因蛾

暇崎ルア

因蛾

虫を殺した。蠅や蚊に効くスプレーを数吹きしたら、ちゃんと死んだ。

 蝿でも蚊でもない、二枚の三角形の羽を背に持っていた。多分、蛾だ。蝶は夕方になると眠ってしまうから。

 ガラス窓にその子は止まっていた。その子と隔たれている空間にいた私には、細い足が見えた。

 ひっくり返した虫の身体、裏側は醜悪である。人間よりも多い足が生え、互い違いの方向にうじゃうじゃと蠢くのを見てしまうとどうにも虫唾が走る。

 ――敵だ、お前は敵だ。

 ふつふつと怒りが沸いた。私が今いる部屋を出るとき、絶対にこの生物はじっとしていてはくれないだろう。

 ドアを開け、窓ガラスに未だひっついているその子を手で払った。羽を小刻みに動かしながら、ばたばたと逃げ回る羽虫へのいらだちが頂点に達し、スプレーのノズルを押した。

 少しの間天井近くを飛び回っていた蛾は、徐々に高度を下げていき、やがては地に落ちた。

 さすがにかわいそうなことをしたかもしれない。薬剤を吸った蛾は、どんな風に苦しんだのだろう。眩暈や吐き気がしただろうか? 宙を駆けまわるための羽から力が抜け、自分の身体が徐々に落下していく絶望感を味わっただろうか?

 同情したせいか、気分が悪くなった。いつも注文するものより大きいサイズのカフェラテと濃い緑茶を飲んだせいだ、と必死に言い聞かせた。


「あっ、虫」

 まだ太陽が空高い昼過ぎの喫茶店、仕事で打ち合わせをしていた相手はこちらに腕を伸ばし、肩あたりでさっと手を振った。

「誰か刺されてたらいやですね」

「いや、蚊より大きかったな。飛び方も蛾みたいでした」

 耳を疑った。

「でも、まだ明るいですもんね。違う虫かな」

 相手は曖昧に笑ったが、動悸は止まらなかった。

 それからずっと、私の背後には蛾がつきまとっているらしい。友達、職場の同僚、家族、私の背後で蛾を見る。

「うわ、蛾だ」

「大きい虫がいるよ」

「あんた、森にでも行ってきたの? そんなでっかい蛾連れて」

 私には見えたことがない。私と会った誰かにしか見えず、その人が手ではらったら、どこかに飛び去ってしまうからだ。

 皆、私と会えば一様に顔をしかめる。汚いもの、気持ち悪いものでも見るかのように。そのたびに私は、自分が醜悪なものになったような気分になる。

 手で確かめても異物は感じられないのに、今も後頭部から背中にかけてが痒い。繊維質のものがいつまでも肌の上を這っている。

 これはお前の祟りなんだ。そして、お前はこれからも私を解放してはくれないんだね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

因蛾 暇崎ルア @kashiwagi612

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ