じることに弁解を与えていた。

 だとしたら恵美さんは、この戯れに、どのような正当化をほどこしていたのであろうか。


 芸大を卒業したのち、眼鏡販売店に就職したというナツは、数合わせのために参加させられていた僕にばかり話しかけていた。

 唇の厚い、ふちの太い眼鏡をかけている女性で、鼻筋がスッとしていた。胸の大きさがひとつの魅力ぶきであると誇示こじしていた。しかしあまり、男性と話し慣れていないようでもあった。

 あの中で一番、男らしさを感じなかったから、僕にばかり話しかけていたのだと、夏は後になって教えてくれた。彼氏がほしくて、勇気をだして合コンに参加したのだとも。


 夏は、僕の知らない作家の小説をたくさん読んでいたし、ドラマも映画も好きだった。夏の家に行くと、彼女は僕のことを閑却かんきゃくして、ドラマを見はじめることもあった。

 そのあいだは、なにを言っても暖簾のれんに腕押しだった。仕方がないから、本棚から適当に文庫本を引き抜いた。

 だけど、ドラマが終わると、読むのを止めさせられるから、物語の核心にたどりつけないことは度々たびたびだった。僕は、読書に慣れていなかった。


 或る月夜。群青ぐんじょうの静けさが張りつめた彼女の部屋のベッド。

 身体で愛し合った後ということもあり、とても疲れていた。彼女と身体を重ねる度に、あのことを思いだす。あの戯れのことを。


 倦怠けんたいと心労を長く味わった末に、夏とは別れた。

 彼女が選んでくれた眼鏡を、新しいものに変えたとき、見えるものすべてが、鮮やかになったのを感じた。そしてその瞬間ときに、夏のことをあきらめることができた。未練もなくなり、しばらくは恋をしなくていいという気分になった。

 それからも、たくさんの本を読んだ。教員として立派なことだと同僚に言われた。しかし、職業柄という理由で読んでいるわけではなかった。何かをそこに求めていた。その「何か」がなんであるのかは、いつまで経っても分からなかった。


 ふと思うことがあって、大学に入り直した。

 フィールドワークのために、サヘル地域に、二カ月ほど滞在した。はからずもそれが、人生の転機となった。

 卒業論文を書いたあと、大学院へと進んでしまった。

 海外のジャーナルに論文を投稿したり、学会発表をこなしたりしていくうちに、このまま、研究職に就くことになるのだろうと、予感するようになった。どこか適当な大学に、籍を置くことになるのだろうと。


 はたから見れば、順風満帆じゅんぷうまんぱんな研究生活の最中さなかに、父の死があり、郷里くにへと戻ることになった。盆正月さえ帰らなかったところへと。

 実家にいるあいだ、あの橋を一度も渡ることはなかった。近付こうともしなかった。しかし、橋の下をのぞいてみたいという衝動に、幾度いくどとなく僕はさいなまれた。



 〈了〉

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